国産ラム酒から国産レアアース
ラム酒(Rum)は、サトウキビの糖蜜や絞り汁を原料とした、西インド諸島発祥の蒸留酒です。アルコール度数は約40~50度(最大80度)と高く、甘く芳醇な香りが特徴です。その色や製法からいくつかに分類されますが、今回はそこには触れません。

国産ラム酒
ラム酒にはいくつかの系統があり、有名な産地もいくつかあります。中でもカリブ海周辺(キューバ、ジャマイカ、プエルトリコなど)で作られるラム酒は、あの有名船長が愛飲していたことで世界的にも有名です。
しかし、実は日本でも100年以上前からラム酒が作られています。 現在はいくつかの地方で作られており、中でも沖縄と小笠原諸島のラム酒が有名です。そこで、今回は小笠原ラムに注目します。まずは小笠原諸島の歴史を簡単に…。

イギリス支配
1830年(天保元年)、第11代将軍の徳川家斉の頃、無人島(現、東京都小笠原村の父島、以下父島と表記)にイタリア系イギリス人のマッテオ・マザロ率いる白人5人とハワイ人(ポリネシア系)25人が父島(扇浦)に上陸しました。
マザロはイギリス領事から小笠原諸島の「領事代行(首長)」に指名されており、当時北西太平洋で全盛期を迎えていた欧米の捕鯨船が利用する補給基地(寄港地)を設置するために上陸したのでした。

サトウキビ
マザロらイギリス隊は父島にカボチャやトウモロコシ、サトウキビなどの種子や苗を持ち込みました。航海中にサトウキビが乾燥しないように苦労したでしょうが、父島で植えてからは順調に生育し、彼らは収穫したサトウキビから砂糖と酒を作りました。その酒がラム酒になったのには理由があります。

小笠原ラム
沖縄や奄美群島では黒糖焼酎を作っていますが、黒糖焼酎とラム酒はどちらもサトウキビから作る酒で、製法もよく似ています。大きな違いは発酵に麹を使うかどうかです。米麹と酵母で発酵させると焼酎で、酵母だけで発酵させるとラム酒です。
マザロたちには麹の知識がなかったので、サトウキビからできた酒はラム酒だったのです。

日本政府
父島のラム酒が軌道にのった頃、日本政府はイギリスが小笠原を実効支配していると知り、1875年(明治8年)に内務大丞の田中不二麿らを派遣し、父島に「出張所」を設置しました。実は父島は1675年(4代将軍・徳川家綱の頃)に幕府が調査し、標柱を立てていたのです。日本政府はその記録を根拠に「日本が先に発見し、管理していた」と主張しました。
しかしその当時、マザロ達の他に、後から移住してきた欧米系移民約70名がすでに父島と母島に住んでいました。日本政府は彼らを追い出すのではなく、納税を免除したり、土地の所有権を認めたりすることで、日本に帰化することを承諾させました。そして翌年の1876年(明治9年)、日本政府はアメリカ、イギリスなどの主要国に対して「小笠原諸島を日本領として統治する」旨を正式に通告しました。

糖酎
正式に日本領になった小笠原諸島には本土からたくさんの日本人が移住し、サトウキビ栽培と精糖業が主産業になりました。それでもサトウキビから作る酒は焼酎ではなくラム酒でした。もっとも、当時の日本人は『ラム酒』を知らなかったのでそれを『糖酎』と呼びました。

強制疎開
時代は下がって1944年6月、太平洋戦争の戦局悪化に伴い、島民約7,000名は、青壮年男性を残して
強制的に本土へ疎開させられました。戦後は米軍の統治下に入り、1968年の返還まで住民の帰島は原則として許されませんでした。
余談ですが、1944年に島に残された15歳~60歳の男性約800人(硫黄島160人含む)は、その後アメリカ軍との激しい戦争に強制参加させられ、硫黄島での戦いでほとんどが戦死・玉砕しました。

