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ショートストーリー          『手紙』

桜を見た帰り。バーは静かだった。

棚に並ぶ琥珀色の瓶が、
鈍い灯りを受けてぼんやりと光っている。
氷の溶ける音だけが、小さく響いていた。

「飲みすぎですよ」

妻の理沙(30)が苦笑しながら、
夫の土岐田修(ときた おさむ)(35)のグラスを遠ざける。

「今日くらい、いいだろ」

修は笑った。

仕事で嫌なことが続いていた。
そのせいか、いつもより酒が進んでいた。

頭は少しぼんやりしている。

それでも、こうして理沙と飲む時間は嫌いではなかった。

その時だった。

カウンターの端にいた酔った男が、
ふらつきながら近づいてきた。

「綺麗な女だな」

酒臭い息が混じる。

修は無視した。

だが男は笑いながら、理沙の肩へ手を伸ばした。

「やめてください」

理沙が身を引く。

男はさらに腕を掴んだ。

その瞬間、修の中で何かが切れた。

酒で鈍っていた理性が吹き飛ぶ。

拳が男の頬へ入った。

男はよろめく。

そこでやめるべきだった。

だが修は止まれなかった。

もう一発。

男の身体が後ろへ倒れた。

カウンターの角。

鈍い音。

男は倒れたまま、動かなくなっていた。

       * * *

土岐田修の判決は懲役四年だった。傷害致死。

法廷で判事の声を聞きながら、修は自分の拳を見つめていた。

理沙は傍聴席で、静かに泣いていた。

最初で最後の面会で、修は受話器を握ったまま言った。

「面会には来ないでほしい」

理沙が小さく息を呑む。

修は俯いたまま続けた。

「こんなみじめな俺を、お前に見せたくない」

沈黙が落ちた。

やがて理沙は静かに頷いた。

「……わかりました」

それから少し間を置いて、

「その代わり、毎週手紙を書きます」

と言った。

       * * *

刑務所の冬は冷えた。

無機質な壁。決まった時間。決まった飯。

眠っても、男が倒れる音だけは耳から離れなかった。

だが毎週水曜日になると、一通の手紙が届いた。

 あなたへ

 辛い毎日だと思います。

 でも、

 私は毎日、

 あなたの無事を祈っています。

 帰ってくる日を、

 待っています。

修はその手紙を何度も読み返した。

消灯後、薄暗い灯りの下で、
擦り切れそうな紙へ何度も指を滑らせた。

 あなたへ

 あの日のことを、

 何度も思い出してしまいます。

 でも、あなただけが悪かったとは、

 私にはどうしても思えません。

 だから、ちゃんと償って、

 また帰ってきてください。

つらい日もあった。

何もかも投げ出したくなる夜もあった。

それでも手紙だけは何度も読み返した。

理沙が待っている、その事実だけが修を繋ぎ止めていた。

       * * *

四年間。

修は一度も心を折らずに、出所の日を迎えた。

灰色の門が開く。

春の風が吹いていた。

修は小さく息を吐いた。

だが、待っていたのは理沙ではなかった。

白いコートを着た女が、一人立っていた。

見覚えのない顔だった。

女は深く頭を下げる。

「……はじめまして」

修は眉をひそめた。

「奥様の友人の南雲杏子と申します」

修は何も言わない。

南雲は視線を落とした。

「奥様は二年前に、亡くなられました」

修の呼吸が止まる。

「……何を言ってる」

「そのあとも、手紙は私が書いていました」

言葉がすぐには理解できなかった。

「奥様に頼まれていたんです」

「亡くなったあとも、手紙だけは続けてほしいと」

春の風が吹いた。

修は何も言えなかった。

南雲は鞄から古びた封筒を取り出した。

「出所した日に渡してくださいと預かっていました」

「これだけは亡くなる直前に書かれた奥様の手紙です」

南雲は封筒を差し出した。

修はそれを受け取ると、
 
震える手で封を切った。

 あなたへ

 私は、

 拡張型心筋症という病気になってしまいました。

 もう長くは生きられないそうです。

 ごめんなさい。

 本当は、

 もう一度会いたかった。

 でも、

 あなたが決めた約束を、

 私は最後まで守りたかったんです。

 だから、

 南雲さんにお願いをしました。

 会えなくて、ごめんね。

 これからは、

 あなたの人生を、

 素晴らしいものにしてね。

 それだけが、

 私の願いです。

修はしばらく俯いていた。

唇を噛み、何度も頷いた。

「理沙……」

声が震える。

「……あの手紙がなかったら、俺の心は折れていた」

手紙を握る指に力がこもった。

やがて修は顔を上げる。

「南雲さん」

「はい」

修は手を差し出した。

南雲は少し驚いたあと、その手を握る。

「理沙があなたを頼った理由が、今なら分かります」

修はそう言って、わずかに目を伏せた。

「……ありがとうございました」

それだけ言うと、深く頭を下げた。

南雲は静かに首を振る。

「私は奥様との約束を守っただけです」

しばらく沈黙が落ちた。

やがて南雲が尋ねる。

「これからどちらへ?」

修は空を見上げた。

春の陽射しの向こうに、桜の気配が揺れている。

「理沙の好きだった桜を見に行きます」

春風が吹いた。

修は手紙を胸にしまい、歩き出した。

四年ぶりの春は、少しだけ暖かかった。



あとがき

昔読んだ『一切れのパン』という作品が、
ずっと心に残っていました。

人は、たった一つの希望だけで生きられることがある。

そんな物語を、自分も書いてみたいと思ったのが、
この『手紙』を書くきっかけでした。

修にとって、
毎週届く手紙は、
四年間を生き抜くための光だったのだと思います。

最後まで読んでくださり、
本当にありがとうございました。


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