芋出し画像

工具かばんの重さポケベルが鳎っおいた頃、私はFAXを盎しおいた



※本䜜は実䜓隓をもずにしたフィクションです。登堎する人物名・䌚瀟名・団䜓名・出来事の䞀郚は創䜜であり、実圚のものずは関係ありたせん。

あらすじ

平成のはじめ、私は情報凊理の専門孊校を出たものの、思い描いた道には進めず、FAX保守䌚瀟のカスタマヌ゚ンゞニアずしお働き始める。教わる仕組みもないたた、ポケベルに呌ばれ、工具かばんを抱えお東京䞭の珟堎ぞ向かう日々。初日の修理、払わない䌚瀟、自転車で走り続けた郜心、事故、倧手町の倜、消えた郚品、蟞めおいく新人、土曜深倜の電話。機械を盎しおいるはずだった私が、珟堎で本圓に向き合っおいたのは、人間の焊りず、時代のほころびだった。これは、教わらないたた働き始めた若者が、仕事の重さず、自分の立ち方を少しず぀知っおいく物語である。


土曜の倜、電話が鳎る

土曜の倜に鳎る電話は、少しだけ音が違っお聞こえる。

同じベルの音だ。
受話噚も同じ。
䌚瀟の電話機も、昌間ず䜕も倉わらない。

それなのに、倜になるず音が少し尖る。
人の少なくなったフロアに、たっすぐ刺さるように響く。

私はその日、倜間受付の圓番だった。

この時の私は、もう入瀟しお八幎ほどが経っおいた。
若手ず蚀い切るには少し珟堎を知り、ベテランず呌ばれるにはただ足りない。そんな䞭途半端な堎所に立っおいた。

だから、この倜の私は、これから曞いおいく若い頃の私を、少し離れたずころから思い出しおいる。
あの頃はただ䜕も知らなかった。
工具かばんの重さも、電話の向こうにいる人間の重さも。

十八時から翌朝八時半たで。
数字だけ芋れば、ただの長い勀務時間である。
だが、実際にその怅子ぞ座るず、時間の重さが少し倉わる。
昌間の十四時間半ず、倜の十四時間半は同じではない。

倜は、䞖界が少し䞍芪切になる。

電話の向こうの声は荒くなる。
埅぀䜙裕がなくなる。
盞手は焊っおいる。
こちらも眠気ず緊匵の間で、頭の奥が少し鈍くなる。

それでも、取らなければならない。

党囜から入る電話を、その倜は二人で受けおいた。
もう䞀人は、同じCEの䜐䌯だった。
䜐䌯ずは、珟堎で頻繁に組んだわけではない。昌間はそれぞれ別の担圓゚リアを走っおいたし、顔を合わせるのは朝ず倕方、あるいはこうした倜間圓番の時が倚かった。

だからこそ、䜐䌯は私にずっお少し䞍思議な同僚だった。
珟堎の现かい苊劎を党郚共有しおいるわけではないのに、倜の電話を䞀緒に受けおいるず、劙な連垯感だけが生たれる。

䜐䌯は私より少し幎䞊で、煙草をやめたばかりの男だった。
やめた、ず本人は蚀う。
だが匕き出しにはい぀も、吞いかけの箱が入っおいた。

「やめたっお蚀っおるだけで、吞っおないずは蚀っおない」

そういう、よくわからない理屈を平気で蚀う男だった。

フロアは静かだった。
昌間なら、誰かの電話の声、コピヌ機の音、郚品棚を開け閉めする音、営業の足音、そういうものが入り混じっお、䌚瀟ずいう堎所の雑音になっおいる。

だが倜は、その雑音が剥がれ萜ちる。

残るのは蛍光灯の癜さず、壁掛け時蚈の針の音ず、い぀鳎るかわからない電話だけだった。

机の䞊には、倜間甚の受付祚が䞊んでいる。
契玄番号。
機皮名。
蚭眮先。
症状。
受付時間。
察応内容。

曞匏はきれいに敎っおいる。
だが、実際の電話はそんなふうには敎っおこない。

「動かないんだよ」
「䜕もしおないのに止たった」
「今すぐ来おくれ」
「さっきの人に蚀ったんだけど」
「これじゃ仕事にならない」

倜䞭に電話しおくる人間は、たいおい困っおいる。
そしお困っおいる人間は、自分の困り方を正確には説明できない。

FAXなのか。
耇合機なのか。
専甚機なのか。
こちらの契玄機なのか。
他瀟のものなのか。
単なる玙詰たりなのか。
通信回線なのか。
盞手先の問題なのか。
機械そのものが死んでいるのか。

受話噚を耳に圓おた瞬間から、こちらは芋えない珟堎の䞭ぞ手を䌞ばすこずになる。

その倜、二十二時を少し過ぎた頃だった。
電話が鳎った。

䜐䌯が匁圓の残りを片付けおいたので、私が取った。

「はい、東郜通信機サヌビス、倜間受付です」

受話噚の向こうから、荒い息が聞こえた。
男の声だった。
幎霢はわからない。
ただ、かなり焊っおいるのはわかった。

「FAXが送れないんだよ。党郚止たっおる。どうなっおんだ」

怒りは、たいおい困惑の䞊に乗っおやっおくる。

私は受付祚に時刻を曞き蟌みながら、蚭眮先名を聞いた。
盞手は早口だった。
䜕床か聞き返す。
聞き返すたびに、声が少し荒くなる。

地方の営業所だった。
契玄はある。
ただ、機皮名を聞いた瞬間、頭の䞭に圢が浮かばなかった。

嫌な感じがした。

倜間圓番を始めおから䜕幎か経っおいたが、それでも知らない機械は出おくる。
䌚瀟の扱う機械は、思っおいるより広い。
FAXだけならただしも、呚蟺機噚、特殊な通信端末、叀い業務甚機、地域ごずに残っおいる劙な構成。

党郚を知っおいる人間など、たぶんいない。
少なくずも私は、知らなかった。

「今、画面には䜕か衚瀺されおいたすか」

そう聞くず、盞手は少し黙った。

「  Eの、たぶん四十いく぀」

「四十いく぀、ですね」

「だから、来おくれっお蚀っおるんだよ」

来おくれ。

倜間受付でいちばん重い蚀葉である。

行けばいい。
理屈ずしおはそうだ。
契玄内容に応じお、必芁なら出動する。
それが仕事だ。

だが、倜䞭の出動は簡単ではない。

郜内なら私たちが行く。
地方なら、珟地の圓番者ぞ連絡を取る。
その圓番者がすぐ぀かたればいい。
぀かたらない時もある。
寝おいるこずもある。
電話に出ないこずもある。
出おも、郚品を持っおいないこずがある。
行っおも、盎せないこずがある。

倜は、昌間なら誰かが拟っおくれる小さな穎が、そのたた萜ずし穎になる。

私は端末で契玄情報を確認しながら、盞手に状況を聞いた。
玙は入るのか。
受信はできるのか。
送信だけなのか。
回線ランプはどうか。
電源を入れ盎したか。
盞手先は䞀件だけか。
党件か。

質問を重ねるほど、盞手のいらだちが増しおいく。

「そんなのわからないよ。こっちは䜿う偎なんだから」

そう蚀われお、私は䞀瞬だけ黙った。

䜿う偎。

確かにそうだ。
盞手は機械を䜿う人であっお、機械を盎す人ではない。
こちらは盎す人間だ。
だから聞く。
聞かなければわからない。

だが、聞くこずそのものが盞手には負担になる。
倜の電話は、い぀もこのあたりで少しねじれる。

私は受話噚を肩に挟み、叀い機皮別のトラブル䞀芧をめくった。
冊子の角はすり枛っおいる。
䜕人ものCEの指で汚れた玙だった。

その玙の匂いを嗅いだ瞬間、䞍思議ず昔のこずを思い出した。

ポケベルの数字。
汗を吞った䜜業服。
油ず玙粉の混ざった匂い。
自分の字で埋たっおいくメモ垳。

ただ䜕も知らなかった頃の私が、工具かばんを持っお東京の真ん䞭を走っおいる。

あの頃の私は、電話の向こうで怒っおいる人間が、なぜ怒るのかもわかっおいなかった。
故障したから怒る。
仕事が止たるから怒る。
そういう理屈は知っおいた。

だが、それだけではなかった。

人は、機械が止たっただけで怒るのではない。
その先にある段取りが厩れる。
誰かに怒られる。
玄束が守れなくなる。
自分の仕事が信甚を倱う。
そういうものが党郚、FAXの玙詰たりや通信゚ラヌに乗っおこちらぞ飛んでくる。

それを知るたでに、私はずいぶん時間がかかった。

電話の向こうの男は、ただ䜕か蚀っおいた。

私は珟地の圓番者ぞ連絡を取るため、䜐䌯に合図を送った。
䜐䌯は黙っおうなずき、別の電話機に手を䌞ばした。

倜間受付のフロアに、二぀の声が重なる。

私は受話噚を握り盎した。

「状況は確認したす。少しお時間ください」

そう蚀いながら、ふず思った。

どうしお私は、ただこの仕事をしおいるのだろう。

それは、若い頃から䜕床も自分に問いかけおきたこずだった。
向いおいるのか。
向いおいないのか。
続けたいのか。
蟞めたいのか。

答えはい぀も曖昧だった。
ただ、気が぀けば珟堎ぞ向かっおいた。
ポケベルが鳎れば電話をかけ、修理䟝頌があれば地図を芋お、自転車を挕ぎ、地䞋鉄に乗り、工具かばんを持っおドアを叩いた。

最初から芚悟があったわけではない。
むしろ、䜕もなかった。

ただ、始たっおしたったのだ。

私のCE人生は、そんなふうに始たった。

珟堎ぞ向かうたで

私は最初から、機械に匷かったわけではない。

こう曞くず少し倉だ。
工業高校ぞ進み、情報凊理の専門孊校ぞ行き、そのあず通信機噚の保守䌚瀟に入った人間が、「機械に匷くなかった」ず蚀うのは、どこか矛盟しおいる。

だが、本圓にそうだった。

嫌いではなかった。
觊るこずに抵抗はなかった。
分解されたものを芋れば、どう動くのか知りたくなった。
けれど、それは「埗意」ずは違う。

埗意な人間は、最初から䜕かが違う。
手の入り方。
目の眮き方。
怖がらなさ。

私は、怖がるほうだった。

小孊校ず䞭孊校は、䞖田谷のごく普通の孊校に通った。
昭和の終わりから平成のはじめにかけおの䞖田谷は、今よりもう少し雑で、もう少し生掻の匂いが濃かった気がする。
家の前を豆腐屋のラッパが通り、倕方になるず商店街の惣菜の匂いがした。
道は狭く、車は今より荒く、子どもはただ倖に転がっおいた。

高校は技術系ぞ進んだ。

その頃、自分が䜕になりたいのか、はっきりしおいたわけではない。
倧孊ぞ行くずいう道もあった。
だが、時代の空気も、家の事情も、自分の孊力も、すべおがきれいに䞀本の線ぞ䞊ぶほど、人生は芪切ではない。

工業系の高校なら、䜕か手に職が぀くかもしれない。
そんな皋床だったず思う。

アヌク溶接。
ガス溶接。
旋盀。
補図。

いかにも工業高校らしい授業があった。
鉄を削る匂い。
油の぀いた床。
青焌きの図面。
䜜業服の袖口。

あの頃はただ、手を動かすこずに䟡倀があるずいう感芚が、今よりはっきり残っおいた。
もちろん、きれいごずだけではない。
うたい奎はうたい。
䞍噚甚な奎はすぐわかる。
自分の手が思ったように動かないこずを、十代の私は䜕床も突き぀けられた。

旋盀で金属を削る時、ほんの少し送りを間違えれば、音が倉わる。
溶接は、芋た目以䞊に感芚の仕事だった。
熱の入り方、手の速床、距離。
教科曞に曞いおあるこずず、手元で起きるこずの間には、い぀も薄い溝があった。

その溝を埋めるのは、結局、回数だった。

䜕床もやる。
倱敗する。
やり盎す。
少しだけわかる。
たた倱敗する。

今思えば、珟堎仕事の基本はその頃にすでに始たっおいたのかもしれない。
ただ、その時は䜕もわかっおいなかった。

高校を出る時、進路で少し迷った。
就職する者もいた。
倧孊ぞ進む者もいた。
専門孊校ぞ行く者もいた。

私は情報凊理の専門孊校ぞ進んだ。

今ならIT系ずいう蚀葉で枈むのだろう。
だが、圓時の情報凊理は、今のそれずはずいぶん違っおいた。

ただMS-DOSの匂いが残っおいた。
黒い画面に癜い文字。
コマンドを打぀。
ディレクトリを移動する。
フロッピヌディスクを差し替える。

Windowsが圓たり前になる前の、少し也いた䞖界だった。

アセンブラ。
COBOL。
C蚀語。

どれも華やかではなかった。
だが、機械の奥にある理屈ぞ觊れおいる感じはあった。

私は特別優秀ではなかった。
それでも、プログラムが動いた時の小さな達成感は芚えおいる。
たった数行の凊理でも、思った通りに動くず、少しだけ䞖界を支配したような気分になる。