復活
1968年に小笠原諸島が日本に返還され、島民が帰島すると「もう一度自分たちの島で糖酎を作ろう」という声が上がりました。その情熱が原動力となり、糖酎復活に向けた取り組みが始まります。
それは自分たちが飲む酒を作ろうということだけではありません。産業として、売れる酒を作ろうということでした。その想いから1989年に「小笠原ラム・リキュール株式会社」が設立され、1992年についに「小笠原ラム」の販売が開始されました。

南鳥島
話は変わりますが、父島から南東に1,200kmの洋上に、日本最東端の『南鳥島(東京都小笠原村)』があります。東京竹島桟橋から約1,860km彼方の絶海の孤島です。
南鳥島を最初に発見したのは外国人で、1864年にハワイの伝道船モーニング・スター号のゲレット船長が「マーカス島」と名付けました。1874年には アメリカの調査船タスカローラ号が初めて正確な位置を測定しました。しかし、この時点ではどの国も「領有」を宣言していませんでした。

信崎常太郎
1883年(明治16年)、イギリス船アドヴェンチャー号でコックをしていた信崎常太郎が南鳥島に上陸しました。信崎はそこでヒトを恐れない膨大な数のアホウドリを目撃しました。彼はコックだったので船の食料としてアホウドリを捕り、その羽毛が商売になると考えました。信崎は日本に帰国後にその話を周囲に語り、東京の港湾関係者の間で話題になります。
その当時、実業家玉置半右衛門が伊豆諸島の鳥島で約500万羽のアホウドリから羽毛を取って巨万の富を築き、アホウドリがほぼ絶滅した鳥島から羽毛の採取地を南大東島などに移そうとしていたころでした。東京で話題になった羽毛ビジネスの成功と信崎のアホウドリ楽園島の話は小笠原にも伝わりました。それを聞きつけたのが父島の実業家水谷新六です。

水谷新六
水谷は父島を拠点としてサイパンやグアム、トラック諸島などと交易を行う傍ら、無人島を開拓して羽毛などの資源を確保する「島師」としての顔を持っていました。当然、鳥島の羽毛で大儲けした玉置半右衛門の話に刺激を受けて、小笠原周辺で無人島を探していました。
水谷は信崎の話と海図からだいたいの検討をつけて、1896年(明治29年)の秋、帆船「天祐丸」で小笠原を出航しました。しかしアホウドリの楽園は発見できず、食料や水が尽きかけて父島へ引き返しました。 諦めきれない水谷は、同年12月に再び出航。12月3日、ついに水平線上に島影を捉え、上陸を果たしました。水谷の天祐丸に小笠原ラムが積み込まれていたのは言うまでもありません。

東京府小笠原島庁南鳥島
水谷新六は父島から23名の労働者を率いて上陸し、家屋の建設やアホウドリの羽毛採取といった経済活動を開始しました。水谷の報告・進言を受けて日本政府は1898年7月にこの島を「南鳥島」と命名し、東京府小笠原島庁の管轄に編入することを布告しました。
ところが、1902年に アメリカが領有を主張して南鳥島への上陸を試みます。しかし、日本側はすでに水谷ら日本人が定住して実効支配していることを示し、アメリカ側に主張を撤回させました。

レアアース
現在、南鳥島には一般住民は居住していませんが、 気象庁、防衛省(海上自衛隊)、国土交通省(関東地方整備局)の職員約25名が常駐し、気象観測や施設の維持管理にあたっています。そして、ご存じのように今月初め、南鳥島沖でレアアースの採取に成功しました。

もし、小笠原諸島が日本領にならなければ、また、水谷新六が南鳥島に上陸しなければ南鳥島はイギリスやアメリカの領土だったかもしれません。アホウドリには気の毒ですが、これほど実感として先人に感謝することは中々ありません。

現在、東京(竹芝桟橋) と 父島(二見港)を片道24時間かけて結ぶ貨客船『おがさわら丸』には小笠原ラムが常備してあります。それはあの有名船長の嘆きからの教訓です。
「Why is the rum always gone?」




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