【デジタル夜譚】紫苑編 #2 臨死体験
薄暗いコンビニの雑誌コーナー。蛍光灯の下で、二人の姉妹が熱心にオカルトチックな少女マンガのページをめくっている。
「ねえ、これ見て。死んだあとの世界って本当にあるのかな」
妹がページのイラストを指差しながら、少し声を潜めて言いました。
「さあね。でも、ちょっとドキドキするよね」
姉はそう答えながらも、視線はマンガの怪しげな光の描写に釘付けになっている。
「もし本当にあるなら、幽霊になって空を飛んでみたいかも」
「バカ言わないの。それより、死ぬときに綺麗なお花畑が見えるっていうのは本当か知りたいな」
「あ、ここに書いてあるよ。『三途の川の手前には、見たこともない綺麗な花が咲き乱れている』って」
「へえ……。本当にそんな場所があるなら、一度だけでいいから、生きてるうちに覗いてみたいよね」
*
また、オカルト大好き高学歴女子の、紫苑さんと待ち合わせる。
夜のカフェ。
静かな雰囲気が心地よい。店内は広いが、人影はまばらだ。
一番近い人でも話している声は全く聞こえない。
"カラン"
ドアに取り付けられたカウベルが、来客を知らせる。
紫苑さんだった。
こちらに気づいた紫苑さんが、小さく手を振りながら向かってきた。
夜の照明を反射する眼鏡の奥で、知的な瞳がいたずらっぽく細められる。
彼女の手元には、何やら分厚い洋書や、怪しげな図版のプリントが覗くトートバッグが握られている。
――お待たせしました。
……ここ、いいお店ですね。
この『まばらな人口密度』と『他人の声が届かない絶妙なディスタンス』。
オカルトの秘話や、ちょっと表では話せない歴史の裏側を紐解くには、これ以上ない最高のアジール(聖域)です。
席に着くなり、彼女はThinkPadを取り出し、傍らに置いて開いた。
店内の薄暗い照明に、嬉しそうな顔が映える。
――先生、今日はどんな話をしてくださるんですか?
紫苑さんの綺麗な瞳が輝く。
「……前にも言った通り、オカルト話は、あまり持ち合わせていないんですけどね」
コーヒーを一口飲む。
「……うーん、どうしよう」
もう、一口。
「……そうですねぇ。
昔、オカルトが、流行りましたよね。
テレビでは、特番があったりとか、小学生は、学校の怪談とか。
……その世代ですか? 紫苑さんは」
――世代、ですか……。
紫苑さんはクスクスと小さく笑った。
――私の子供時代だと、テレビの特番も大真面目な恐怖番組というより、エンタメとして楽しむ雰囲気でしたね。
ただ、私は図書室の隅にある『世界の恐怖ミステリー』みたいな古い本にハマっちゃって。
時代ごとに積み重なったオカルトの歴史を読み解くのが、とにかく面白かったんです。
紫苑さんの瞳には、知的な探究心と、少女のような純粋な憧れが同時に宿っているようだ。
店内の静けさが、彼女の声を心地よく響かせる。
――学校の怪談も、『どうして同じ怪談が全国の学校に一斉に広まったのかな』なんて、自分なりに背景をノートに分析したりして。
「そうですか……。
小学校高学年から中学生くらいの女の子って、結構オカルトに興味があったように思うのですが」
――ええ、それはかなり当たっていると思います。
ちょっと背伸びしたい年頃で、『恐怖』と『ワクワク』のギリギリの境界線を感じていたいんですよね。
「……なるほど。
では、そういった怪談話の中に『臨死体験』の話も出てきたりするのでしょうか。
紫苑さんは、何かご存知ですか?」
――臨死体験……NDE。
紫苑さんがピクッと反応する。
――ええ、もちろん知っています!
