誹謗中傷を巡り斎藤知事に“やめさせろ”と迫る — それは言論弾圧ではないのか?
はじめに
最近、兵庫県の斎藤元彦知事に対して、「〇〇への誹謗中傷をやめさせるよう呼びかけるべきだ」という声が、一部の記者や論者から上がっている。中には「それをしないなら犬笛を吹いているのと同じだ」とまで主張する者もいる。
こうした言説は一見すると“正義”に基づいた発言のように見えるかもしれない。しかし実際には、極めて危うい「言論統制」の思想であり、民主主義社会における「権力と言論の関係」を著しく歪めかねない構造を孕んでいる。
※本記事は東京ファクトチェック協会の発信ですが、前回の記事と同様に、論説や問題提起を主目的としており、純粋なファクトチェック記事ではありません。
知事に「特定の言論を止めろ」と求める危険性
まず大前提として、知事をはじめとする行政の長が、特定の言論や人物への批判を「やめるように」と呼びかけることは、言論の自由に対する重大な干渉となり得る。
なぜなら、「どこからが正当な批判で、どこからが誹謗中傷なのか」という線引きは非常に曖昧であり、主観によって大きく左右されるものだからだ。
たとえば、ある人にとっては「厳しい批判」でも、別の人には「中傷」と映る。さらに政治的に都合の悪い指摘を「誹謗中傷」とラベリングし、封じ込めようとする動きも珍しくない。
だからこそ、その判断は司法の場で冷静に行われるべきであり、行政の長が主観的に「これは誹謗中傷だからやめましょう」と発信するのは、言論統制の第一歩となる危険がある。
言論弾圧と言ってもいい。
斎藤知事はすでに「誹謗中傷防止」に取り組んでいる
加えて言うまでもなく、斎藤知事は既にSNS上の誹謗中傷問題に対して、普遍的・一般的な視点から「やめるべき」と呼びかけている。
さらに、兵庫県としても2025年度中に「SNS誹謗中傷防止条例」を制定する方向で動いており、制度的な対応も進めている。
つまり知事は、特定の誰かに偏った形ではなく、すべての人に対しての誹謗中傷をなくすための姿勢と取り組みをすでに明確にしているのだ。
それにもかかわらず、「なぜ〇〇への誹謗中傷を止めるよう明言しないのか」「それをしないのは犬笛だ」と迫るのは、明らかに政治的に偏った要求であり、特定の言論だけを“優先保護”しようとする不公正な圧力である。
「犬笛」論法の危険性
ここで使われている「犬笛」という言葉は、本来、差別やヘイトを“それとなく”煽る行為を表す時に使われる。
しかしそれを「〇〇について呼びかけなかった」というだけで、「犬笛を吹いている」とするのは、証拠のないままに“共犯者”と見なす極めて悪質なレッテル貼りである。
しかも、それを声高に主張しているのが「記者」という立場の人間であるなら、なおさら問題は大きい。
本来、記者や報道という存在は、特定のイデオロギーに寄りかかるのではなく、客観性・中立性を保ち、権力と距離を取るべき存在のはずだ。
その報道者が、あたかも「知事は○○を擁護すべきだ」といった思想誘導的な言説を公然と発信するのであれば、それは報道の本分を逸脱した“活動家”的行為と言われても仕方がない。
実際のやり取りから見える問題の本質
実際に、尾形記者と斎藤知事のやり取りを見ると、この問題の構図がよくわかる。
斎藤知事は会見で一般論として「誹謗中傷をSNSを通じて行うのは、すべての方がすべきではない」と明確に述べている。これは誹謗中傷を全面的に否定し、抑止を呼びかける非常に明確な立場だ。
しかし、それに対して尾形記者は、「一般論で続けて犬笛を続けると理解しました」など、意味不明な、もはや揶揄やレッテル貼りに近いコメントを返している。
— 東京ファクトチェック協会 (@tokyo_factcheck) August 6, 2025
このように、具体的に誹謗中傷を否定する一般論すら、「不十分」「隠れた共犯」と決めつける態度こそが、言論の自由と政治的中立性を損ねる最大の問題である。
結論:言論の自由と行政の中立性を守れ
不当な誹謗中傷は、誰に対するものであっても減らしていくべきだ。それは言うまでもない。
だが、そのために行政の長に「特定の人物に対する言論を止めさせろ」と求めるのは、本末転倒である。
それは、行政に特定の思想・立場への肩入れを強制するものであり、中立であるべき行政に政治的圧力をかける行為そのものだ。
「特定の誹謗中傷を止めさせなければ犬笛だ」という論法は、根拠のない政治的レッテル貼りであり、言論の自由と政治的中立性を軽視した極めて乱暴な主張である。
むしろ、そうした要求そのものが、政治的な誹謗中傷ではないか?
表現の自由とは何か
「表現の自由を守れ」と言う人は多い。だが、本当にそれを守ろうとするならば、「気に入らない言論を封じること」ではなく、「多様な意見が存在できる環境を守ること」が求められる。
どんなに耳障りでも、どんなに違和感があっても、それが暴力や脅迫に当たらない限り、表現の自由は最大限に保障されるべきだ。
そしてその判断は、司法という手続きに委ねられるべきであって、政治の現場で恣意的に行われるものではない。
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