ねお・義賊『玄狐』〜「流れつくところ」
「流れつくところ」
夜の三田は、静かだった。
ビルの隙間を抜ける風が、まっすぐに流れていく。
その先に——
東京タワー。
赤い灯が、揺れて見えた。
真名は立ち止まる。
遠い昔、このあたりをよく歩いた気がする。
笑っていた記憶。
胸が高鳴った夜。
何かになれると、疑いもしなかった頃。
けれど…
思い出そうとすると、輪郭だけが残り、中身はもう掬えない。
ただ——
重さだけが、そこにあった。
理由はわからない。
諦めたのか。
手放したのか。
それとも、はじめから届かなかったのか。
真名は追わない。
風が吹く。
そのときだった。
胸の奥から、何かがほどける。
感情ではない。
涙でもない。
もっと静かなもの。
長いあいだ、動かなかった時間。
それが、ゆっくりと向きを変える。
真名は顔を上げた。
東京タワーのさらに向こう。
夜の気配の中に、橋の光が浮かんでいる。
レインボーブリッジ。
渡るための光。
ふと、言葉がよぎる。
「橋を渡って、海へ行け。」
誰の声でもない。
けれど、よく知っている響きだった。
真名は目を閉じる。
胸に、両手を当てる。
温もりがある。
それだけで、十分だった。
もう、引き留めなくていい。
過去は消えない。
けれど——
流れていく。
橋の先へ。
海へ。
やがて、すべてを抱く場所へ。
風が、真名の頬を撫でた。
やわらかな風だった。
ゆっくりと目を開ける。
東京タワーは、変わらずそこに立っている。
導くでもなく、
拒むでもなく、
ただ在る。
真名は小さく息を吸った。
そして、歩き出す。
振り返ることはない。
風は、通り過ぎていく。
どこまでも。
「……心に在る。」
夜は静かに続いていた。
―完

