ただサザエを食べたかっただけなのに
私は台所に立ち、サザエを前に絶望していた。
このゴツゴツした殻から、いったいどうやって身を取り出せば良いのだろう。道具もない。知識もない。経験もない。
それなのにいったい誰がサザエなんて買ってきたのだ。
もちろん私だ。
仕事の帰りにスーパーへ寄ったらサザエが売られていた。そこには10年程通っているが今まで見たことはなかった。物珍しさに身を乗り出す。価格は500円とある。それが高いのかお得なのかも分からないが、「お刺身で食べられる」と書いてあるので新鮮なのだろう。
なにを隠そう私は貝が大好物である。
はま寿司に行っても、かっぱ寿司に行っても、貝類ばかり食べている。歯が折れそうになるくらいコリコリとした食感が好きで、つぶ貝と赤貝をローテーションで注文する。それに飽きたらホタテでお口直しをするので、本日のおすすめのマグロには目もくれない。
ここまでくると、楠木まるではなく、楠木かいというペンネームにすればよかった。
そんな楠木かいは、意気揚々とサザエをカゴに入れた。
家で大好物が食べられるなんてラッキーだ。今日は朝から仕事でトラブルが続き、お昼ご飯がのどを通らなかった。これくらいの贅沢は許されるだろう。終わりよければすべて良し。すっかりご機嫌になり帰宅した。
エコバッグからサザエを取り出す。殻が猛々しくラップを突き破りそうな勢いだ。鼻を近づけると磯の香りがした。夏を感じる。
「ようこそ我が家へ」
ラップを外し、サザエをまな板の上にのせた。
さて、これはいったいどうやって食べるのだ。
今まで海の家などでサザエのつぼ焼きを食べたことはある。網にのせてパチパチと音を立てながら炭火で焼いていた。我が家にあるのはガスコンロとフライパンだけだ。これで焼いたら、サザエより先にフライパンが悲鳴をあげそうである。
待てよ。茹でるという方法もある。それなら安全かもしれない。しかし、サザエの中に詰まった旨味がお湯に溶け出してしまいそうだ。それはもったいないではないか。
ひとまず身を取り出してみよう。
話はそこからだ。
でも、どうやって?
困ったときのYouTube先生だ。「サザエ 剥き方」と検索すると、頼りになりそうな動画が出てきた。
手元しか映っていないが、日焼けしていて指の関節が太い。見るからに海の男である。荒波の中でいろんな魚と向き合ってきたのだろう。きっとサザエを剥くなんて朝飯前だ。目をつぶっても剥けるに違いない。
サザエは内側の貝柱が殻にくっついているため、洋食ナイフやスプーンの柄を差し込み、くるっと回すと身が取れるらしい。動画では気持ちいいほどするりと出てきた。これなら初心者の私にもできそうだ。
我が家には洋食ナイフという洒落たものはないので、スプーンを手に取る。
サザエのフタと殻の隙間に差し込む。おしりの肉をガードルへ押し込むように、ぐっと力を入れる。よし、入った。手首を勢いよくまわす。あれ?もう一度まわす。あれ?
出て、きませんね。
何度やってもびくともしない。まるで、お菓子を買ってもらえないと分かったときの姪っ子のようだ。頑なに動かない。そういうときは「もう分かったよ」と降参してお菓子を買ってあげるのだが、サザエに何を差し出せば機嫌を直してくれるのか分からない。
時計が鳴った。もうすぐ夫が帰ってきてしまう。
おかずがサザエだけでは足りないのでゴーヤチャンプルーを作る予定だったが、はたして間に合うのだろうか。
焦りと暑さで汗が噴き出してくる。
ぬぐうのももどかしく、Tシャツを脱いでタンクトップになる。私はさっきからいったい何をしているのだ。シャワーも浴びず、洗濯物も取り込まず、髪を振り乱しながらずっと台所にいる。我に返ったら情けなさが押し寄せてきそうなので、目の前のサザエだけに全集中した。
スプーンに力をこめて回してみるも、身は一向に出てこない。スプーンも傷だらけだ。IKEAで買ったお気に入りだったのに。こうなったらフォークを差し込み、力づくで取り出すことにしよう。
鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス。
出てこぬならこじ開けてしまおうサザエギス。
フォークの力で引きずり出された身は、ふちが淡いオレンジ色で親指くらいの大きさだった。ひとくちで食べられそうだ。この大きさでは、火を通したら小指サイズになってしまう。
よし!お刺身で食べよう!
家で一番切れ味の良い包丁を取り出し、サザエを切っていく。貧乏性が発動し、生ハムくらい薄切りにしたかったが、私の技術では7切れが限界だった。
夫のお皿に3切れ、自分のお皿に4切れ盛りつける。
汗だくで奮闘したので許してほしい。