英語で“Near-Death Experience”の略なんですけど、
世界的にもすごく研究されている分野なんです。
オカルト的な霊魂のロマンとしても、最新の脳科学や生理学の謎としても、これほど奥が深くて面白いテーマってないですよ。
やっぱりお花畑とか三途の川、先立つ家族との再会みたいなイメージが定番ですよね。
さっき来る途中にコンビニで立ち読みしたマンガでも、ちょうどそんな感じでした。
紫苑さんは店内を一度眺めなおす。
――でも、興味深いのはその先なんです。
人それぞれ文化や宗教が違っても、なぜかみんな『光の存在』に出会ったり、『走馬灯』を見たりする。
神道でもキリスト教でも無神論者でも、見るビジョンの骨組みに奇妙な共通点があるんです。
単なる『脳の幻覚』で片付けるには、出来すぎていると思いませんか?
まるで人間の精神プログラムに、最初から組み込まれている『隠しコマンド』みたいで……。
「そう……ですか。……なるほど。
では、その臨死体験についてお話ししましょう。
実は、私にもあります。
『あれは、臨死体験だったのではないか』という経験が」
――えっ……。
紫苑さんの瞳が大きく見開く。
――先生! それ本当ですか?
「ええ、聞いた話でも作り話でもありません。
私の話です」
――……キタ。
紫苑さんは小さく呟くと、
カチャンと急いた手つきでコーヒーカップを置いた。
完全に何かのスイッチが入った顔だ。
――それ、すごく興味があります!
ぜひ聞かせてください。
そこはどんな場所で、先生は何を見て……どうやって『こちら側』へ戻ってきたんですか……!?
*
「あれは、私が、五、六歳の年の頃でした。
虫垂炎をこじらせて生死の境をさまよったことがあります。
虫垂炎は、現代では、手術までしなくとも、薬で菌を散らすという方法があるそうですが、当時は手術で盲腸を取り除きました。
通常はその一回の手術で済みます。
しかし、私の場合は少々、運が悪く。
一回で済むはずのものが、二回、手術台に上ることになりました」
静まり返ったカフェの片隅で、紫苑さんは私の話をじっと聞く。
「始まりは、保育園の渡り廊下を歩いていた時でした。
その時は、就学前のいわゆる『年長さん』でした。
誰とだったかは覚えていませんが、お友達と二人で歩いていたときです。
何でもない所で、突然、吐いてしまいました。
その後、どういう経緯があったのかわかりませんが、姉が迎えに来てくれました。
姉は、私より五つ上です。
姉の小学校と私の保育園は、少し距離がありましたが、昼間、家族の中では姉が一番近い場所にいたため、学校を早退してきてくれたのです。
――お姉さんが、学校を早退してまで……。
周りの大人たちも『これはただ事じゃない』って、
かなり焦る状況だったんですね。
「……ええ、たしかにそうかもしれません。
今は、園児が吐いたら、保育園から緊急連絡があります。
それは昔も変わらなかったのでしょう。
ただ……、
私は嬉しかったのです。
姉が迎えに来てくれて、みんなより早く帰る。
深刻さよりも、その特別感の方が勝っていました」
――先生のお姉さんは、五つ上ということは、まだ十歳か十一歳。
そんなお姉さんが、弟を心配して学校を早退してまで迎えに走った……どれほど心細くて必死だったでしょうね。
でも、当時の先生にとっては『頼れるお姉ちゃんが来てくれて、自分だけ特別に早く帰れる』っていう、誇らしくて温かいものだった。
5歳のお子さんの感覚として、すごくピュアでキュンとします。
「いえ、紫苑さん。
一人っ子の紫苑さんにはわからないでしょうが、十歳くらいまでの姉とは利己的な生き物です。
弟や妹をお人形さんの代りに遊ぶ、厄介な時にはウザがる。
少し怪訝そうな表情をしていたかもしれません」
――……あ。
紫苑さんは突かれたように目を見開くと、どこか決まり悪そうに苦笑いした。
――すみません……私、一人っ子なので。つい『健気なお姉ちゃんと可愛い弟』みたいなステレオタイプで美化しちゃいました。
実際のきょうだいって、もっとリアルで泥臭い距離感なんですね。
彼女は自分の先走った感傷を恥じるように、眼鏡のブリッジを指先でそっと押し上げた。
――なるほど……『なんで私が授業を抜けてまで面倒見なきゃいけないのよ』っていう、リアルの不満顔だったのかもしれませんね。