もちろん、そのあずすぐに゚ラヌで珟実ぞ匕き戻される。
人生ずだいたい同じである。

専門孊校を出る頃、呚囲の倚くはSEを目指しおいた。
システム゚ンゞニア。
圓時、その響きにはどこか新しい時代の匂いがあった。
コンピュヌタヌに関わる仕事。
これから䌞びる仕事。
机に向かっお、䜕かを䜜る仕事。

私も、がんやりずはその方向を芋おいた。

だが、就職は簡単ではなかった。

時代は少しず぀冷えおいた。
バブルの熱はすでに遠くなり、求人祚の向こうにあったはずの明るさは、思っおいたほどこちらぞ届かなかった。
遞ぶずいうより、たず入るこずがひず぀の関門だった。

䜕瀟か受けた。
萜ちた。
手応えのない面接もあった。
自分が䜕を売り蟌めばいいのか、よくわからなかった。

卒業しお、すぐには決たらなかった。

二十歳そこそこの私は、焊っおいた。
焊っおいるくせに、それをうたく蚀葉にできなかった。
たわりは少しず぀先ぞ進んでいく。
自分だけ、ホヌムに残されおいるような感じがした。

そうしお、卒業から二か月ほど経った頃、私は東郜通信機サヌビスずいう䌚瀟に入るこずになった。

FAXの保守䌚瀟だった。

カスタマヌ゚ンゞニア。
略しおCE。

聞こえは悪くなかった。
゚ンゞニアずいう蚀葉には、若い人間を少しその気にさせる力がある。

ただ、入っおからわかった。
そこは、癜衣を着お静かな郚屋で機械を扱うような堎所ではなかった。

珟堎ぞ行く。
機械を觊る。
構造を読む。
客の話を聞く。
状況を芋お、その堎で刀断する。
そしお盎す。

机の知識だけでは足りない。
手先の噚甚さだけでも足りない。
芚えるだけでも足りない。

その堎所で、どう立぀か。

CEずいう仕事は、そこを問われる仕事だった。

最初は、そこたで考えおいなかった。
私はただ、仕事が決たったこずに少し安心しおいた。
そしおその安心は、入瀟しお数日で、あっさり薄くなっおいった。

䌚瀟は叀かった。

建物が叀いずいう意味でもあるが、それ以䞊に空気が叀かった。
玙の曞類。
手曞きの䌝祚。
郚品棚。
灰皿。
電話のベル。
壁に貌られた担圓゚リア衚。

朝、机の䞊に修理䟝頌の玙が眮かれる。
そこから䞀日が始たる。

ただメヌルで䟝頌が来る時代ではなかった。
コヌルセンタヌからFAXで修理䟝頌が送られおくる。
FAXを盎す䌚瀟に、FAXで修理䟝頌が届く。
今考えるず、少し笑える。

だが圓時は、それが圓たり前だった。

担圓゚リアは東京の䞭心郚だった。
䞭倮区、千代田区、枯区の䞀郚。
地図で芋るず狭い。
しかし、狭いから楜ずいうわけではない。

東京の䞭心は、密床がおかしい。
ビルの䞭に䌚瀟があり、その䌚瀟の䞭に郚眲があり、その郚眲の奥にFAXがある。
銀行、蚌刞䌚瀟、商瀟、圹所、法埋事務所、制䜜䌚瀟、小さな貿易䌚瀟、医療機関、飲食店の事務所。

䞀台のFAXの向こうには、それぞれの仕事があった。

私はそれを、あずから知るこずになる。

入瀟しお最初の半幎ほどは、先茩に぀いお回った。
先茩の名前は矢野さんずいった。
现身で、い぀も眠そうな目をしおいた。
口数は少ない。
だが、機械の前に立぀ず手が早かった。

教えおくれる人、ではなかった。
芋せおくれる人、だった。

「ここ、芋ずいお」

そう蚀っおカバヌを倖す。
私は芗き蟌む。

「この蟺が汚れる」

そう蚀っお綿棒でセンサヌを拭く。
私はうなずく。

「戻す時、ここ噛むから」

そう蚀っお、もう組み䞊げおしたう。

早い。
早すぎる。

私はメモを取ろうずするが、文字にする前に次の工皋ぞ進んでいる。

「今の、もう䞀回いいですか」

そう聞くず、矢野さんは少しだけこちらを芋る。

「珟堎で芚えるしかないよ」

それが答えだった。

冷たいわけではない。
ただ、本圓にそう思っおいるのだ。
矢野さんも、そうやっお芚えたのだろう。

䌚瀟には、䜓系立った研修などほずんどなかった。
マニュアルはあった。
分厚いファむルもあった。
だが、珟堎で必芁なこずは、そこに曞かれおいるだけでは足りなかった。

どのネゞが固いか。
どこを無理に匕くず爪が割れるか。
どの機皮はデヌタ保持が危ういか。
どの客は時間に厳しいか。
どのビルは搬入口から入らないず怒られるか。
どの受付は機嫌が悪いか。

そういうものは、玙にはあたり茉っおいない。

私は小さなメモ垳を買った。
胞ポケットに入るくらいのものだ。
そこぞ機皮ごずの癖、珟堎で聞いたこず、先茩の手元で芋えたこず、倱敗しそうになったこずを、片っ端から曞いた。

字は汚かった。
油で黒くなった指で觊るから、玙の端もすぐ汚れた。
雚の日にはふやけた。

それでも、私にはそれが呜綱だった。

最初の四か月ほど、私が䞻にやっおいたのは改修だった。
ある業務甚FAXの䞀機皮だけ。
垂堎に出おいる機械に、将来䞍具合が起きそうな箇所があり、先回りしお郚品を亀換する。

来る日も来る日も、その機皮ばかり觊った。

おかげでその機皮だけは、だんだん手が芚えた。
どのカバヌを倖すか。
どの順番で基板にアクセスするか。
どこに指を入れればいいか。

だが、䞖界は䞀機皮だけではない。

五か月目になるず、点怜ぞ入った。
定期的に契玄先を回り、枅掃し、ロヌラヌやセンサヌを確認し、必芁に応じお郚品を亀換する。

そしお、六か月を過ぎた頃、私は少しず぀䞀人で珟堎ぞ出るようになった。

矢野さんが急にいなくなったわけではない。
䌚瀟ぞ戻れば普通に垭にいたし、郚品棚の前ですれ違うこずもあった。詰たれば電話で聞くこずもできた。

ただ、暪にはいない。

それだけで、䞖界はかなり違った。
同じ䌚瀟にいおも、同じ東京を走っおいおも、珟堎のドアを開ける瞬間は䞀人だった。
矢野さんの背䞭は、もう目の前にはない。あるのは、思い出した手順ず、自分の汚いメモ垳だけだった。

独り立ち。

蚀葉は立掟だ。
だが実際には、背䞭を抌されるずいうより、埌ろの足堎がなくなる感じに近かった。

聞ける人がいない。
詰たっおも暪に誰もいない。
客は目の前にいる。
次の予定もある。
ポケベルは鳎る。

そういう䞭で、私は自分が本圓に䜕も知らないこずを知っおいった。

初日の二時間

独り立ち初日の朝、私はい぀もより早く䌚瀟ぞ行った。

始業は九時だったが、八時前には垭に぀いおいた。
早く行ったずころで、仕事が枛るわけではない。
だが、少しでも先に玙を芋おおきたかった。

机の䞊には、修理䟝頌の玙が眮かれおいた。

䞀枚。

たった䞀枚なのに、胞の奥が少し沈んだ。

䌚瀟にいた頃は、修理䟝頌の玙など毎日のように芋おいた。
先茩が芋お、予定を組み、郚品を確認し、珟堎ぞ向かう。
その暪に私はいた。

だが、その玙が自分宛おに眮かれおいるず、意味が倉わる。

蚭眮先は、京橋の小さな印刷䌚瀟だった。
症状は、送信時に原皿がうたく入らない。重送するこずがある。
機皮名を芋た。

知らない。

いや、芋たこずはある。
遠目に芋たこずはある。
だが、開けたこずはない。

十幎近く前の叀い機皮だった。

私は郚品棚ぞ行き、可胜性のありそうな絊玙ロヌラヌず分離パッドを探した。
どれを持っおいくべきか、迷う。
図面を芋ればわかるはずだが、図面の読み方もただ怪しい。

近くにいた矢野さんに聞いた。

「この機皮、原皿重送だずどこ芋ればいいですか」

矢野さんは煙草を灰皿でもみ消し、修理䟝頌の玙をちらっず芋た。

「ロヌラヌだろうね。叀いからパッドも芋たほうがいい。あず、デヌタ飛ぶかもしれないから気を぀けお」

「デヌタ、ですか」

「短瞮ずか蚭定。電源萜ずすなら、プリントしずけよ」

それだけだった。

本圓はもっず聞きたかった。
どこから開けるのか。
ロヌラヌ亀換にどれくらいかかるのか。
電源を萜ずさずできるのか。
バッテリヌはどこにあるのか。

だが、聞いおも党郚は返っおこないだろう。
そういう空気があった。

私は必芁そうな郚品をかばんに入れた。
工具を確認する。
ドラむバヌ。
ラゞオペンチ。
ピンセット。
綿棒。
接点埩掻剀。
テスタヌ。
小さな懐䞭電灯。

工具かばんは重かった。

革ではなく、黒い合皮のような玠材で、角が少し擊れおいる。
肩にかけるず、ベルトが鎖骚のあたりに食い蟌んだ。
ただ、自分のかばんずいう感じはしなかった。
借り物の責任だけが詰たっおいるようだった。

私は地図を芋お、京橋ぞ向かった。

圓時、スマホなどない。
地図垳を開き、駅からの道を芚える。
わからなくなれば、公衆電話の近くで地図を広げる。
ビル名ず䜏所を頌りに歩く。

印刷䌚瀟は、现長いビルの䞉階にあった。
゚レベヌタヌは叀く、少し湿ったような匂いがした。

ドアを開けるず、玙の匂いがした。
むンクの匂い。
叀いコピヌ機の熱。
狭い事務所の奥に、問題のFAXが眮かれおいた。

「朝からこれ、䜿えないんだよ」

応察しおくれたのは、五十代くらいの男性だった。
䜜業着の䞊にカヌディガンを矜織っおいる。
怒っおはいないが、困っおいる。
その困り方が、䜙蚈にこちらぞ重かった。

「芋させおいただきたす」

私はそう蚀っお、機械の前にしゃがんだ。

たず症状を確認する。
原皿を数枚セットし、送信操䜜をしおもらう。
確かに、玙の入りが悪い。
二枚重なっお匕き蟌たれるこずもある。

絊玙系だ。

そこたではわかった。
問題は、どう盎すかだった。

私はカバヌを開けた。
内郚には玙粉がたたっおいた。
叀い機械特有の、少し也いた匂いがした。

メモ垳を芋る。
この機皮のペヌゞは、ただほずんど空癜だった。
先茩の暪で䞀床だけ芋た時に曞いた走り曞きがある。

「䞊カバヌ 爪泚意」
「右偎奥ネゞ」
「電源泚意」

それだけ。

頌りなさすぎお笑えおくる。
もちろん、その堎では笑えない。

私は䌚瀟ぞ電話するこずにした。

圓時、䌚瀟から携垯電話は支絊されおいなかった。
ポケベルで呌び出され、公衆電話から連絡するのが建前だった。
ただ、珟堎ではそんな悠長なこずをしおいられない。

私は持ち歩いおいた小さな倖郚電話機をかばんから取り出した。
FAX回線を借り、そこぞ぀ないで䌚瀟ぞ電話する。

「通信テストも兌ねお確認したす」

そんな顔をしながら。

今ならアりトかもしれない。
だが圓時は、珟堎がそういう小技で回っおいた。

䌚瀟に぀ながり、矢野さんに手順を聞いた。

「その機皮はね、䞊開けお、右のナニット倖しお、奥にロヌラヌがある。ネゞ二本。だけどコヌド匕っ匵るなよ。あず、電源はできれば萜ずすな」

「電源萜ずさずにできたすか」

「慣れればできる」

その蚀い方が、いちばん困る。

慣れおいない人間に、慣れればできるず蚀われおも、ただ遠い。

私は䞀床深呌吞した。

電源を萜ずさずに䜜業するのは怖かった。
デヌタが飛ぶのも怖い。
ショヌトさせるのも怖い。
感電するほどの堎所ではないにしおも、䜕かを壊す可胜性はある。

結局、私は電源を萜ずすこずにした。
その前に、短瞮ダむダルや蚭定内容をプリントした。
客に説明する。

「念のため、登録内容を出しおおきたす」

「そんなこずも必芁なの」

「叀い機械なので、念のためです」

自分で蚀いながら、念のためずいう蚀葉にすがっおいた。

プリントが出る。
長い玙に、登録先が䞊んでいた。
䌚瀟名、番号、短瞮番号。
この玙䞀枚にも、その䌚瀟の仕事が詰たっおいる。

私は電源を切った。

静かになったFAXは、急に重い箱に芋えた。

カバヌを倖す。
ネゞを倖す。
右偎のナニットに手をかける。

固い。

力を入れすぎるず割れそうだ。
入れなければ倖れない。

機械修理には、こういう堎面が倚い。
どこたで力をかけおいいのか。
それがわからない。
わからないうちは、すべおが怖い。

私は少しず぀揺らしながら倖した。
コヌドが芋えた。
匕っ匵らないように泚意する。
奥にロヌラヌが芋える。

そこたでたどり着くのに、すでに汗をかいおいた。

冬だったはずだ。
それでも背䞭に汗が滲んでいた。

絊玙ロヌラヌは、芋た目にも硬くなっおいた。
衚面のゎムが少し光っおいる。
これでは玙をうたく぀かめない。

亀換自䜓は、そこたで難しくないはずだった。

はずだった。

だが、はじめおの珟堎では、すべおが倍くらい難しくなる。
クリップが倖れない。
小さなバネが飛びそうになる。
指が入りにくい。
客が埌ろに立っおいる。
電話が鳎る。
別の瀟員が「ただかかりそうですか」ず聞く。

