【旅の歴史】人は、まだ見ぬ世界に何を求めて旅をしたのか。使節、商人、僧侶たちが歩いた、古代アジアの旅
古代アジアの旅とは
前回は、4年に一度の祭典を見るために、古代ギリシャの人々がオリンピアを目指した話を書きました。
競技を見るために遠くまで出かけ、そこで大勢の人と出会い、同じ時間を共有する。現代のワールドカップやオリンピックにも通じる、旅の原型です。
では、そのころ、アジアの人々は、どんな旅をしていたのでしょうか。
ヨーロッパで人々がオリンピアへ向かい、ローマが広大な道路網を築いていたころ、東方の中国でも、大きな国と文化が形づくられていました。
秦、漢、そして時代が進むと、隋、唐という王朝が成立します。
もちろん、秦・漢から隋・唐までは、千年近くに及ぶ長い歴史です。ひとつの時代として簡単にまとめることはできません。それでも、この長い時代を通して、人々の移動が国と国を結び、モノや知識、宗教や文化を運んでいったことは確かです。
古代アジアの旅は、現代の観光旅行とはずいぶん違います。
国の使命を背負って旅する使節がいた。利益を求めて砂漠や海を越える商人がいた。そして、真理を求めて命がけの旅に出た僧侶がいました。
目的は違っていても、彼らの旅が世界を広げたのです。
国と国をつないだ「朝貢」という旅
中国に大きな王朝が成立すると、周辺の国々から使節が訪れるようになります。
彼らは中国の皇帝に、その土地の特産品などを貢物として献上しました。これを「朝貢」といいます。
朝貢と聞くと、弱い国が強い国に一方的に従う仕組みのように感じるかもしれません。もちろん、そこには中国皇帝を中心とした国際秩序を確認する、政治的な意味がありました。
でも、朝貢はそれだけではありません。
使節が貢物を献上すると、中国の皇帝からは返礼品が与えられました。使節に同行した人々が品物を持ち込み、交易を行うこともありました。
つまり朝貢は、外交の旅であると同時に、交易の旅でもあったのです。
そして、人が移動すれば、モノだけではなく、文化も移動します。
文字、政治制度、宗教、建築、衣服、音楽、医薬、暦、食文化。使節たちは中国で見聞きしたものを自分たちの国へ持ち帰りました。逆に、それぞれの地域の珍しい産物や情報も、中国へ運ばれていきました。
日本から中国へ渡った遣隋使や遣唐使も、この大きな交流の流れの中にありました。
彼らは単に皇帝へ挨拶をしに行ったわけではありません。進んだ政治や仏教、都市づくり、学問や芸術を学び、それを日本へ持ち帰ろうとしました。
今のように、ネットで海外の情報を瞬時に調べられる時代ではありません。
外国の文化を知りたければ、誰かが実際に海を渡り、その目で見て、学び、持ち帰るしかなかったのです。
使節の旅は、いわば国を挙げて行う巨大な学びの旅でした。
道が運んだのは、絹だけではなかった
古代アジアの旅を語るとき、忘れてはならないのがシルクロードです。
シルクロードは、一本の整った道路が、中国からヨーロッパまで延びていたわけではありません。砂漠や草原、山岳地帯やオアシス都市を結ぶ、いくつもの交易路の総称です。陸路だけでなく、海を通るルートもありました。
そこを、たくさんの商人や旅人が行き交いました。
中国の絹、西方のガラス器、香辛料、宝石、馬、金銀細工など、さまざまな品物が、いくつもの地域と人の手を経て運ばれました。
しかし、シルクロードが運んだのは、絹や宝石だけではありません。
仏教やキリスト教などの宗教。音楽や舞踊。絵画の様式。天文学や医学の知識。物語や神話。そして、異なる土地の暮らし方や価値観。
旅人が町に立ち寄り、宿で休み、市場で商い、人と話す。そのたびに情報と文化が交換されます。
旅は、人間の身体だけを移動させるものではありません。
旅をした人の中に入った文化が、その人と一緒に移動するのです。
答えを探すため、インドへ向かった玄奘