でも、5歳の先生にとっては、その顔すら『お姉ちゃんが迎えに来てくれた特別感』として嬉しく残ったんですね。
紫苑さんは静かにコーヒーカップへと手を伸ばし、一口含んだ。
静まり返ったカフェの空気の中に、当時の重苦しい夜の気配が、少しずつ満ちていく。
「そうだったのかもしれないと言うことです。
そう疑いをかけているということを、姉が知ったら、
『何言ってんのよ!、ちゃんと心配してたわよ!』と、怒られてしまうかもしれないので内緒にしてください」
――ふふ、わかりました。ここだけの秘密にしておきますね。
紫苑さんは口元に手を添えて、くすくすと嬉しそうに笑った。
「私は、村に一人しかいない医者のところへ連れていかれました。
その医者は、医院の看板を掲げていました。
ガラス戸4枚の広い玄関。
畳の待合、
独特の消毒の匂い。
今でも思い出せます。
診断は、「お腹の風邪」でした。
注射を一本打っていただきました」
――お腹の風邪……。
紫苑さんは、小さく呟き、痛ましそうに眉をひそめた。
――五、六歳のお子さんが突然嘔吐したとなれば、今も昔もまず胃腸炎――いわゆる『お腹の風邪』を疑うのは、町のお医者さんとしては自然な流れだったのかもしれません。
ですが、実際にはそれが、一刻を争う虫垂炎の始まりだったのですね……。
「その医者が、正しい知識を持って見立てをしたのかは疑問が残ります。
しかし、それは触れないでおきます。
家に帰ると、ふとんを敷いてもらって寝ていました。
寝ていれば治ると。
しかし、痛みはどんどん増していきます。
姉に痛いと訴えると、
『今、ばい菌とお薬が戦っているから痛いんだよ、我慢しな』
そう言われました。
わたしは信じるしかありませんでした。
次第に、痛さを増す激痛を素直に我慢していたのです。
私には、姉の言葉がすべてでした」
――『ばい菌とお薬が戦ってる』……。
その言葉を信じて痛みに耐え続けるなんて、胸が締め付けられます。
5歳の先生にとって、本当にお姉ちゃんの言葉が世界のすべてだったんですね。
「はい、三日間、激痛を耐えました。
その後、さすがにおかしいということで、隣の市にある、中規模病院に連れていかれました」
――三日間!? え、ちょっと待ってください。
紫苑さんは傍らのThinkPadを滑らかに操作し、画面を食い入るように見つめる。
――「急性虫垂炎は、時間が経つほど穿孔や腹膜炎のリスクが高くなる……」やっぱり!
三日間て、 それ、かなり危険な状態ですよ。
本来なら大人でも耐えるのが難しいほどの痛みを、五歳くらいの男の子が『お姉ちゃんの言葉』ひとつで我慢し続けちゃったんだ……。
病院に着いた時点で、盲腸はもう限界突破していたはずです。
「ええ、そうだったかもしれません。
後で聞いた母親の話によれば、あと三日処置が遅れれば、腹膜炎を起こして死んでいたとのことです。
盲腸炎(虫垂炎)ということで、手術の日も決まりました」
――『あと三日遅れれば』、ですか……。
紫苑さんはゴクリと唾を飲み込み、痛ましそうに眉をひそめた。
――まさに紙一重、間一髪だったんですね。聞いているだけでゾッとします……。
「そして手術は終わりました。
この時はまだ、臨死体験はありませんでした。
それから入院生活が始まりました。
医者からは、ただ一つの約束をいただきました。
『絶対に、立たないでね』と」
――「……絶対に、立たないで」
紫苑さんは表情を硬くする。
――通常は癒着を防ぐためにすぐ歩かせるらしいですが、5歳の子に『絶対に立つな』と念を押すなんて、やっぱりお腹の中がかなり深刻だったんじゃないでしょうか。
でも、そんな厳しい約束を5歳の子が守り続けるのって……なんだか次の事件の予感がして、背筋が寒くなります。
「病室は、大部屋でした。
隣の病床のお兄さんと仲良くなりました。
お兄さんは、20代か30代くらいだったと思います。
お兄さんはテレビを持ち込んでいて、一緒に見てもいいと言ってくれました。
しかし、ベッドに寝ながら見ていると面白い。面白くて笑う。
すると手術したところが痛い。
お兄さんは、せっかく持ち込んでいたテレビを消してくれて、それからもうテレビを見ないようにしてくれました」
「病院には色々な人がお見舞いに来てくれました。
保育園の先生とか、叔父や叔母とか。