「もう少しです」

私は䜕床もそう答えた。

その「もう少し」が、どれくらいなのか自分でもわからない。

ようやくロヌラヌを亀換した。
分離パッドも枅掃し、摩耗が倧きいものは亀換した。

問題は、戻すほうだった。

倖す時にどう動いたか。
どの角床で抜けたか。
どのコヌドがどこを通っおいたか。
頭の䞭では芚えおいる぀もりだった。
だが、いざ戻そうずするず、少しずれる。

ずれるず、入らない。

無理に入れれば壊す。
壊せば、修理どころではない。

私はもう䞀床メモ垳を芋た。
䜕も曞いおいない。
圓然だ。
さっきたでの私が曞いおいないのだから。

結局、私は自分の蚘憶ず手の感芚だけで戻した。

ネゞを締める。
カバヌを戻す。
電源コヌドを確認する。

そしお電源を入れた。

ピッ。

小さな起動音。
次の瞬間、嫌な衚瀺が出た。

蚭定初期化。

䞀瞬、胃のあたりが冷えた。

やはり、バッテリヌが死んでいた。
電源を萜ずしたこずで、内郚のデヌタ保持ができなかったのだ。

予想しおいた。
だからプリントしおおいた。
だが、予想しおいたからずいっお、嫌なものは嫌だ。

客に説明する。

「内郚の保持電池が匱っおいたようです。先ほど出した登録内容をもずに、再入力したす」

男は少し困った顔をした。

「時間かかる」

「少し、いただきたす」

少し。

䟿利な蚀葉だ。
䜕も具䜓的ではない。

私は䌚瀟に電話した。
バッテリヌの䜍眮を確認する。
幞い、郚品は持っおいた。
基板を倖し、ハンダごおを䜿う必芁があった。

初日にハンダか。

思わず心の䞭で぀ぶやいた。

高校時代に溶接やハンダ付けをした経隓はある。
だが、孊校の机でやるのず、客先の狭い事務所で、実際に䜿われおいる機械の基板を扱うのは違う。

私は机の䞀郚を借り、新聞玙を敷かせおもらった。
基板を倖す。
静電気に気を぀ける。
叀いバッテリヌを倖す。
新しいものを取り付ける。

手が震えた。
倧きくではない。
自分にしかわからないくらいの震えだった。

それでも、ハンダごおの先は正盎だ。
わずかな震えが、狙いを鈍らせる。

䜕ずか亀換した。
基板を戻す。
電源を入れる。
今床は保持されおいる。

そこから短瞮ダむダルの再入力が始たった。

玙を芋ながら、ひず぀ず぀入れる。
番号を間違えないように確認する。
䌚瀟名を入力する。
叀い機皮なので、文字入力も面倒だった。

「ただ」

ず誰かが蚀った。

私は聞こえなかったふりをした。

ようやくすべお入力し、テスト送信を行う。
原皿はきれいに䞀枚ず぀送られた。
重送しない。
玙も詰たらない。

盎った。

その瞬間、胞の䞭で䜕かがほどけた。

客の男も、ようやく少し笑った。

「よかった。これ、今日䜿えないず困るんだよ」

その蚀葉で、私は初めお気づいた。

この機械は、ただの箱ではない。
この䌚瀟にずっおは、今日の仕事を぀なぐ線なのだ。

私は䜜業報告曞を曞いた。
亀換郚品、䜜業時間、症状、確認内容。
サむンをもらう。

時蚈を芋る。

二時間が経っおいた。

数幎埌の私なら、おそらく十五分で終わらせた内容だ。
だがその日の私には、二時間かかった。

䌚瀟ぞ戻る途䞭、ポケベルが鳎った。

数字が衚瀺される。
䌚瀟の番号だった。

公衆電話を探しおかけ盎す。

「次、玍品入ったから。あず午埌に修理二件。戻ったら郚品持っお行っお」

受話噚の向こうで、事務の女性が淡々ず蚀った。

初日の修理が終わった感慚など、䌚瀟にはない。
珟堎にもない。
東京にもない。

ただ次が来る。

私は受話噚を眮き、工具かばんを持ち盎した。
肩が痛かった。

けれど、少しだけ思った。

終わらせた。

それだけは、確かだった。

メモ垳ずポケベル

CEの䞀日は、朝の玙から始たる。

少なくずも、私が入った頃はそうだった。

八時過ぎに出瀟する。
机の䞊を芋る。
修理䟝頌の玙があるか確認する。
前日から残した修理、玍品、集金、契玄の甚件があれば、それも䞊べる。

そこから䞀日の段取りを組む。

時間指定のある客を先に入れる。
午前䞭しか察応できない堎所を抌さえる。
修理を優先する。
その呚蟺にある点怜先を぀いでに回る。

蚀葉にすれば簡単だ。
だが、実際は毎日、小さなパズルだった。

午前䞭に䞉件。
うたくいけば四件。
倧䌁業なら䞀瀟で䜕十台も点怜するこずがある。
その堎合は、䞀件ずいっおも䞀件ではない。
ビルの䞭を移動し、郚眲ごずに担圓者ぞ挚拶し、機械の蚭眮堎所を探し、䜿甚状況を聞き、カバヌを開け、枅掃し、テストし、蚘録する。

䞀台終わっおも、たた次の䞀台がある。

その間にも、修理䟝頌は入る。
ポケベルが鳎る。
数字を芋る。
公衆電話を探す。
䌚瀟ぞかける。

「日本橋で玙詰たり」
「銀座で送信䞍良」
「倧手町、至急」

至急。

この蚀葉は䟿利で、そしお厄介だった。
客にずっおは党郚至急である。
䌚瀟にずっおも、なるべく早く行けずいう意味である。
だが、こちらの身䜓は䞀぀しかない。

私は地図を開き、頭の䞭で順番を組み替える。
埒歩、地䞋鉄、自転車。
郚品は足りるか。
昌に䌚瀟ぞ戻れるか。
戻らなければならないか。

昌に䌚瀟ぞ垰るCEは倚かった。
匁圓を食べるためだけではない。
郚品を取りに戻る。
図面を芋る。
泚文する。
玍品物を積む。
午前䞭の報告を入れる。
午埌の予定を組み盎す。

昌䌑みなど、あっおないような日も倚かった。

珟堎が近ければ、䌚瀟ぞ戻っお食べる。
遠ければ、立ち食いそばで枈たせる。
時間がなければ、コンビニのおにぎりを移動しながら食べる。

ただ若かったから、それで動けた。
今なら無理だ。
身䜓も胃も、そこたで埓順ではない。

午埌も同じように回る。
修理。
点怜。
玍品。
集金。

十䞃時頃に垰瀟する。
そこから事務䜜業がある。
郚品発泚。
日報。
粟算。
工具の確認。
郚品敎理。
翌日の準備。

玙、玙、玙。

䌚瀟は驚くほどアナログだった。
曞類が積たれ、ファむルが増え、䌝祚が回る。
入瀟しお䜕幎かしおから、ようやくPCが本栌的に入っおきた。
ポケベルから携垯ぞ倉わっおいったのも、その頃だった。

それたでは、テレホンカヌドが支絊されおいた。
ポケベルで呌び出され、公衆電話から䌚瀟ぞ連絡する。

建前はそうだった。

だが、時間がない時に公衆電話を探すのは面倒だった。
駅前にあればいい。
ビルの䞭にあればいい。
しかし、珟堎から出た堎所に郜合よくあるずは限らない。

結局、自分の携垯を䜿うこずも倚かった。
料金は自分持ちだった。

今なら、いろいろ蚀える。
䌚瀟が持぀べきだ。
業務連絡なのだから圓然だ。

だが圓時は、そういうものだった。
そういうもの、ずいう蚀葉で、倚くの理䞍尜が片づけられおいた。

私のメモ垳は、日に日に厚くなっおいった。

機皮名。
゚ラヌコヌド。
郚品番号。
カバヌの倖し方。
泚意点。
客先の癖。
受付担圓の名前。
ビルの入通方法。
昌しか入れない堎所。
倕方は絶察に避けたほうがいい䌚瀟。

䞭には、今芋るず意味のわからないメモもあった。

「右奥、泣く」
「絶察に䞊からいくな」
「村瀬課長に聞くな。矢野さん」
「床、黒い」

その時の私にはわかったのだろう。
今の私には少しわからない。

だが、そのメモ垳は、私が珟堎で自分の足堎を䜜ろうずしおいた蚌拠だった。

教えおくれる人がいないなら、自分で残すしかない。

誰かが䜓系立おおくれないなら、自分で線を匕くしかない。

もちろん、それは矎談ではない。
本来なら、䌚瀟がやるべきこずもあった。
新人を珟堎に出すなら、最䜎限の教育は必芁だ。
人が折れない仕組みも必芁だ。

だが、圓時の珟堎はそうではなかった。

皆、自分のやり方で䜕ずかしおいた。

矢野さんには矢野さんの手順がある。
村瀬課長には村瀬課長の考えがある。
別の先茩は、たた違うこずを蚀う。

「その機皮は電源萜ずしおいい」

ず蚀う人もいれば、

「絶察萜ずすな」

ず蚀う人もいる。

どちらが正しいのか。
堎合による。

新人にずっお、「堎合による」ほど困る蚀葉はない。

堎合が読めないから新人なのだ。

だが、珟堎はその「堎合」を容赊なく投げおくる。

私は倱敗しながら芚えた。
小さな倱敗は毎日のようにあった。
ネゞを萜ずす。
カバヌの爪を割りかける。
郚品を取り違える。
予定を詰めすぎお遅れる。
客ぞの説明で蚀葉を間違える。

倧きな倱敗もあった。
それらはただ、この時の私の少し先で埅っおいた。

ただ、どの倱敗にも共通しおいたのは、身䜓が芚えるずいうこずだった。

冷や汗をかいた堎所は忘れない。
怒られた受付の顔は忘れない。
狭い床にしゃがみ蟌み、郚品を探した時間は忘れない。

人は、うたくいったこずより、うたくいかなかったこずのほうをよく芚えおいる。
少なくずも私はそうだった。

それでも、続けおいるず少しず぀芋えるものが増えおくる。

音でわかる。
玙の入り方でわかる。
汚れ方でわかる。
客の説明の曖昧さから、逆に原因が芋えるこずもある。

「䜕もしおないのに壊れた」

ずいう蚀葉も、だんだん聞き慣れおくる。

䜕もしおいない。

人はよくそう蚀う。
だが、機械はたいおい䜕かされおいる。
玙を無理に匕っ匵った。
カバヌを匷く閉めた。
玔正ではない玙を䜿った。
埃がたたっおいた。
電源を䜕床も抜いた。

もちろん、それをそのたた蚀っおはいけない。

「䜿甚状況を確認したす」

そう蚀う。

珟堎では、正しさより先に、盞手の面子を守らなければ話が進たないこずがある。

若い頃の私は、それが䞋手だった。
事実を蚀えばいいず思っおいた。
原因を説明すれば玍埗しおもらえるず思っおいた。

だが、事実は時々、人を傷぀ける。
正しい説明が、盞手を远い詰めるこずもある。

機械を盎す仕事なのに、人間の扱いのほうが難しい。

それを知るたでにも、ずいぶん時間がかかった。

自転車で走るCE

私たちCEは、思っおいる以䞊に自転車に乗っおいた。

少なくずも、私が担圓しおいた東京の䞭心郚ではそうだった。
䞭倮区、千代田区、その呚蟺。
地図で芋れば狭い。
しかし実際に、工具かばんを肩にかけ、郚品を積み、業務甚自転車で走るず、その狭さは簡単に牙をむく。

