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七夕伝説2.0 五── 天帝退位

前書き

本作は、芥川龍之介『猿蟹合戦』の後日譚的な語り口を参考に、七夕伝説を現代的な寓話として描いたものである。本編は、第四話にあたる「文明侵天」の後日を描いている。

下界よりもたらされた通信技術は、織姫と彦星の関係のみならず、天界全体の秩序をも揺るがし始めた。その変化を前にして、天帝はいかなる判断を下したのか……



 天帝が裁判より帰還した頃、天界には以前にはなかったざわめきが満ちていた。かつてここは、風の音すら遠慮して通り過ぎるほど、静謐を尊ぶ世界であった。神々の思考は千年単位の幅を持ち、感情は湖底の砂が揺れるような微細さでしか動かなかった。しかし、その静けさは、下界より忍び込む文明の気配によって、じわりと濁りを帯び始めていた。

天帝は、裁判の判決そのものよりも、そこから持ち帰った“速度”に心を曇らせていた。下界の文化は、すべてが早かった。思考も、愛情も、憤りも、そして要求の声も。天帝が玉座に戻るや否や、それらは漏斗を通る水のように、天界へ流れ込み始めた。

最初に変わったのは、通信の制度である。織姫と彦星が連絡を取り合うために、雲上端末が天界中へと普及した。神々は互いの心情を気軽に送り合うようになり、これまで滞りなく均衡していた心の波が、少しずつ、大きく揺れ始めた。天帝はその震えを見て、己が下した決断が、静謐の秩序にひびを入れたことを、わずかに悟った。

次に変わったのは、意見の量である。

「天帝よ、制度は古い」
「神にも選ぶ権利を」
「恋愛も、役割も、もっと自由に」

そうした声が、朝霧よりも早く、玉座へ届いた。天界では本来、誰かが意見を述べるには、百年ほどの熟慮が必要であった。声とは慎重に熟成されるものであり、感情とは長き眠りを経て、ようやく結晶するものだ。しかし、下界の“即時性”は、その眠りを短く切り詰め、未成熟の熱だけを残した。

天帝は、それらの声を押し返そうとはしなかった。
否、その余裕が、もはや天界にはなかったと言ったほうがよい。

雲上端末は瞬く間に天界の主流となった。さざ波ほどであったはずの意見は、いつしか大波となり、議論は奔流となって神々のあいだを駆け回った。民主の名を掲げれば、どんな要求も正義の仮面を得た。長く天界を支えてきた“透明な時間の流れ”は、次第に濁流の勢いに呑まれていった。

ある夜、天帝はひとり、天の池を見下ろしていた。かつて鏡のように澄んでいた水面は、いまや下界の灯りの反射で揺れ続け、静止の一瞬すら許されぬ様子であった。

「――これが、望んだ未来であったか」

天帝は心中でつぶやいた。静謐、均衡、透明な時間。天界が永きにわたり守り続けてきたものは、静かに呼吸を止めつつあった。

ついにその日が訪れた。神々は大広間に集い、まばゆい光の端末を掲げながら、次なる制度改革の議題を読み上げていた。声は高く、熱を帯び、まるで衣を焦がす火の粉のように飛び交った。天帝が姿を現すと、一瞬ざわめきがやんだが、それもすぐ、新たな要求の奔流に溶けていった。

天帝は静かに玉座へ近づき、そして背を向けた。

「――そなたらの望む世を、そなたら自身の手にゆだねよう」

その声は、誰の胸にも強く響くものではなかった。だが、かつて天界を染めていた静けさには、よく似た淡い音であった。

神々は歓声を上げた。天界が、自らの未来を選ぶ時代が始まったと信じたのだ。

しかしその裏で、長い時間をかけて磨かれてきた天界の“良さ”――静けさ、均衡、透明な時間――は、もう二度と戻らぬものとして、消えていた。

天帝は、誰にも別れを告げず、雲の闇へ歩み去った。その歩みは遅く、しかし確かであった。まるで、自らが創り上げた文明の速さに、追い立てられることを拒むかのように。




*これは、芥川龍之介の猿蟹合戦を読んだ僕が、常々理不尽さを感じていた七夕伝説をGeminiに相談しながら、芥川風に綴り直した物語です。
芥川龍之介の猿蟹合戦より文体を抽出し、七夕伝説の後日談をアレンジしてます。


→こちらから、全話読んでもらえるとありがたいです。



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