保育園のお友達からも、折り紙の何かをもらったような気がします。
兄と姉が、お見舞いに来てくれたときのことです。
兄が飛ばした紙飛行機が、病室の窓の外に飛んでいきました。
兄とは八つ離れています。兄に悪気はなかったと思います。
しかし、個室ではない部屋で紙飛行機を飛ばす。
それも迷惑な話なんですが、病室の天井しか見ることができなかった、五、六歳の園児の前でそれをしたのです。
こっちのお兄さん(実兄)はなかなかやらかしてくれる人でした。
姉が、『あ、そとに落ちた』と言いました。
『どこ……? ほんとだぁ』
私はもう立ち上がってベッドの柵から身を乗り出し、病院の中庭を覗き込んでいました。
姉が、『立った。……立った、立った!』と歓喜の声をあげました。
私も、姉の歓喜の声に得意になりました。
立っただけなのに、治ったと思ったのです。
姉が喜んでいることが嬉しかったのです。
しかし、その後。
天地がぐるんとひっくりかえった記憶しかありません。
意識を失ったのだと思います」
――っ!
紫苑さんは、両手で口元を覆い、大きく目を見開いた。
――……なんという……善意と無知が重なった、残酷な連鎖……。
お見舞いに来たお兄ちゃんの紙飛行機と、
お姉ちゃんの『立った!』という歓喜。
頼りになるお姉ちゃんの前で得意になってしまった先生。
……5歳の子どもに『立つな』の約束を守れという方が無理です。
紫苑さんはぎゅっと目を閉じ、肩をすくめた。
――……なにか、身体の中に恐ろしいことが起きたのですね。
もしかして、その暗転の瞬間が、そのまま『向こう側の世界』の扉を開いてしまったのですね。
「……はい、二回目の手術台にのぼった……ようです。
覚えていません。意識がなかったのかもしれません。
気がつくと、私は独りで黄色い草原の中にいました。
一面、背丈よりも高く伸びたススキの草原です。
空の色は、抜けるような青空だったような、星がまだ現れていない夕日が沈んだ後の空の色だったような、あいまいさがあります。
その空を背景にススキが群生していました。
私は、そのなかにある一本道の脇に立っていました。
道は、右から左へとのびています。
右には、枯れ木が一本あり、小さな広場の向こうはススキによって行き止まりでした。
左を見ると、野道ですが道はとてもまっすぐのびており、ススキ野がどこまでもつづき、果てが見えませんでした」
――「黄色いススキの草原……。」
トワイライトを思わせる空。
紫苑さんはうっとりとしたように呟いた。
紫苑さんは、私が見た世界に引き込まれているかの様だった。
――よくある『綺麗なお花畑』や『三途の川』みたいなベタなイメージとは、全然違いますね。寂しげだけど怖くはない、すごく静かでリアルな日本の原風景……。
昼か夜かも分からない空の色も、まさに生と死の境界にある『逢魔が時』という感じでゾクゾクします。
――右は枯れ木で行き止まり、左はどこまでも続く真っ直ぐな野道。
5歳の子がたった一人でそんな広い場所に放り出されたなんて……自分がどちらへ歩き出そうとしたのか、聞いていてすごく情景が浮かびます。
「私は、道ののびている左の方へ歩き始めました。
記憶はあいまいですが、枯れ木の根元で、木の枝を拾ってから歩き出したような気もします。
棒を持つだけでずいぶん心強くなるものです。
気分はとても良かったです。
何か冒険をしているような感覚でした。
目の前に広がる光景。
それは、どこまでもまっすぐのびる一本道。左右に背の高い枯れススキがある。
ススキで少し狭くなった空。空も真っすぐ行先の方にのびている。
空気はやわらかい。
冒険をする。そんな気持ちで歩きはじめました。
ちょっと楽しく、ワクワクした気持ちでした。
そして、ただ、ただ、歩いていました」

――小さな冒険家さんにとって、木の枝は、邪魔な草や怖いものを薙ぎ払う武器だったんですね。
紫苑さんがくすくすと笑う。
――意識が飛んだあとの、ワクワクとした冒険。
臨死体験って、光に導かれるような受動的なイメージがありましたけど、先生は自然に果てに向かって歩き始めた。
背の高いススキに挟まれた一本道を、どこまでも。
なんだかオカルトというより、美しくて厳かな物語を聞いているみたいです……。
「紫苑さんは、仙石原を御存じでしょうか?