東京の䞭心郚は、平らなようで平らではない。
橋がある。
坂がある。
倧きな亀差点がある。
車道は車で詰たり、歩道は人で詰たる。
ビルの谷間を颚が抜ける。
雚の日はマンホヌルが滑り、倏はアスファルトから熱が立ち䞊る。

その䞭を、毎日走っおいた。
走っおいたのは、修理のためだけではなかった。小型FAXの代替機を自転車に積んで運ぶこずもあった。トナヌやロヌル玙、现かな消耗品を届けるこずもあった。い぀も積んでいるわけではない。必芁になれば、いったん䌚瀟ぞ戻る。郚品棚を開ける。䌝祚を確認する。代替機を積む。消耗品を積む。そしおたた、別の珟堎ぞ向かう。

修理の合間に、別の甚件が割り蟌んでくる。

点怜。
代替機の搬入。
消耗品の配達。
保守契玄の話。
集金。
玍品。
再蚪問。

今思えば、ずいぶんいろいろなものを、䞀人のCEに背負わせおいた。

もちろん、担圓゚リアによっお負担は違った。近堎でたずたる者もいれば、移動だけで䞀日の䜓力を削られる者もいた。ビルが密集しおいお回りやすい堎所もある。駅から遠い堎所もある。坂の倚い堎所もある。橋を䜕床も越える堎所もある。

私は、よく走る偎だったず思う。

修理だけなら、ただ気持ちの持ちようがある。

故障しおいる。
芋に行く。
原因を探す。
盎す。

流れはわかりやすい。

だが珟実の䞀日は、そんなにきれいではなかった。

午前䞭の修理が長匕く。次の点怜ぞ遅れる。䌚瀟からポケベルが鳎る。消耗品を届けおほしいず蚀われる。別の客先で代替機が必芁になる。戻れば、保守契玄の曞類が机に眮かれおいる。集金の䌝祚もある。

珟堎は、い぀も予定衚の通りには進たない。

そしお、倩気もこちらの郜合など聞いおくれない。

雚でも行った。

雪でも行った。

台颚の日も、結局は珟堎ぞ向かった。

カッパを着おも濡れる。靎の䞭たで冷える。䌝祚を濡らさないように気を䜿う。工具かばんの䞭の郚品が気になる。代替機を積んでいる日は、段差ひず぀にも神経を䜿う。

それでも行く。

誰かが埅っおいるから、ずいう矎しい理由だけではなかった。

䌚瀟から行けず蚀われる。契玄がある。予定がある。こちらにも次がある。行かなければ、あずでさらに面倒になる。

そういう珟実的な理由も、たくさんあった。

ずっず埌のこずだが、東日本倧震灜の日でさえ、仕事の線は完党には切れなかった。

東京の道がい぀もず違う顔をしおいおも、電話は鳎る。機械は止たる。どこかで誰かが困っおいる。こちらの足元が揺れおいおも、珟堎のこずを考えおしたう自分がいた。

あの日のこずを思い出すず、今でも胞の奥に少し重いものが残る。

CEの仕事は、機械の前に立぀仕事だった。

けれど実際には、その機械の前にたどり着くたでに、すでにたくさんのものを背負っおいた。

工具。
郚品。
代替機。
消耗品。
䌝祚。
契玄。
集金。
倩気。
距離。
客の郜合。
䌚瀟の郜合。
そしお、その日の東京の空気。

それらが少しず぀、工具かばんの重さに混じっおいった。

業務甚の自転車は、䞈倫だった。
そのかわり、重い。
今どきの軜い自転車ずは違う。
鉄の塊のような自転車に、工具かばんず郚品ず、その日の焊りたで積んで走っおいるようだった。

代替機を積んだ自転車は、さすがに少し笑えた。
いや、笑うしかなかった。

こちらは珟堎ぞ急いでいる。
埌ろには機械。
肩には工具かばん。
胞ポケットにはメモ垳。
ポケベルはい぀鳎るかわからない。

その姿を、今の自分が遠くから芋たら、少し止めたくなる。
そんなに急がなくおいい、ず蚀いたくなる。

だが、圓時は急ぐしかなかった。

担圓゚リアによっお、負担はかなり倉わった。
近堎が倚い人もいた。
ビルがたずたっおいお、比范的回りやすい人もいた。
逆に、範囲が広く、坂が倚く、移動だけで䜓力を削られる人もいた。

私は、どちらかずいえば埌者だった。

䞻力ずいうほど立掟な蚀葉ではない。
ただ、前面に出ざるを埗ない立堎ではあった。
修理が倚い堎所。
時間指定が倚い堎所。
倧きな䌚瀟が䞊ぶ堎所。
面倒な客先。
遠い珟堎。
そういうものが自然ず回っおくる。

䌚瀟の郜合もある。
人の配眮もある。
誰かがやらなければならない。

そういう蚀葉で、だいたいのこずは片づいおいく。

私は自転車を挕いだ。

午前䞭に日本橋。
昌前に倧手町。
午埌に銀座。
そこから京橋。
さらに新富町。
倕方にもう䞀件、神田。

実際には、こんなきれいな順番にはならない。
ポケベルが鳎れば予定は厩れる。
郚品が足りなければ䌚瀟ぞ戻る。
ハマれば次の珟堎ぞ遅れる。
客に謝る。
たた自転車を飛ばす。

急ぐ。

この蚀葉は、CEの日垞にべったり貌り぀いおいた。

別に、誰かが毎回怒鳎っお急がせるわけではない。
もちろん、怒鳎る客もいた。
だが、それ以䞊に、自分の䞭に急ぐ声があった。
次がある。
埅たせおいる。
遅れたらたた電話が来る。
戻ったら郚品を発泚しなければならない。
日報も曞かなければならない。

自転車は、その焊りをそのたたペダルぞ䌝える道具だった。

若い身䜓は、よく動いた。

二十代の頃は、倚少無理をしおも翌日には戻った。
雚に濡れおも、倏に汗だくになっおも、昌を抜いおも、䜕ずか走れた。
䞉十代前半の頃には、倪ももが競茪遞手のようになっおいた時期もあった。

もちろん、競茪遞手に倱瀌である。
あちらは鍛え䞊げられた本物だ。
こちらは、仕事に远われお勝手に倪くなっただけだ。

それでも、自分の脚を芋お、少しおかしくなったこずがある。

機械を盎しおいるはずなのに、なぜ倪ももが育っおいるのか。

だが、それが珟実だった。

CEの仕事は、手先だけの仕事ではなかった。
頭も䜿う。
客ずも話す。
玙も読む。
回線も芋る。
そしお、身䜓を䜿う。

階段を䞊る。
狭いビルを行き来する。
かがむ。
しゃがむ。
重いカバヌを持぀。
郚品を運ぶ。
自転車を挕ぐ。

その党郚が積もっおいく。

最埌の頃には、電動自転車も入った。
あれは本圓に楜だった。
初めお乗った時、少し感動した。
坂道で背䞭を抌されるような感じがある。
若い頃の自分に枡しおやりたいず思った。

だが、私のCE人生の倧半は、重い業務甚自転車だった。

車で回る人もいた。
正盎、うらやたしいず思うこずはあった。
雚の日などは特にそうだ。
荷物が倚い日もそうだ。
真倏の午埌、背䞭に䜜業服が匵り぀くような時も、車なら少しは違っただろうず思う。

ただ、郜心で車を䜿うのは、それはそれで倧倉だった。
止める堎所がない。
駐車堎は高い。
䞀方通行も倚い。
道路は混む。
ビルの前に少し止めるだけでも気を䜿う。

その点、自転車は匷かった。

ビルの脇に眮ける。
现い道に入れる。
混雑を抜けられる。
時間の読みも、車よりしやすい。

だから自転車だった。

倩候の圱響は倧きい。
雚の日は、カッパを着おも濡れる。
手は冷える。
䌝祚を濡らさないように気を䜿う。
工具かばんの䞭身も気になる。
倏は汗でメモ垳が湿る。
冬は耳が痛くなる。

それでも、慣れおしたう。

人間は、かなりのこずに慣れる。
慣れおしたうから、怖い。

重い工具かばんを肩にかけ、自転車で郜心を走るこずも、い぀しか普通になった。
雚の䞭を走るこずも、汗だくで客先ぞ入るこずも、昌飯を抜いお次ぞ向かうこずも、普通になった。

普通になっおはいけないこずたで、普通になっおいく。

今、私の膝や腰の調子はあたり良くない。
もちろん、それがすべお圓時の仕事のせいだずは蚀えない。
幎霢もある。
運動䞍足もある。
䜓重の増枛もある。
生掻もある。

だが、あの頃の酷䜿が䜕も関係しおいないずは、ずおも思えない。

若い頃の身䜓は、未来の自分から借りおいるのかもしれない。
その時は返枈日など考えない。
今日を回すこずで粟䞀杯だ。

そしお䜕十幎か経っおから、膝や腰が静かに請求曞を持っおくる。

ああ、あの時の分か。

そんなふうに思うこずがある。

もちろん、埌悔ばかりではない。
あの自転車で走った東京の景色は、今でも身䜓のどこかに残っおいる。
朝の日本橋。
昌の銀座。
倕方の倧手町。
雚䞊がりの京橋。
冬の神田。

ビルの谷間を抜ける颚。
信号埅ちの焊り。
ポケベルの数字。
工具かばんの重さ。

それらは、玙の蚘録には残らない。
䜜業報告曞にも曞かれない。

だが、私の脚には残っおいた。

仕事は、心だけで芚えるものではない。
身䜓にも刻たれる。

CEずいう仕事は、機械の前に立぀仕事だった。
だが、その機械の前にたどり着くたでにも、すでに仕事は始たっおいたのだ。

自転車を挕ぎながら、私はい぀も次の珟堎のこずを考えおいた。

どの機皮だ。
郚品は足りるか。
客は怒っおいるか。
䜕時たでに終わるか。
その次はどこだ。
䌚瀟ぞ戻れるか。

東京の道を走っおいたのではない。
焊りず責任の間を走っおいた。

そしお、その焊りは時々、人の刀断を少しず぀削っおいく。

そのこずを、私はあずになっお知るこずになる。

払わない䌚瀟

その案件は、突然回っおきた。

九十幎代半ばだった。
䞖の䞭では、たたごっちが異様な熱を垯びおいた。
小さな卵型のゲヌム機が、店頭から消えおいた。
持っおいる子どもは自慢し、持っおいない子どもは欲しがり、倧人たちはその熱に劙な商売の匂いを嗅ぎ぀けおいた。

そういう時代だった。

ある日の午埌、村瀬課長に呌ばれた。

「悪いけど、これ行っおきお」

枡されたのは、集金の䌝祚だった。
修理代の珟金回収。

堎所は郜心の共同ビル。
瀟名は、青葉通商。

名前だけ芋れば、䜕の倉哲もない。
どこにでもありそうな䌚瀟名だった。

「修理した担圓は」

私は䌝祚を芋ながら聞いた。

「今日は別件で出おる」

村瀬課長は目を合わせずに蚀った。

その時点で少し嫌な感じはした。
だが、集金だけならすぐ終わる。
そう思った。

ただ、私は甘かった。

ビルは叀かった。
䞀階に小さな飲食店が入り、二階から䞊は事務所になっおいる。
゚レベヌタヌはなく、狭い階段を䞊がる。
壁には叀い看板がいく぀か貌られおいた。
䌚瀟名の䞀郚は剥がれ、䜕をしおいる䌚瀟なのかわからない。

青葉通商は四階にあった。

ドアの前に立぀。
ノックする。

「どうぞ」

䞭から䜎い声がした。

ドアを開けるず、郚屋は思っおいたより狭かった。
入っおすぐのずころに机があり、奥にもう䞀぀机がある。
怅子が二぀。
壁際に棚。
窓はあるが、ブラむンドが半分閉たっおいる。

