都会の唯一いいところは、美術館かもしれない
都会に住んでいて良かったと思うことは、正直それほど多くありません。
人は多いし、空は狭いし、家賃は高い。
けれど、美術館だけは別です。
名だたる作品が、ある日ふっと、こちらに来てくれる。
それは十年ほど前のことでした。
都内で開催された展覧会で、
わたしと娘は、忘れられない一枚の絵に出会いました。
その瞬間から、
私たちの「好きな絵」は、はっきりと形を持った気がします。
今日は、その話です。
いつも読んでいただいてありがとうございます。
今日は、美術館の話です。
わたしと娘は、好きな絵の傾向がよく似ています。
年に一度か二度、ふらりと美術館へ行くのが、ささやかな楽しみです。
二人とも特に好きなのが、
カラヴァッジョ。
十年ほど前に開催された展覧会で実物を見たときの衝撃は、いまも忘れられません。
とりわけ《果物籠》の葡萄。
本当に、そこに置いてあるみたいでした。
皮の張り、わずかな傷み、光を受けた透明感。
穴があくほど見つめて、
「すごいね」
「本物みたいだね」
と、何度も小声で言い合ったのを覚えています。
ずっと見ていたい感覚でした。
昨年の大阪・関西万博でも、彼の作品が来ると聞きつけました。
「カラヴァッジョ来るんだって!」
「え、マジ? 絶対行くよ」
そうしてチケットを取り、
六時間半並びました。
情熱とは、時に体力を超えるものです。
もう二度と実物は見られないかもしれない。
でも、目を閉じると浮かびます。
仰ぎ見る女性の顔。
床へ降ろされる、力の抜けたキリストの身体。
あの大きさ。あのものを言わぬ静かな重み。
カラヴァッジョは、実際に人を殺めて逃亡生活を送った人物です。
喧嘩の末に刺したとも伝えられています。
才能と人格は別物――
そんな言葉が頭をよぎります。
十数年前、屋根裏から発見されたと報道された《マグダラのマリア》も、日本の展覧会に来ました。
青白い肌、脱力した首筋、わずかな呼吸さえ止まっているような静寂。
圧倒的な画力とは、こういうことなのだと、ただ立ち尽くしました。
残酷な場面も多い画家です。
《メデューサ》、
《ゴリアテの首を持つダヴィデ》、
《サロメ》――
切断された首を描いた作品が並びます。
けれど、わたしが惹かれるのは、血ではなく、光。
果物の質感や、ガラス器の透明感、
暗闇から浮かび上がる肌の色。
彼以降、多くの画家がその様式を受け継ぎましたが、
やはり「本家だなあ」と思ってしまうのです。
そんな娘が、今年ぽつりと言いました。
「今年さあ、どこも印象派ばっかりなんだよね」
ああ、印象派。
日本ではとても人気がありますよね。
クロード・モネや、
ピエール=オーギュスト・ルノワール、
ポール・セザンヌ、
フィンセント・ファン・ゴッホなど。
山田五郎さんが解説で、
オルセー美術館が改修中で貸し出しが増えている、と話していたそうです。
なるほど、それで日本に多く来ているのかもしれません。
でも。
「行く?」
「……印象派かあ」
「今回は、いいかな」
と、二人とも静かに終了。
あくまで“わたしたちの好み”の話です。
印象派の光のきらめきが好きな方の気持ちも、よくわかります。
ただ、わたしたちは、浮世絵や、
伊藤若冲、
ジャン=フランソワ・ミレー、
レンブラント・ファン・レインなどが好き。
まあ、わたしの音楽の好みがハードロックなので、推して知るべし、です。
性格は、わりと絵に出るのかもしれませんね。
本当は今年、寺田倉庫で開催されている
サグラダ・ファミリアの設計図展示にも行きたかったのです。
建築もまた、情熱のかたまり。
でも時間が足りるかどうか。
美術館は、年間予定に入れないと自分からは行かないもの。
そして、できれば一人より、誰かと行きたい。
同じ絵の前で、
「すごいね」と小さく言い合える人がいること。
それもまた、作品の一部のような気がするのです。
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産婦人科に勤めて40年の助産師
清水智子
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