第36話 古代史 「神武東征」をしたのは高句麗の広開土王?!日本の天皇は?!
今回も「日本を含む東アジアの歴史についての非常に重要な一つの仮説」と思われることを考察していきたいと思います。
卑弥呼の時代の晩年に起こった日食により日本列島各地で大規模な反乱が起き、「ヤマト」の国は戦乱の時代に突入したものと思われますが、神武天皇としても表現され崇神天皇としても表現され応神天皇としても表現される朝鮮半島の大王は卑弥呼の属する物部氏とは度々の婚姻関係により親戚だったものと思われ、日本列島にやって来て戦乱を鎮圧してくれたものと思われます。
そして、それ以降、物部氏一族はその朝鮮半島からやって来た大王に「ヤマト」の国の大王位を譲ったものと思われますが、では、その朝鮮半島の大王が日本列島にやって来て戦乱を鎮圧し、「ヤマト」の国の大王となったのはいつ頃のことなのでしょうか?
それは卑弥呼の時代の直後ではなく、卑弥呼の時代から150年も200年も経った4世紀後半から5世紀前半の頃のことであったと思われます。
卑弥呼の時代の直後からそれだけ長く戦乱が続いたとのだと思われますが、では、その朝鮮半島からやって来て「ヤマト」の国の大王となった人物は誰なのでしょうか?
その人物は応神天皇自身と応神天皇の子とされる仁徳天皇であると思われます。
つまり、「神武東征」らしき出来事が起こったのは、応神天皇と仁徳天皇の時代なのだと思われます。
そして、ここでまた日本を含む東アジアの歴史についての非常に重要な一つの仮説と思われることなのですが、
実はその戦乱の鎮圧はかなり大規模で、日本列島の戦乱だけではなく朝鮮半島の戦乱をも平定するもので、中華から見た時の「日出処」にあたると思われる地域全域に及ぶものであったと思われます。
そして、その大規模な戦乱の鎮圧を成し遂げた人物こそが高句麗の広開土王(好太王、高談徳)であると思われ、その広開土王こそが応神天皇とその子とされる仁徳天皇と同一視された可能性があると思われます。
大規模な戦乱の鎮圧を成し遂げた広開土王は高句麗の大王というだけではなく百済の王ともなり、そして、日本列島の大王にもなったものと思われ、それ以降、卑弥呼女王も属したと思われる物部氏一族は姻戚関係にあったと思われる朝鮮半島の王統に日本の大王位を譲ったものと思われます。
そして、朝鮮半島の王統と書いたのですが、実は少なくとも部分的には中華の王統に日本の大王位を譲ったものと思われます。
このことについてはまた改めて考察していきたいと思いますが、先に考察の大概要をお伝えするとすれば、
日本皇室の起源については、高句麗王統の系図と中華の晋朝の系図が真の日本皇室の起源の系譜であり姿なのだと思われます。
※本投稿のヘッダー画像の引用:
大仙陵古墳(仁徳天皇陵)
NHKアーカイブス「大阪府堺市 古墳と刃物のまち」より