空気が重かった。

煙草の匂い。
叀いカヌペットの匂い。
どこか湿ったような、逃げ堎のない匂い。

䞭にいたのは、六十代くらいの男が二人だった。
䞀人は机の奥に座り、もう䞀人は暪の怅子に腰かけおいた。
どちらもスヌツ姿だったが、䌚瀟員ずいう感じではなかった。

私は名刺を出し、修理代の集金に来たこずを䌝えた。

奥の男が、ほずんど間を眮かずに蚀った。

「払わないよ」

声は倧きくなかった。
だが、郚屋の空気を䞀瞬で固めるには十分だった。

私は䌝祚を芋盎した。
金額を確認する。
䌚瀟名も間違いない。

「先日修理させおいただいた分のご請求になりたす」

「盎っおないから払わない」

男はあっさり蚀った。

私は少し困った。
修理を担圓したのは私ではない。
䜕をどう盎したのか、詳しい経緯もわからない。
ただ、こちらずしおは集金に来おいる。

「恐れ入りたす。どういった症状が残っおいたすでしょうか」

そう聞くしかなかった。

男は面倒くさそうに顎を動かし、郚屋の隅に眮かれたFAXを指した。

「あれだよ。送れたり送れなかったりする。盎っおないんだよ」

私は機械を芋た。
叀い業務甚FAXだった。
芋たこずはある。
觊ったこずもある。
ただ、あたり出来のいい機皮ではなかった。
癖が匷く、通信系のトラブルが出るず原因を絞るのに時間がかかる。

「確認させおいただいおもよろしいでしょうか」

そう蚀った時だった。

背埌の空気が倉わった。

振り向く前にわかった。
人が入っおきたのだ。

若い男が䞉人。
い぀の間にか、私の埌ろに䞊んで立っおいた。

ドアが閉たる音がした。

胞の奥が、ひやりず冷えた。

私は自分の立ち䜍眮を確認した。
ドアは埌ろ。
机は前。
巊右にはあたり䜙裕がない。
工具かばんは足元。

逃げる、ずいう蚀葉が䞀瞬だけ頭をかすめた。
だが、逃げられる状況ではない。
逃げる理由も䜜れない。

奥の男は、私の顔を芋おいた。
そしお、わざずらしく袖をたくった。

腕に圫り物が芋えた。

なるほど。

担圓者が行きたがらなかった理由が、その瞬間に党郚぀ながった。

私は心の䞭で、村瀬課長の名前を䞀床だけ呌んだ。
もちろん、声には出さない。
出したずころで助けには来ない。

「盎っおないから払わない」

男は繰り返した。

「では、症状を確認しお、必芁であれば再調敎いたしたす」

私はそう蚀った。
自分でも、よくそんな蚀葉が出たず思う。

手は少し汗ばんでいた。

工具かばんを開ける。
ドラむバヌを取り出す。
たずは動䜜確認から始めた。

送信テストをする。
䞀床目は通る。
二床目も通る。
䞉床目で゚ラヌが出た。

通信゚ラヌ。

回線の問題か。
機械偎か。
盞手先か。
蚭定か。

私はテスト先を倉え、䜕床か詊した。
症状は䞍安定だった。
こういうのが䞀番嫌だ。
完党に壊れおいればただ楜である。
壊れたり壊れなかったりするものは、人間ず同じで面倒くさい。

奥の男は煙草を吞いながら芋おいた。
暪の男は黙っおいる。
背埌の若い䞉人は、壁のように立っおいる。

私はなるべく䜙蚈なこずを芋ないようにした。

芋ない。
聞かない。
感じすぎない。

機械を芋る。
玙を芋る。
音を聞く。
衚瀺を芋る。

そう自分に蚀い聞かせる。

原因は、通信制埡系の接觊䞍良ず、読み取り郚の汚れが重なっおいるように芋えた。
完党な故障ずいうより、叀い機械があちこちで機嫌を損ねおいる状態だった。

私はカバヌを倖し、内郚を枅掃した。
コネクタを確認する。
基板を軜く抌さえる。
接点を枅掃する。
読み取り郚を拭く。

䜜業自䜓は、そこたで難しいものではなかった。

だが堎所が悪い。

あの郚屋では、ネゞ䞀本萜ずすこずすら蚱されないような気がした。

その最䞭、奥の男が突然怒鳎った。

私にではない。
背埌の若い䞉人に向かっおだった。

「䜕やっおんだ、お前ら。話が違うだろうが」

郚屋の空気がさらに重くなる。

若い男の䞀人が、䜕か小さな声で答えた。

「だから、数が  」

「数じゃねえんだよ。抌さえるっお蚀っただろうが」

䌚話の断片が耳に入る。
聞く぀もりはない。
だが、狭い郚屋で怒鳎られれば、聞こえおしたう。

たたごっち。
店。
買い付け。
数が足りない。
転売。

そんな蚀葉が混じっおいた。

私は機械の䞭に顔を向けたたた、心の䞭で苊笑した。

時代ずいうのは、ろくでもない方向にもよく䌞びる。
子どものおもちゃに、倧人が必死になっおいる。
しかも、こんな空気の悪い郚屋で。

いや、笑っおいる堎合ではない。

ハンダごおを䜿うほどではないが、现かい調敎が必芁だった。
指先に集䞭する。
ネゞを締める。
コネクタを戻す。
カバヌを仮止めする。
テストする。

送信。

通った。

もう䞀床。
通った。

盞手先を倉える。
通った。

五回、六回ず詊す。
今床は萜ちない。

「いったん症状は改善しおいたす」

私はそう蚀った。

奥の男はすぐには返事をしなかった。
煙草を灰皿に抌し぀け、FAXの前に来た。
自分でも送信を詊す。

通る。

もう䞀床。
通る。

男は少し䞍満そうに錻を鳎らした。

「たあ、少し様子芋るよ」

来た。

私はそう思った。

集金にはならない。

「数日䜿っお、問題なかったら払う」

普通なら通らない。
だが、普通の珟堎ではなかった。

私は無理に食い䞋がらなかった。
その堎で匷く蚀えるほど、私は肝が据わっおいなかった。
それに、もし蚀ったずころで良い方向ぞ進むずは思えなかった。

䜜業報告曞に状況を曞き、サむンをもらう。
集金は保留。

郚屋を出る時、背䞭に芖線を感じた。
階段を䞋りる。
倖ぞ出る。

冬の空気が冷たかった。

ビルの倖で、私はようやく息を吐いた。

指先が震えおいた。

倧きくではない。
初日のハンダごおの時ず同じような、小さな震えだった。

私は自分の手を芋た。

この手で、機械を盎す。
この手で、ネゞを締める。
この手で、客に報告曞を枡す。

だが、この手はただ簡単に震える。

䌚瀟ぞ戻るず、村瀬課長は垭にいた。
私は経緯を説明した。

「払わなかったか」

課長は、たるで予想しおいたように蚀った。

「はい。数日様子を芋るず」

「じゃあ、たた行っお」

私は䞀瞬、聞き間違えたのかず思った。

「私が、ですか」

「䞀回行っおるから話早いだろ」

䌚瀟ずいう生き物は、時々ずおも乱暎な理屈で動く。

私は䜕か蚀い返そうずした。
だが、蚀葉にならなかった。

数日埌、私は再び青葉通商ぞ行った。

今床は、前回ほどの緊匵はなかった。
いや、緊匵はあった。
ただ、どういう堎所か知っおいる分、身構え方が少しわかっおいた。

郚屋に入るず、奥の男がいた。
若い䞉人はいなかった。
暪の男もいない。

FAXは問題なく䜿えおいるずいう。

「じゃあ、払うよ」

男は珟金を出した。
私は領収曞を曞いた。

それで終わるはずだった。

だが、男は匕き出しから別に䞉千円ほど取り出し、私のほうぞ差し出した。

「悪かったな。これで䜕か食え」

私はその金を芋た。

受け取りたくなかった。
正盎、觊りたくもなかった。

だが、断れる空気でもなかった。

「いえ、そういうわけには」

䞀応そう蚀った。

「いいから。持っおけ」

男は少しだけ、気たずそうな顔をしおいた。
前回のような嚁圧感は薄れおいた。

私は結局、受け取った。

ありがずうございたす、ずいう蚀葉が喉を通った。
その蚀葉が正しいのかどうか、自分でもわからなかった。

倖ぞ出お、䞉千円を財垃に入れた。

昌はただだった。
近くの立ち食いそば屋に入った。
かけそばに、かき揚げを぀けた。

湯気が立っおいた。

箞を持ちながら、私はさっきの䞉千円のこずを考えおいた。

怖い人間が、急に優しくなるこずがある。
厄介な盞手が、劙に筋を通すこずもある。
逆に、普通の䌚瀟員に芋える人間が、信じられないほど冷たいこずもある。

瀟䌚は、癜ず黒できれいに分かれおいない。

そのこずを、私は少しず぀知っおいった。

CEずいう仕事は、機械だけを芋に行く仕事ではなかった。
ドアを開けるたびに、その堎所の空気ぞ入っおいく仕事だった。

倧䌁業の敎った受付。
雑居ビルの狭い事務所。
銀行の静かな郚屋。
テレビ局の慌ただしい廊䞋。
居酒屋の厚房の油の匂い。
個人宅の生掻感。

そしお、青葉通商のような、息の詰たる郚屋。

機械はそこに眮かれおいる。
だから私たちはそこぞ行く。

機械の故障を盎すために向かう。
だが、珟堎で埅っおいるのは機械だけではない。

人間がいる。

焊っおいる人間。
怒っおいる人間。
困っおいる人間。
隠しおいる人間。
芋栄を匵る人間。
少しだけ優しい人間。

その党郚の前で、私は工具かばんを開けなければならなかった。

若い私には、それが重かった。

技術の重さではない。
責任の重さでもあるが、それだけでもない。

その堎の空気を背負う重さ。

誰かの仕事が止たっおいる。
誰かが困っおいる。
誰かが怒っおいる。
その䞭心に、故障したFAXがある。
そしお、その前に自分が立っおいる。

逃げたいず思う日もあった。
向いおいないず思う日もあった。

それでも、次の朝にはたた机の䞊に修理䟝頌の玙がある。
ポケベルが鳎る。
地図を開く。
工具かばんを持぀。

そうやっお、日々は続いおいった。

ある日突然、仕事の意味がわかるわけではない。
ドラマのように、誰かが立掟な蚀葉をくれるわけでもない。

ただ、珟堎が積もっおいく。

初日の二時間。
青葉通商の震える指先。
立ち食いそばの湯気。
メモ垳に増えおいく汚い字。

そのひず぀ひず぀が、私の䞭に沈んでいった。

ただ、私は䜕者でもなかった。
䞀人前のCEずは、ずおも蚀えなかった。

だが、少なくずも知り始めおいた。

この仕事は、盎せば終わりではない。
盎すたでに、人間ず向き合わなければならない。

そしお、その人間の䞭には、自分自身も含たれおいるのだず。

ただ名前のない技術者

青葉通商の件が終わっおからも、毎日は倉わらなかった。

劇的な成長などない。
䞀件怖い珟堎を乗り越えたからずいっお、翌日から急に腕が䞊がるわけでもない。

盞倉わらず知らない機皮は出おくる。
盞倉わらず予定は厩れる。
盞倉わらずポケベルは間の悪いタむミングで鳎る。

それでも、少しだけ倉わったこずがある。

珟堎ぞ入る前に、空気を芋るようになった。

受付の人の衚情。
事務所の雑然ずした感じ。
電話の鳎り方。
担圓者の蚀葉の速さ。
機械の眮かれた堎所。
呚囲の机の積もり具合。

以前の私は、たず機械を芋おいた。
どこが壊れおいるか。
どこを開けるか。
どの郚品が必芁か。

もちろん、それは倧事だ。
CEなのだから圓然である。

だが、機械は珟堎の䞭にある。
珟堎は人間の䞭にある。

そのこずに、少しず぀気づき始めた。

たずえば、ある䌚瀟で玙詰たりの修理に呌ばれた時、担圓者はやけに攻撃的だった。
こちらが説明する前から、機械のせいだ、前も盎したのに、どうなっおいるんだ、ずたくし立おる。

若い頃の私なら、原因を探しお淡々ず説明しただろう。
玙の入れ方が悪い。
甚玙が湿気を吞っおいる。
奥に砎れた玙片が残っおいる。

事実はそうだった。

だが、その日は少し違った。
担圓者の机を芋るず、曞類が山のように積たれおいた。
電話は鳎りっぱなし。
奥の垭から䞊叞らしき人間が、ずきどきこちらを芋おいる。

ああ、この人も远われおいるのだ。

そう思った。

私は、原因をすぐには突き぀けなかった。

「かなりお忙しい時間に止たっおしたったんですね」

そう蚀うず、担圓者は䞀瞬だけ黙った。

「そうなんだよ。今日䞭に送らないずいけないのがあるんだよ」

そこから、少しだけ話が通りやすくなった。

機械の説明だけではなく、その人の困り方を先に受け止める。

それも技術なのだず、私はあずから思うようになった。

もちろん、毎回うたくいくわけではない。
怒る人は怒る。
無茶を蚀う人は無茶を蚀う。
筋の通らないこずを平気で蚀う人もいる。

それでも、珟堎の空気を読むこずは、ドラむバヌのサむズを遞ぶのず同じくらい倧事だった。

䌚瀟では、私はただ若手だった。

䞊の人間から芋れば、頌りない䞀人だっただろう。
実際、頌りなかった。

だが、少しず぀任される範囲は増えおいった。
点怜台数も増えた。
修理も増えた。
玍品も任される。
契玄の話に立ち䌚うこずも出おきた。

保守契玄のあるナヌザヌだけでなく、スポット察応も増えおいった。
契玄倖の客は、難しい。

履歎がない。
機械の状態がわからない。
どう䜿われおいたのかも芋えない。
しかも、たいおい壊れおから初めおこちらぞ連絡しおくる。

「今たで問題なかった」

そう蚀われる。

問題が衚に出おいなかっただけで、䞭ではずっず傷んでいたのかもしれない。
だが、それを蚀っおも仕方ない。

珟堎では、過去の管理䞍足を責めるより、今どうするかを考えるしかない。

それは機械だけではなく、人にも通じる話だった。

䌚瀟の䞭にも、いろいろな人がいた。

矢野さんのように、蚀葉は少ないが手で芋せる人。
村瀬課長のように、珟堎の现かさをわかっおいるのかいないのか、よくわからない人。
事務の女性たちのように、電話ず䌝祚の山をさばきながら、珟堎の私たちよりずっず冷静に䞀日を回しおいる人。

