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夏の終わりのワイドショーについて。

夏の終わりが近づくと、テレビは判で押したように同じ色に染まる。

極太の明朝体、赤や黄色で点滅する「過去最大級」。フードを飛ばされそうになりながら絶叫する若手記者の中継。もはや風物詩と化したこの光景に、胸に去来するのは自然への畏怖ではなく、白けた徒労感である。

言葉には相場があると思う。

十年に一度の破局にこそ使うべき語彙が、毎夏何度も安売りされれば、警告は重みを失う。オオカミ少年の寓話を持ち出すまでもなく、鳴りっぱなしのサイレンはやがて生活ノイズとして遮断される(もっとも、2018年の台風21号や2019年の台風19号のように、実際に甚大な被害をもたらした年もあった)。

同じ免責の構造は、台風の専売特許ではない。

「どこそこで35度を超えました」という真夏日の速報連打も、視聴者に「日本全国が今年も異常な暑さだ」という一枚岩の実感を刷り込む。

しかし2026年の夏は、九州北部や中国地方、北海道で記録的な高温となった一方、全国ニュースの発信源である東京都心の夏平均気温は平年比わずか+0.3℃、8月に限れば平年を下回るという、地域差の極めて大きい夏だった。

西日本の突出した数値をそのまま「日本の夏」の代表値として編集し、視聴者自身の体感とは無関係に危機感だけを均質に配信する。そのうえ気象庁自身の発表資料が、個々の高温の要因を偏西風の蛇行やチベット高気圧の張り出しといった、その年ごとの大気の巡り合わせとして説明しているにもかかわらず、報道はその複雑な要因分析をすっ飛ばし、「地球温暖化のせい」という一言に短絡させる。

検証を経ない因果の単純化は、「過去最大」の連呼とまったく同じ免罪符でしかないように思う。

この過剰な煽りの正体は、純粋な防災意識であるならば文句はない。しかし私が見るのは、メディアの経済合理性と責任回避という俗っぽい欲望である。

台風報道も猛暑報道も、制作コストは低い。気象庁のデータと定点カメラ、あるいは温度計の数字を並べるだけで特番枠が埋まる。しかも「明日の電車は動くか」「外に出て大丈夫か」という生活防衛の関心から誰も逃れられず、視聴率は跳ね上がりやすい。

とりわけ罪深いのは、昼のワイドショーである。

地方テレビ局発の情報ワイドショー番組は、台風接近や猛暑日を数日前から連日トップで扱い、防災や気象の専門家でもないコメンテーターに恐怖を語らせ、視聴者の不安をそのまま娯楽として消費させているように見えて仕方がない。

速報性と正確さを競う夜のニュースに比べ、昼のワイドショーは「共感」と「感情の煽り」を売り物にする分、危機の演出がより恣意的になりやすい構造があるのだろう。

さらに狡猾なのは免責の力学だ。

危険を小さく見積もって被害が出れば致命傷になるが、最大限煽って何も起きなければ誰も責任を問われない。「何もなくて良かったですね」の一言で全てが美談になる。重要なのは生活者への最適解の提示ではなく、将来の批判に備えたアリバイ作りである。

その裏で、野外フェスなどの屋外イベントは開催前から中止を迫られ、飲食店はシャッターを下ろし、計画運休で人々の予定は引き裂かれる。社会全体がゼロリスク信仰に呑まれ、経済と日常を過剰に止めてしまう。その損失にメディアが責任を取ることは勿論ない。

結末は虚しい。

都市の生活者は肩透かしに慣れて警戒を解き、本当に切迫した被災地の声は列島を覆う金切り声に埋もれていく。そしていつか、オオカミ少年となったメディア自身が、決定的な信用の失墜という代償を払う日が来るのではないか。

台風一過の不自然な青空の下で見るべきは、荒れ狂う自然ではない。恐怖を売り捌き、他人の日常を消費する、薄っぺらな茶番劇であってはならないと思う。

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