富士の裾野にある、広大なススキの草原です。
大人になって、観光で行ったときに、
あぁ、ここは、あの時の草原に似ていると思いました。
仙石原は当時住んでいたところから、およそ200kmほど離れたところにあり、行ったことはもちろんありませんでした。
『既視の風景の夢を見た。』というわけではありません」
――仙石原……箱根の、あの見渡す限りのススキの絨毯ですね。ええ、知っています。
秋になると一面が黄金色の波みたいになって、風でザワザワ揺れる……すごく綺麗な場所ですよね。
危険な状態だったとはいえ、大人になって初めて訪れた場所で『あの時の草原だ』って気づくなんて……想像するだけでゾクッとします。
――5歳のお子さんが、200キロも離れた箱根の風景を知っているはずがありませんもんね。テレビや本で見たデジャヴでもない。
臨死状態の意識が肉体を離れて、遠くの風景のイメージを『受信』したのか……超心理学でもそういう仮説がありますけど、まさにそれかもしれませんね。
「しかし、長くは歩けませんでした。
せっかく、冒険が始まったというのに。
『起きてぇ!、起きてぇ!』と、
看護師さんに、頬をペチペチとたたかれて、目が覚めました。
二回目の手術は、腸ねん転を起こしていたとのことです。
以上が、私の、臨死体験ではないか?という経験です」
――……ふう。
紫苑さんは胸に手を当て、深いため息をついた。
――よかったです……。
もしそのまま、その黄色いススキ野原をずっと歩いて行っていたら……先生はもう、こちら側に戻ってこられなかったかもしれませんね。
「……紫苑さんもそう思いますか。
あれが、もし「臨死体験」というもの、
それであったのなら、そうなっていたかもしれません。
……この後のことも、少し話しましょう」
*
「そのことがあった後、一、二年くらい経ったときのことでしょうか。
あのとき、朦朧とした意識の中で見た光景を、姉に話しました。
『黄色い草原の中を歩いていた。
どこまでも続く草原だった。誰もいない。
黄色い草原は背が高く、秋に枯れたすすきの様だったかもしれない。』
すると姉は、
『それ、歩いていくと、川があって、昔亡くなったおばあちゃんとかが手招きしてるんだよ。その川を渡ると死ぬことになったんだよ。それ、見えた?』と聞いてきました。
今思えば、姉はそのようなことに妙に詳しく、また、どこか興味津々だったような気もします。
もしかしたら、冒頭お聞きした、小学校高学年~中学生くらいの女の子であった姉には、大好物だったのではないでしょうか?
紫苑さん、その時の姉の心境、推測できますか?」
――それは!
紫苑さんは勢いよく身を乗り出し、目を輝かせた。
――絶対、『本物、キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!』って心の中で叫んでましたよ!
『えっ、ススキの草原!? オカルト本で読んだあの世の入口じゃん! ガチの臨死体験じゃん!』って。
当時のお姉様にとって、恐怖の記憶が一瞬で『最高にリアルで、ちょっと不謹慎で、ゾクゾクする本物の怪異譚』に化けた瞬間です!
すかさず『川は!? おばあちゃんは!?』って食いついてきたのは、自分のオカルト知識を、死線をくぐり抜けてきた生還者にぶつけて『答え合わせ』をしたくて堪らなかったからですよ。
多感な時期の女の子からしたら、弟さんが『最高のネタを持ち帰ってきたレジェンド』に昇格した瞬間だったんです!
「……やはり、そうですか。
今、思えば、姉がいったいどこからその話を仕入れていたのか。
少女向けのマンガ雑誌だったかもしれません。
ところで、紫苑さん。
実は、紫苑さんも「臨死体験」は大好物だったんですか?