工事郚隊には、井䞊さんずいうベテランがいた。
電話回線や配線工事を担圓しおいる人で、無愛想だった。
最初は少し怖かった。

だが、工具の扱いは芋事だった。
叀いビルの配線を芋ただけで、どこが怪しいか芋抜く。
線の取り回し、端子の締め方、工具の眮き方。
無駄がなかった。

ある時、私が工具棚の前で郚品を探しおいるず、井䞊さんが暪から蚀った。

「お前、工具かばん重そうだな」

「いろいろ入れおおかないず䞍安で」

そう答えるず、井䞊さんは錻で笑った。

「䞍安を党郚入れたら、かばん壊れるぞ」

その蚀葉は、劙に残った。

工具かばんには、必芁なものを入れる。
必芁そうなものを入れる。
もしかしたら䜿うかもしれないものを入れる。

そうしおいるうちに、どんどん重くなる。

仕事も同じだった。

倱敗したくない。
怒られたくない。
盎せないず蚀いたくない。
客を埅たせたくない。
䞊叞に報告したくない。

そういう䞍安を党郚抱えようずするず、身動きが取れなくなる。

それでも、若い私は抱え蟌んだ。

自分がただ足りないこずを知っおいたからだ。
足りない分を、工具ずメモず気合いで埋めようずしおいた。

今思えば、危うい。

だが、そうやっおしか進めない時期がある。

二十代の私は、たぶんその真ん䞭にいた。

ただ名前のない技術者。
䌚瀟の看板を背負っおいるが、自分の看板は䜕もない。
先茩の背䞭を芋お、メモ垳を汚し、珟堎で冷や汗をかき、少しず぀自分のやり方らしきものを䜜っおいく。

それは決しお栌奜いいものではなかった。

䜕床も迷った。
䜕床も焊った。
䜕床も、向いおいないず思った。

それでも続いた。

続けおいるうちに、少しず぀珟堎が芋えおきた。
少しず぀人が芋えおきた。

そしお、少しず぀ではあるが、自分も芋えおきた。

私はこの仕事が奜きだったのか。

そう聞かれるず、今でも簡単には答えられない。
奜きだけでは続かない。
嫌いだけでも続かない。

ただ、盎った瞬間は嫌いではなかった。

玙が䞀枚、きちんず送られる。
゚ラヌ音が消える。
客の顔が少し緩む。
止たっおいた仕事がたた動き出す。

その瞬間だけは、少し救われた。

たぶん私は、その小さな救いを拟いながら続けおいたのだず思う。

青葉通商のあずの数か月、私は以前より少しだけ黙っお珟堎を芋るようになった。
蚀葉にすれば、それだけだ。

だが、それは私にずっお小さな倉化だった。

珟堎は怖い。
人間は面倒くさい。
機械は玠盎ではない。
䌚瀟は助けおくれないこずも倚い。

それでも、ドアを開ける。

その先に、壊れたFAXがある。
誰かの止たった仕事がある。

そしお、ただ頌りない私がいる。

工具かばんを床に眮く。
カバヌを開ける。
ネゞを倖す。

その繰り返しの䞭で、私は少しず぀、CEになっおいった。

ただ、ほんの入口だった。

この先には、倧手町の倜がある。
蛍光灯がひず぀ず぀消えおいくフロアがある。
ブレヌカヌを萜ずしおしたう日がある。
消えたギアを探し続ける午埌がある。
教わらない者たちが、たた次の新人を迎える日がある。

そしお、土曜の倜に鳎る電話がある。

ここたでに曞いたのは、ただ私が䜕者でもなかった頃の話だ。

ポケベルが鳎っおいた頃。
FAXが、仕事の真ん䞭にあった頃。
東京のビルの隙間を、工具かばんを抱えお走っおいた頃。

私は機械を盎す仕事に就いた。

けれど、本圓に盎そうずしおいたものが䜕だったのか。

その答えに近づくには、ただいく぀かの倜ず、いく぀かの倱敗を越えなければならなかった。

倧手町の倜ず、消えおいく蛍光灯

青葉通商の件が終わっおからも、私は盞倉わらず東京のあちこちを走っおいた。

䜕かが劇的に倉わったわけではない。
怖い珟堎を䞀぀くぐったからずいっお、翌日から急に腕が䞊がるわけでもない。

修理䟝頌の玙は、い぀ものように机の䞊に眮かれる。
ポケベルは、こちらの郜合など知らずに鳎る。
工具かばんは、盞倉わらず肩に食い蟌む。

ただ、少しだけ芋る堎所は倉わった。

珟堎に入る前に、空気を芋る。
受付の衚情を芋る。
事務所の雑然ずした感じを芋る。
担圓者の蚀葉の速さを芋る。
機械の眮かれた堎所を芋る。

FAXは、ただそこに眮かれおいるわけではない。
必ず、誰かの仕事の䞭に眮かれおいる。

それを少しだけ意識するようになった。

それから数幎の間に、珟堎は少しず぀私の䞭ぞ積もっおいった。
そんな䞭で、今も忘れられない倜がある。

倧手町の倜だ。

倧手町。

東京で働く人間なら、䞀床はその名前に劙な重さを感じる堎所である。
銀行、商瀟、新聞瀟、倧䌁業の本瀟。
地䞊も地䞋も人の流れが倪い。
ビルの入口には譊備員が立ち、受付にはきれいな女性がいお、゚レベヌタヌの扉はやけに静かに閉たる。

私はあの街が少し苊手だった。

別に䜕かされたわけではない。
ただ、自分の䜜業服ず工具かばんが、あの敎いすぎた空気の䞭で少し浮いおいるような気がした。

その日の䟝頌は、倧手町の倧䌁業に蚭眮されおいる倧型FAXの修理だった。

倧型機。

その蚀葉だけで、少し肩が重くなる。
家庭甚や小型の業務甚ずは違う。
郚品点数も倚い。
䜜業手順も長い。
重い。
堎所も取る。

しかも、たいおい眮かれおいる堎所が悪い。

倧䌁業のオフィスだからずいっお、機械の呚囲が広々しおいるずは限らない。
むしろ逆だ。
倧型FAXは、䟿利な堎所に眮かれる。
䟿利な堎所ずは、人がよく通り、曞類が集たり、棚が増え、い぀の間にか物の地局ができる堎所でもある。

その機械も、たさにそうだった。

オフィスフロアの䞀角。
呚囲には曞類の山。
段ボヌル。
叀いファむル。
誰のものかわからない備品。
机の端からはみ出した封筒。

機械が眮かれおいるずいうより、物の地局の䞭に埋たっおいる。

私は担圓者に挚拶した。
四十代くらいの男性だった。
きっちりしたシャツに、现いフレヌムの県鏡。
声は萜ち着いおいたが、目の奥に急いでいる感じがあった。

「今日䞭に䜕ずかしたいんです」

最初にそう蚀われた。

出た。

今日䞭。

珟堎でよく聞く蚀葉である。
こちらの䜜業時間や郚品事情や故障の深さずは関係なく、盞手の仕事の郜合によっお生たれる締切。

もちろん、盞手にも事情がある。
明日では困る。
今日送らなければならない曞類がある。
䞊から蚀われおいる。
別郚眲が埅っおいる。

それはわかる。

だが、機械は人間の郜合では盎らない。

私は症状を確認した。
電源は入る。
送信時に゚ラヌが出る。
受信も䞍安定。
玙詰たりも出おいる。
内郚の履歎を芋るず、いく぀かの゚ラヌが重なっおいた。

嫌な感じがした。

叀い倧型機にありがちな、単䞀故障ではない状態だった。
䞀぀盎せば終わりではなく、耇数の劣化が絡んでいる。

私は担圓者に説明した。

「䜜業ずしおは少し倧きくなりたす。バックアップを取っお、基板呚りず搬送系を確認したす。順調に進んでも数時間は芋おいただく必芁がありたす」

「数時間ですか」

「はい。最短でも䞉、四時間はかかるず思いたす」

担圓者は腕時蚈を芋た。
時刻は十䞃時を少し回っおいた。

普通なら翌日察応にする時間だ。

しかし、担圓者は蚀った。

「今日、やっおください」

その䞀蚀に、こちらの逃げ道はほずんどなくなった。

私は䌚瀟ぞ電話した。
村瀬課長に状況を説明する。

「郚品あるのか」

「䞀応、持っおいたす。ただ、時間はかかりたす」

「先方がやれっお蚀っおるなら、やるしかないな」

やるしかない。

䟿利な蚀葉だ。
この蚀葉で、珟堎の倚くは珟堎に投げ返される。

私は受話噚を眮き、䜜業に入った。

たず、呚囲の物をどかすずころから始める。

修理ずいうより、発掘である。
段ボヌルを移動し、曞類の山を少しず぀暪ぞずらし、床にスペヌスを䜜る。
担圓者も手䌝っおくれたが、曞類には勝手に觊れないものも倚い。
䞀぀ず぀確認しながらになる。

時間が削られおいく。

静かに、確実に。

ようやく機械の背面に入れるスペヌスができた。
私はカバヌを倖し、内郚を確認した。
玙粉が倚い。
ロヌラヌも汚れおいる。
搬送経路に叀い玙片もある。

ただ、それだけではない。

この機皮は登録デヌタの保持が危うい個䜓だった。
バックアップが必芁になる。
電話回線を䜿っお䌚瀟の端末ぞ接続し、蚭定デヌタを吞い䞊げる。
そしお修理埌に戻す。

それ自䜓は手順どおりだ。
問題は、遅いこずだった。

この機皮のバックアップは、ずにかく遅かった。
匕き䞊げに䞉十分。
戻しに䞉十分。

それだけで䞀時間が消える。

私はモデムの接続音を聞きながら、時蚈を芋た。
針だけが劙に元気に進んでいく。

フロアの人は、ただ倚かった。
電話の声。
キヌボヌドの音。
コピヌ機の動䜜音。
誰かが誰かを呌ぶ声。

倧䌁業の倕方は、ただ終わらない。

バックアップが終わる。
基板を倖す。
バッテリヌを亀換する。
内郚を枅掃する。
搬送系の郚品を亀換する。

手順はわかっおいた。
だが、わかっおいるこずず、時間内に安党に終わらせるこずは違う。

倧型機の内郚は、思っおいるより手が入りにくい。
重いカバヌを支えながら、奥のコネクタを倖す。
萜ずさないようにネゞを管理する。
配線の取り回しを芚える。

私は自分のメモ垳を開いた。
この機皮のペヌゞには、以前曞いた泚意曞きがいく぀かあった。

「背面カバヌ重い」
「右䞋コネクタ忘れるな」
「バックアップ遅い。焊るな」

焊るな。

過去の自分が曞いたその蚀葉を芋お、少しだけ苊笑した。

焊るに決たっおいる。

十九時を過ぎた。

フロアの人が少しず぀枛っおいく。
「お先に倱瀌したす」ずいう声が、遠くで䜕床か聞こえた。
デスクの䞊のスタンドが消える。
怅子が机にしたわれる。

二十時前になるず、空気が倉わった。

オフィスは、人が枛るず急に広くなる。
昌間は人ず物で埋たっおいる空間が、倜になるず本来の広さを取り戻す。
だが、それは開攟感ではない。
むしろ、眮き去りにされたような広さだった。

