見出し画像

⑨『水底の墓標—足羽川ダム』終章:山川草木悉有仏性 —— ダムの底から響く、永遠の命の循環

終章:山川草木悉有仏性 —— ダムの底から響く、永遠の命の循環

ダムの建設工事が続く谷間には、相変わらず冷たい風が吹き抜け、重機の稼働音が響き渡っている。重機の硬い金属音が岩を砕く響きと、それに応えるかのように山々から返ってくる柔らかな木々のざわめき。 すべてがコンクリートで覆われ、かつての生活の跡や歴史の記憶が一時的に水の底へ沈もうとも、この大地の営みそのものが消え去るわけではない。

主人公は、ダムの堤体を見上げる丘の上で、ゆっくりと目を閉じた。耳を澄ませば、人工の騒音の向こう側から、幾重もの声が聞こえてくる。それは、かつて足羽川の急流に挑んだ継体大王の息吹であり、深山の杉木立で風の音に耳を澄ました道元の祈りであり、泥まみれになりながら生きる誇りを失わなかった蓮如の教えの響きであった。

そして何より、この土地で生きて死んでいった名もなき人々の、生活の体温そのものであった。 コンクリートの冷たい匂いを吸い込みながら、土の匂いや水の気配が混じり合う。主人公はふと、自らの内にある「恐れ」の正体に気づく。自然を御そうとする傲慢さと、それが崩れ去ることへの拭いきれない不安。人間は、その弱さゆえに設計図を引き、巨大なコンクリートのシステムを造り、自然をコントロールしようとする。

そのままならぬ煩悩を抱えたままの生を懸命に紡ごうとする姿こそが、人間の偽らざる姿なのだ。 しかし、システムという鎧を纏いながらも、抗えぬ自然の猛威や時の流れに翻弄される自らの限界を認めたとき、彼は初めて、諦念を超えた大いなるものへの畏敬を胸に宿した。常に自然の大きな循環の中に身を置き直さなければならない、と彼は強く思った。この無機質な構造物も、湿った土の香りも、すべては等しく大地の営みなのだから。

「山川草木悉有仏性」 この世界に存在するすべてのもの――人間の手で造られた巨大なコンクリートさえもが、長い地球の時間軸の中ではやがて風化し、土に還り、再び草木を育てる養分へと変わっていく。 私たちが恐れる「水没」も、そして失われていく記憶も、その痛みすらも、すべては大いなる自然の循環のワンシーンに過ぎない。

主人公は目を開き、目の前に広がる重層的な谷の風景を見据えた。 過去の歴史にすがることも、未来の不安に怯えることもない。今、この瞬間の「而今」に立ち、目の前にある現実のすべてを抱きしめて生きる。

イノシシや猿が境界を越えて現れるこの世界で、人間もまた自然の一部として、その足元をしっかりと踏みしめて歩み出す。 コンクリートの壁の向こうにどんな未来が待ち受けていようとも、この大地に刻まれた精神の地層は消えない。

風が吹き抜け、木々がざわめく。すべての命が仏性を宿し、今、新たなる時間が静かに動き始めていた。 主人公は、ダムの向こう側に広がる深い森と、その先に続く未知の地平へと視線を向けた。朝日が山稜を黄金色に縁取り、無機質なコンクリートの壁を鈍く照らし出す。すべてを包み込むような静寂が谷を満たしていく。その光の中へ、確かな足取りで坂を上り始めた。
 


いいなと思ったら応援しよう!