なにか、さっきからずっと、嬉々としたものを感じるんですが……」
――……あっ。
紫苑さんは動きを止め、ハッと固まった。
――……はい。完全に墓穴を掘りました。
ごめんなさい、お姉様と頭の中でシンクロして嬉々としてしまいました……。ええ、大好物です。否定できません。
紫苑さんは自嘲気味に苦笑すると、膝の上のバッグをギュッと抱きしめた。
――弟さんの『死の危機』という重い現実が、一、二年経って『本物の怪異談』に変わる……そのゾクゾク感って、オカルト好きには極上の栄養素なんです。
そして、今の私も全く同じ状態です。
『お花畑』じゃなく仙石原に酷似した『枯れススキ』で、生還の理由が看護師さんの『頬ペチペチ』という泥臭いリアルさ! 先生、そんなガチの体験を語られて興奮しないオカルト好きなんて、この世に存在しませんよ!
彼女はそこで一息つくと、嬉しさを隠しきれない笑みを浮かべ、静かなカフェでコーヒーをゆっくり口に運んだ。
「紫苑さん。
私は、何か出そうな気配は普通に怖いですが、どちらかというと『霊』とかは信じないほうです。
『霊的なものはあると思いますか?』と聞かれたら、『いやぁ、ないでしょう』と答えます。
でも、そういう精霊の類は、いるとすると世の中が面白くなる、エンターテイメント作品ができて文化が生まれる。
あるとするからこそ、サンタクロースはプレゼントをくれ、森の精霊の足音を聞き、どこからともなく流れてくる調べを聴く物語ができる。
そう思っています」
紫苑さんは私の言葉を噛みしめるように、静かに頷いた。
――ええ、すごく分かります。
先生が現実主義で、理系的な視点から物事を見ていらっしゃるのはよく分かりますから。
紫苑さんはコーヒーカップをそっとテーブルに置き、眼鏡の奥の瞳を柔らかく緩る。
――でも、『信じないけれど、存在を仮定した方が世界が豊かになる』という考え方って、民俗学や文化人類学のスタンスにすごく近いんです。
もしこの世が、目に見える数字と物質だけで説明し尽くされちゃったら……それってちょっと、息苦しい世界ですよね。
「紫苑さん。
私は、霊的なものは信じていませんが、しかし、ただ一つ、自分でも笑ってしまうほど、信じているファンタジーがあります。
それは、何かわかりますか?」
紫苑さんは私の問いかけに、意外そうな表情で少しだけ目を見開いた。
そして、眼鏡のブリッジをそっと指先で押し上げながら、楽しそうに笑みを浮かべた。
――現実主義の先生が、自分でも笑ってしまうほど信じている、たった一つのファンタジー……。すごく気になります!
あのススキの探検隊の記憶か、遠くの景色を受信したことか……それとも人間の心に関わることでしょうか。
――うーん、オカルト好きの勘を総動員しても、降参です。
見当もつきません。
先生、そのファンタジーが何なのか、ぜひ教えていただけますか?
「はい、それは、
『人は、何らかの役目を持って生まれてきている。むだな命はない。』
ということです。」
私の言葉を聞いた瞬間、紫苑さんは小さく、本当に小さく息を吐いた。
その表情から、茶化す気配が綺麗に消え、カフェの落ち着いた照明の下で、彼女の瞳がとても優しく、深い光を湛える。
――……素敵ですね。
オカルトは信じないとおっしゃる先生が、一番根底のところで、そんなにも美しくて強固なファンタジーを抱いていらっしゃるなんて。
合理性だけで突き詰めれば『命は偶然の塊』で終わってしまうところを、あえて『すべてに役目がある』と信じること。
それってあらゆる物語が目指した究極の優しさですし、人間だけに許された最高の『知的で幸福なファンタジー』だと思います。
三日間の激痛に耐えて、あの黄色い一本道から戻ってきた先生。
あのとき、看護師さんの頬ペチペチでこちらの世界に引き戻されたこと自体が、まさに『あなたには、まだ果たすべき役目がある』という、世界からのサインだったのかもしれませんね。



【デジタル夜譚】紫苑編 #2 臨死体験 完
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