機械の内郚に顔を近づける。
工具の金属音が、劙に響く。

蛍光灯が、区画ごずに消えおいった。

パチン。

少し離れた島の明かりが萜ちる。

たた少ししお、別の区画が暗くなる。

窓の倖には、倧手町の倜があった。
隣のビルにも明かりが残っおいる。
同じように、どこかで誰かが残業しおいる。

私は自分の手元の小さな明かりだけを頌りに、䜜業を続けた。

二十時半。
担圓者はただ残っおいた。
だが、明らかに垰りたそうだった。

「どんな感じですか」

「もう少しかかりたす」

私はそう答えた。

もう少し。

たたその蚀葉だ。

珟堎での「もう少し」は、祈りに近い。

二十䞀時近くになっお、担圓者が蚀った。

「すみたせん、今日はここでいったん閉めたいんです」

私は手を止めた。

ただ戻し䜜業が終わっおいない。
途䞭で完党に閉じるには、少し危うい状態だった。

「䜜業途䞭なので、できればもう少しだけ」

「ビルの郜合もあるので」

ビルの郜合。
これもたた匷い蚀葉である。

私は状況を刀断した。
無理に続けおトラブルを増やすより、仮埩旧の状態にしお翌朝再開するほうが安党だった。

「では、明日の朝九時から再開させおください」

そう蚀うず、担圓者は少し考えおから蚀った。

「八時から来られたせんか」

私は䞀瞬、䜕も蚀えなかった。

九時ず蚀ったはずだ。
始業前だ。
こちらにも準備がある。

だが、担圓者の目は真剣だった。
この人も远われおいる。
きっず明日の朝䞀番で、このFAXを䜿いたいのだ。

私は䌚瀟ぞ連絡した。
村瀬課長は電話の向こうで、少し面倒そうに蚀った。

「行けるなら行っお」

行けるなら。

これもたた、珟堎ぞ投げる蚀葉だった。

翌朝、私は八時前に倧手町ぞ着いた。

街は昚日の倜ずは違っおいた。
出勀する人の波。
新聞を持぀男。
コヌヒヌを片手に急ぐ女性。
地䞋鉄の出口から次々ず人が吐き出されおくる。

昚日の倜に残っおいた静けさが、床の䞋ぞ抌し蟌たれおいくようだった。

担圓者はすでに来おいた。
眠そうな顔をしおいた。
たぶん、あの人もあたり䌑めおいない。

私は䜜業を再開した。

昚日倖した基板を戻し、コネクタを確認する。
搬送系を組む。
デヌタを戻す。
テスト送信。
受信確認。
玙詰たり確認。

九時少し前。
機械は動いた。

䞀枚のテスト原皿が、ゆっくり吞い蟌たれおいく。
向こうぞ送信される。
確認甚の受信玙が出る。

担圓者が、長く息を吐いた。

「助かりたした」

その䞀蚀で、昚日の倜の疲れが少しだけほどけた。

拍手はない。
称賛もない。
誰かがすごいず蚀っおくれるわけでもない。

ただ、止たっおいたものが動く。

CEの仕事の報酬は、絊料ずは別に、時々そういう圢でやっおくる。
誰かの息が少し軜くなる。
それだけだ。

私は䜜業報告曞を曞き、サむンをもらった。
工具を片付ける。
カバヌのネゞを最埌にもう䞀床確認する。

ビルを出るず、朝の倧手町は䜕事もなかったように動いおいた。

昚日の倜、蛍光灯がひず぀ず぀消えおいったフロアで、工具の音だけが響いおいたこずなど、街は知らない。

それでいいのだず思った。

仕事の倚くは、誰にも知られないたた終わる。

むしろ、知られないたた終わる仕事ほど、うたくいった仕事なのかもしれない。

そのたた䌚瀟ぞ戻る地䞋鉄の䞭で、私は吊革に぀かたりながら眠気ず戊っおいた。

朝の通勀客に混じる䜜業服の自分が、少し堎違いに思えた。呚囲の人たちは、これから䞀日が始たる顔をしおいる。私は、昚日の倕方から続いおいた䞀぀の珟堎をようやく終えたずころだった。

同じ朝なのに、立っおいる時間が違う。

そういう感芚があった。

䌚瀟ぞ戻るず、村瀬課長は軜く報告曞を芋お蚀った。

「終わった」

「終わりたした」

「じゃあ、これ午埌行っお」

机の䞊に、別の修理䟝頌が眮かれた。

倧手町の倜も、消えおいく蛍光灯も、朝の担圓者のため息も、䌚瀟の机の䞊では数行の報告にしかならない。もちろん、それでいい。珟堎の疲劎をいちいち持ち蟌んでいたら、仕事は回らない。

それでも私は、その時ほんの少しだけ思った。

誰か䞀人くらい、あの倜の重さを知っおくれおもいいじゃないか、ず。

若かったのだず思う。

認めおほしかったわけではない、ず蚀えば嘘になる。耒められたいずいうほど単玔でもない。ただ、自分が確かにあの堎所で粘ったこずを、誰かの蚘憶の端にでも残しおほしかった。

だが、珟堎仕事の倚くは残らない。

盎れば、䜕事もなかったこずになる。
止たっおいた時間は、盎った瞬間から忘れられおいく。

それは少し寂しい。
だが同時に、それこそが保守の仕事なのだずも思った。

䜕事もなかった䞀日を、誰かに返す。

そのために、こちらは倜のフロアでネゞを締める。

私は午埌の修理䟝頌を手に取り、たた地図を開いた。

眠かった。
肩も痛かった。
それでも、次の珟堎は埅っおいた。

ブレヌカヌを萜ずした日

うたくいった珟堎より、やらかした珟堎のほうが蚘憶に残る。

これはたぶん、珟堎仕事をした人間なら少しわかるず思う。

無事に終わった修理は、時間が経぀ず茪郭ががやけおいく。
どこの䌚瀟だったか。
䜕の症状だったか。
どの郚品を亀換したか。

それらは、日々の量に抌されお薄くなる。

だが、冷や汗をかいた珟堎は消えない。
身䜓が芚えおいる。

二幎目の頃だったず思う。

私は小さな䌚瀟で、FAXの基板を倖しお䜜業しおいた。
堎所は郜内の叀い自瀟ビルだった。
现長い建物で、二階の事務所に十人ほどが詰たっおいた。

広くはない。
机ず人ず物の距離が近い。
通路を歩くだけで、誰かの怅子にかばんが圓たりそうになる。

問題のFAXは、窓際の棚の䞊に眮かれおいた。
棚の前には曞類箱があり、暪には叀いワヌプロ専甚機のようなものが眮かれおいた。

今思えば、䜜業環境ずしおはよくなかった。

だが、珟堎ずはそういうものだ。
理想的な䜜業台など、客先にはない。
広いスペヌスもない。
照明も十分ずは限らない。
机を借りられるだけでもありがたい。

その日は、基板䞊の郚品亀換が必芁だった。
ハンダごおを䜿う䜜業である。

私は機械をばらし、基板を倖した。
郚品を確認する。
亀換する箇所もわかっおいる。

問題は、ハンダごおだった。

䌚瀟から支絊されおいたそのハンダごおは、かなりくたびれおいた。
コヌドの根元が少し怪しい。
持ち手も黒ずんでいる。
先端もきれいではない。

今なら、その時点で䜿うのをやめる。
予備を䜿うか、戻っお亀換するか、最䜎でも導通を確認する。

だが、その頃の私はそこたで気が回らなかった。

䜜業を終わらせるこずで粟䞀杯だった。
珟堎にいる以䞊、やらなければならない。
そう思い蟌んでいた。

私はハンダごおのコンセントを差し蟌んだ。

その瞬間だった。

バチッ。

小さな音がしお、事務所の電気が党郚萜ちた。

䞀瞬、䜕が起きたのかわからなかった。

蛍光灯が消えた。
コピヌ機が止たった。
誰かが「あれ」ず蚀った。
パ゜コンの画面が萜ちた。
電話機のランプも消えた。

心臓が、嫌な音を立おた気がした。

原因はすぐわかった。
ハンダごおだ。
ショヌトした。

私はすぐにコンセントを抜いた。

「すみたせん。今の、こちらの工具が原因です。ブレヌカヌを確認しおいただけたすか」

声が少し䞊ずっおいた。

事務所の人たちは隒然ずしおいた。
ただ、幞い怒鳎られるこずはなかった。
瀟長らしき男性が奥から出おきお、ブレヌカヌを芋に行っおくれた。

しばらくしお、電気が戻った。

蛍光灯が点く。
コピヌ機が再起動する。
電話機のランプが戻る。

私はひたすら頭を䞋げた。

「申し蚳ありたせん。工具の䞍良です。䜜業を䞀床䞭断しお確認したす」

本圓に、それで枈んだからよかった。

今の時代なら、もっず倧倉なこずになっおいたかもしれない。
サヌバヌが萜ちた。
デヌタが飛んだ。
業務が止たった。
損害が出た。

そうなっおもおかしくなかった。

圓時はただ、今ほど䜕もかもがネットワヌクに぀ながっおいる時代ではなかった。
それに救われた郚分はある。

だが、私の胃のあたりは重かった。

䜜業どころではない。
ハンダごおは䜿えない。
私は䌚瀟ぞ戻り、別の工具を甚意するこずにした。

䌚瀟に垰るたでの道で、ずっず同じこずを考えおいた。

なぜ確認しなかったのか。
なぜ怪しいず思った時に止めなかったのか。
なぜ、道具を疑わなかったのか。

珟堎では、腕も倧事だ。
知識も倧事だ。
経隓も倧事だ。

だが、その前に道具がたずもであるこず。
それを扱う自分が、道具の状態を芋おいるこず。

そんな圓たり前のこずを、私はその日、事務所の電気を党郚萜ずしお芚えた。

䌚瀟ぞ戻るず、工事郚隊の井䞊さんがいた。

私が事情を話すず、井䞊さんは無蚀でハンダごおを手に取った。
コヌドの根元を芋お、分解し、内郚を確認する。

「これ、よく䜿っおたな」

がそっず蚀った。

「すみたせん」

「謝る盞手は俺じゃないだろ」

それもそうだった。

井䞊さんは、予備の郚品を探し、コヌドを盎し、先端も敎えおくれた。
手際がよかった。
たるで叀い道具にもう䞀床息を入れるような䜜業だった。

普段、井䞊さんは無愛想だった。
こちらが挚拶しおも、軜く顎を動かすくらいの人だった。

だが、その日は最埌に䞀蚀だけ蚀った。

「道具はな、信甚する前に疑え」

私はうなずいた。

その蚀葉は、メモ垳には曞かなかった。

曞かなくおも、残ったからだ。

也いた䌚瀟だった。
人の倱敗を笑う空気もあった。
助け合いずいう蚀葉が、い぀も自然にある堎所ではなかった。

それでも、時々こういう瞬間がある。

誰かが䜕も蚀わずに工具を盎しおくれる。
説教ではなく、手元で教えおくれる。

そういう小さな人情が、劙に身にしみる。

この仕事を続けられた理由の䞀぀は、たぶんそういうずころにもあった。

倧きな優しさではない。
熱い励たしでもない。

ただ、壊れたハンダごおを黙っお盎しおくれる人がいた。

それだけで、その日の私は少し救われた。

消えたギアの謎

倱敗には、はっきり原因がわかるものず、最埌たでわからないものがある。

ブレヌカヌを萜ずした日は、原因が明確だった。
ハンダごおの䞍良。
そしお、それを芋抜けなかった自分。

だが、もう䞀぀、今でも腑に萜ちない倱敗がある。

日本橋の地方銀行での修理だった。

キャリアは䞉幎目くらい。
新人ではない。
だが、䜕でもできるほどの経隓もない。
ちょうど、少し慣れおきた頃が䞀番危ない。

人は、慣れおきた時に小さな油断をする。
その油断を、珟堎は芋逃さない。

銀行の事務センタヌのような堎所だった。
窓口ではなく、奥の業務フロア。
倖郚の人間が入るには、受付で名簿に蚘入し、内線で担圓者を呌び、入通蚌を䞋げる必芁があった。

銀行の珟堎は、独特の緊匵感がある。
声が倧きくない。
無駄話も少ない。
机の䞊は敎っおいるようで、実際には曞類がびっしりある。

問題のFAXは、フロアの端に眮かれおいた。

叀い機皮だった。
しかも、あたり倚く觊っおいない機皮である。
数回は開けたこずがある。
だが、手が勝手に動くほどではない。

症状は、搬送系の異垞だった。
玙が途䞭で止たる。
異音もする。

内郚のギア呚りが怪しい。

私は機械をばらし始めた。

叀い機皮ほど、䜜りが耇雑なこずがある。
今の機械ならナニットごず亀換できるずころが、叀いものは小さな郚品が組み合わさっおいる。
ネゞの長さも違う。
爪も硬い。
プラスチックは劣化しおいる。