古代アジアには、宗教的な目的で旅に出た人々もいました。
その代表が、唐の僧侶、玄奘(げんじょう)です。
玄奘は、仏教の教えをより深く学び、正確な経典を手に入れるため、その発祥の地であるインドを目指しました。
7世紀のことです。
もちろん、飛行機も鉄道もありません。玄奘は砂漠を越え、険しい山岳地帯を通り、いくつもの国を訪ねながら、西へ西へと旅を続けました。
途中には、強烈な暑さや寒さ、食料や水の不足、盗賊など、数え切れない危険がありました。国境を越えることも、今のように簡単ではありません。
それでも、玄奘は旅をやめなかった。
なぜなら、どうしても確かめたいことがあったからです。
人から聞いた話だけではなく、自分で原典を読みたい。本当の教えを、自分自身で学びたい。その思いが、玄奘を長い旅へ駆り立てました。
インドで学んだ玄奘は、多くの経典を携えて唐へ帰ります。そして、旅の途中で訪れた国々の地理、文化、宗教、政治、暮らしなどを『大唐西域記』にまとめました。
この本は、単なる旅行記ではありません。
当時の中央アジアやインドの姿を今に伝える、とても重要な記録になっています。
一人の僧侶が自分の問いを確かめるために旅をし、その旅の記録が、千年以上たった現代の僕たちにまで世界の姿を伝えている。
そう考えると、旅の記録が持つ力の大きさがわかります。
海を渡って仏教を学んだ義浄
玄奘の少しあとには、義浄という僧侶もインドを目指しました。
玄奘がおもに陸路をたどったのに対して、義浄は海路を利用しました。中国南部から船に乗り、現在の東南アジアを経由してインドへ向かったのです。
航海には、嵐や遭難、病気などの危険がありました。それでも義浄は各地で仏教を学び、多くの経典を集めました。
そして、自分が見たインドや東南アジアの仏教、僧侶たちの生活や学びの様子を記録しました。
ここで興味深いのは、古代アジアの文化交流が、陸の道だけで行われていたのではないということです。
海にも道があった。
港から港へ船が移動し、人と品物と文化を運んでいたのです。東南アジアの港町は、単なる通過地点ではなく、さまざまな言葉や宗教、文化が出会う場所でした。
現代の空港のように、そこには世界が集まっていたのかもしれません。
古代アジアの旅は、世界を学ぶ旅だった
古代ギリシャでは、人々が祭典を見るためにオリンピアを目指しました。
古代ローマでは、富裕層が保養地や名所旧跡を訪れました。
一方、古代アジアでは、使節が国と国を結び、商人が交易路を行き交い、僧侶が教えを求めて砂漠や海を越えました。
もちろん、どの地域にも巡礼、交易、外交、娯楽など、さまざまな旅がありました。東西をきれいに分けることはできません。
それでも、古代アジアの旅から強く感じるのは、「学び、持ち帰る」という力です。
使節は外国の制度や文化を持ち帰った。商人は品物と一緒に情報を運んだ。僧侶は経典と知識を持ち帰った。そして、旅の記録を残した人は、まだ見ぬ世界の姿を後世へ伝えました。
旅に出る前と、帰ってきたあとでは、その人は同じではありません。
新しい風景を見て、異なる言葉を聞き、別の価値観に触れることで、それまで当たり前だと思っていた世界が広がるからです。
そして、旅人が変わると、旅人が帰った国や地域も少しずつ変わっていく。
旅先で得たものを、自分の日常へ持ち帰る。
これは、僕がこれからの観光で大切だと思っている「新日常」にもつながります。
玄奘や義浄の旅は、あまりにも壮大で、僕たちの旅行と同じように語ることはできません。それでも、知らない世界へ出かけ、そこで得たものによって、帰ったあとの日常が変わるという旅の本質は、今も同じです。
人は、移動することで世界を知った。
そして、旅から戻った人が、自分の国に新しい世界を運んできた。
古代アジアの旅は、道の歴史であると同時に、世界が少しずつつながっていった歴史でもあるのです。