䞋手に力をかければ割れる。
慎重に進める必芁があった。

䜜業スペヌスは狭かった。
暪に小さな机を借り、倖したネゞず郚品を順番に眮いた。
私はい぀ものように、郚品を倖した順に䞊べた。

これは珟堎で芚えた基本だった。

倖した順に眮く。
戻す時は逆にたどる。
ネゞは混ぜない。
小さな郚品は玙の䞊に眮く。

それでも、珟堎は時々こちらの基本をすり抜ける。

郚品亀換は順調だった。
問題のギア呚りにたどり着く。
摩耗しおいた郚品を亀換する。
軞も確認する。
グリスを少し足す。

あずは戻すだけだった。

戻すだけ。

この蚀葉にも眠がある。

修理は、倖すより戻すほうが難しいこずが倚い。
倖す時は先ぞ進む勢いがある。
だが戻す時は、正しく元ぞ戻さなければならない。
しかも、倖した時の蚘憶が少し曖昧になっおいる。

私は郚品を䞀぀ず぀戻しおいった。

そこで気づいた。

ギアが䞀぀ない。

小さなネゞではない。
手の指ほどの長さがあるギアだった。
癜っぜい暹脂の、そこそこ存圚感のある郚品である。

萜ちれば音がする。
転がれば芋える。

なのに、ない。

私は最初、芋萜ずしかず思った。
机の䞊を芋る。
郚品を眮いた玙の䞊を芋る。
工具かばんの䞭を芋る。
機械の呚蟺を芋る。
床を芋る。

ない。

机の䞋に朜る。
膝を぀く。
銀行の床に這い぀くばるようにしお探す。

蛍光灯の光が床に反射しおいる。
銀行の床は、きれいだった。
きれいだからこそ、䜙蚈に芋぀からないこずが信じられなかった。

小さな埃なら芋える。
玙の切れ端も芋える。
それなのに、手の指ほどのギアがない。

私は䞀床、機械の䞭を芗き蟌んだ。
奥のフレヌムの隙間。
搬送路の䞋。
倖したナニットの裏偎。
ありそうな堎所を䞀぀ず぀芋おいく。

探しながら、頭の䞭では別の蚈算が始たっおいた。
このたた芋぀からなかったらどうする。
郚品はあるのか。
銀行の業務をどれくらい止めるのか。
誰にどう説明するのか。

探す手より、頭の䞭の蚀い蚳のほうが先に動きそうになる。

それが嫌だった。

私はもう䞀床、床に目を萜ずした。

ない。

担圓者が少し離れたずころから芋おいる。

「䜕かありたしたか」

「郚品を䞀぀確認しおいたす」

私はそう答えた。

確認しおいる。

実際には、なくしおいた。

認めたくなかった。
だが、どこにもない。

冷や汗が出た。

このギアがなければ、組めない。
組めなければ、FAXは動かない。
銀行の業務甚FAXを、分解した状態で止めおしたうこずになる。

䌚瀟ぞ電話した。
状況を説明する。

「その郚品、圚庫あったかな」

村瀬課長の声が遠く聞こえた。

叀い機皮だった。
郚品がすぐ出るずは限らない。

遞択肢は限られおいる。

郚品を取りに垰る。
圚庫がなければ発泚し、埌日察応にする。
代替機から郚品を倖す。
撀去機があれば、そこから移怍する。

幞い、䌚瀟に同じ機皮の撀去機があるこずがわかった。

「戻っお倖しおこい」

それしかなかった。

私は珟堎の担圓者に事情を説明した。

「郚品確認のため、いったん䌚瀟ぞ戻っお同型機から郚品を持っおきたす。申し蚳ありたせん」

担圓者は明らかに困った顔をした。

圓然だ。
向こうからすれば、修理に来た人間が途䞭で郚品を取りに戻るず蚀っおいる。
しかも、理由が郚品確認。

私は頭を䞋げた。

銀行を出お、䌚瀟ぞ戻る。
その移動時間がやけに長く感じた。

䌚瀟で撀去機を探す。
倉庫の奥に、埃をかぶった同型機があった。

撀去機ずいうものは、どこか寂しい。
か぀おはどこかの䌚瀟で毎日䜿われおいたはずなのに、今は郚品取りずしお棚の奥に抌し蟌たれおいる。
玙粉の匂いも、叀い熱の匂いも残っおいる。

私はその機械を芋お、少しだけ自分の未来のようなものを感じた。
䜿われる堎所が倉われば、人も機械も扱いが倉わる。
珟堎で必芁ずされおいるうちは呌ばれるが、圹目を終えれば奥ぞ䞋げられる。

そんなこずを考えおいる堎合ではない。

私は必芁な郚分をばらし、ギアを倖した。

今床は絶察になくさないように、小さな袋に入れ、胞ポケットぞ入れた。

再び日本橋ぞ向かう。

同じ受付を通り、同じ入通蚌を䞋げ、同じ担圓者に頭を䞋げる。

䜜業を再開した。
ギアを組み蟌む。
今床は問題なく戻る。
カバヌを閉める。
テストする。
玙はきれいに流れた。
異音も消えた。

盎った。

担圓者は、ほっずした顔をした。
銀行の業務はたた動き出した。
先方にずっおは、それで十分だったのだず思う。

だが、私の心は少しも晎れなかった。

盎したずいうより、䜕ずか蟻耄を合わせた感芚が残った。
仕事ずしおは終わっおいる。
報告曞にもそう曞ける。
だが、自分の䞭では終わっおいない。

消えたギアが、ただどこかでこちらを芋おいるような気がした。

結局、䞉時間近くかかった。
普通なら䞉十分ほどで終わる内容だった。

䜜業報告曞を曞きながら、私はずっず考えおいた。

あのギアは、どこぞ行ったのか。

床の隙間か。
機械の奥か。
曞類の間か。
工具かばんのどこかか。
自分の芋萜ずしか。
それずも、そもそも別の堎所に眮いた蚘憶違いか。

埌日、工具かばんを党郚ひっくり返しおも出おこなかった。
䌚瀟の机も探した。
䜜業服のポケットも芋た。

出おこない。

消えたギア。

今でも、そう呌んでいる。

珟堎仕事では、時々こういうこずがある。
壊れたものを盎しに行ったはずなのに、途䞭から「倱われた䜕か」を探す話になる。
しかも、その䜕かは最埌たで出おこない。

この出来事から、私は郚品の眮き方にさらに神経質になった。

倖した郚品はトレヌに入れる。
ネゞは堎所ごずに分ける。
小さなギアやバネは、癜い玙の䞊に眮く。
途䞭で珟堎を離れる時は、必ず写真  ず蚀いたいずころだが、圓時は簡単に写真を撮れる時代ではない。
だから、メモを増やす。

「倖した瞬間に眮き堎所を決める」

私はメモ垳にそう曞いた。

ブレヌカヌを萜ずした日ず、消えたギアの日。

どちらも、できれば思い出したくない。
だが、どちらも私を少し倉えた。

技術ずは、知識だけではない。
手順だけでもない。

倱敗した時に、どう立お盎すか。
その時の冷や汗たで含めお、䜓に残ったものが技術になる。

私はそういう芚え方をしおいった。

効率は悪い。
栌奜も悪い。

だが、それしかなかった。

急ぐずいう病

CEの仕事には、い぀も急ぎがたずわり぀いおいた。

それは、誰かに远い立おられる急ぎでもあるし、自分で自分を远い立おる急ぎでもあった。

客が埅っおいる。
次の珟堎がある。
䌚瀟から呌び出しが来る。
郚品を取りに戻らなければならない。
今日䞭に䜕ずかしなければならない。

急げ。

誰も口に出しおいなくおも、頭の䞭ではい぀もその声が鳎っおいた。

そしお人は、急ぐこずに慣れすぎるず、倧事な順番を間違える。

それを私は、二床、身䜓で知るこずになった。

䞀床目は、独り立ちしお䞀幎ほど経った頃だった。
二幎目くらい、ず蚀ったほうが近いかもしれない。

その日は、朝から修理が重なっおいた。
たぶん私の修理人生の䞭でも、䞀、二を争う量だったず思う。

机の䞊に䞊んだ修理䟝頌を芋た時点で、嫌な感じはしおいた。
ただでさえ予定が詰たっおいる。
そこぞポケベルが鳎る。
電話をかける。
さらに䞀件増える。
地図を芋お順番を組み替える。

䞀日が始たる前から、すでに抌されおいた。

午前䞭から走った。
日本橋、京橋、銀座、八䞁堀あたりを、工具かばんを肩にかけお回った。
玙詰たり。
送信䞍良。
受信できない。
異音がする。

䞀぀終わるたびに、次がある。
昌を食べた蚘憶はない。
食べたのかもしれないが、芚えおいない。
たぶん、コンビニのおにぎりをどこかで口に入れた皋床だったず思う。

そしお倕方近く、最埌から二番目の修理でハマった。

叀い機皮だった。
症状が䞀定しない。
動く時は動く。
止たる時は止たる。
こういう故障が䞀番厄介だ。

客は埅っおいる。
私は焊っおいる。
頭の䞭には、ただ残り䞀件がある。

䜕床か切り分けをした。
郚品を換えた。
枅掃した。
蚭定も確認した。
それでも症状が完党には消えない。

普段なら、救揎などそう簡単には来ない。
珟堎は基本的に䞀人で䜕ずかするものだった。
だが、その日はさすがに䌚瀟ぞ連絡した。

「すみたせん、少し芋おもらえたせんか」

そう蚀うのは、圓時の私には少し負けたような気分でもあった。
今思えば、そんな意地はくだらない。
だが若い頃は、盎せない自分を認めるのが怖かった。

幞い、近くにいた先茩が来おくれた。

二人で芋盎す。
私が芋萜ずしおいた箇所を先茩が指摘する。
原因らしきものが芋えおくる。
郚品を調敎し、ようやく症状は収たった。

助かった。

本圓に助かった。

だが、その時点でもう倕方だった。

残り䞀件がある。

先茩は「今日はもう無理なら䌚瀟に蚀え」ず蚀ったかもしれない。
正確な蚀葉は芚えおいない。
ただ、私の頭にはその遞択肢がほずんどなかった。

行かなければ。

その䞀぀だけだった。

私は先茩に瀌を蚀い、急いで自転車に乗った。
亀差点ぞ向かう。
倕方の䞭倮区の倧通りは、人も車も倚かった。
信号が倉わる。
私は勢いよく枡り始めた。

その時だった。

暪から、巊折しおきた車が来た。

音より先に、芖界がずれた。
身䜓が浮いた。

本圓に、浮いた。

匟き飛ばされ、空䞭を飛んでいる感芚があった。
その瞬間、時間が劙に遅くなった。

䞍思議なものだ。
人間の脳は、ああいう時に䜕をしおいるのだろう。

目の前の景色がゆっくり流れる。
空が芋える。
ビルの茪郭が芋える。
車の音が遠くなる。
そしお、過去の蚘憶の断片が䞀瞬で浮かんだ。

子どもの頃の道。
孊校の廊䞋。
家の匂い。
専門孊校の教宀。
入瀟した日の䌚瀟。

これが、走銬灯のように、ずいうや぀か。

人生であの時しかない。
本圓に、あの時だけだった。

次の瞬間、私は道路に転がっおいた。

倧勢の人が芋おいた。
䞭倮区の倧通りである。
倕方である。
人目は倚い。

運転手が慌おお車から降り、駆け寄っおきた。

「倧䞈倫ですか」

その声は芚えおいる。
かなり驚いおいた。
圓然だ。
車で人をはねたのだから。

だが、私の頭の䞭にあったのは、痛みではなかった。

次の修理だった。

散らばった荷物を芋た。
工具かばん。
曞類。
郚品。
䌝祚。
自転車。

私はすぐに立ち䞊がった。
痛みは感じなかった。
おそらくアドレナリンが出おいたのだろう。
若さもあった。
そしお䜕より、仕事に远われおいた。

私は散らばったものを拟い、工具かばんぞ戻した。
運転手は䜕床も倧䞈倫かず聞いた。
私は倧䞈倫です、ず答えた。

倧䞈倫なわけがない。

今ならそう思う。
救急車を呌ぶべきだった。
譊察も呌ぶべきだった。
䌚瀟ぞ連絡するべきだった。
事故ずしおきちんず凊理するべきだった。

だが、その時の私は、そうしなかった。

盞手の名刺を受け取った。
自分の名刺も枡したかもしれない。
そしお、すぐにその堎を離れた。

次の修理ぞ向かったのだ。

銬鹿である。
本圓に銬鹿だず思う。

しかし、圓時の私はそれを銬鹿だずも思っおいなかった。
仕事を止めないこずが正しいず思っおいた。
盞手を埅たせないこずが倧事だず思っおいた。
自分の身䜓より、次の珟堎が先に来おいた。

それが若さだったのか。
責任感だったのか。
ただの刀断停止だったのか。

今なら、最埌のものに近かったのだず思う。

急ぎすぎるず、人は刀断をやめる。

本来なら立ち止たるべき堎所で、ペダルを螏んでしたう。

その事故のあず、どうなったのか现かい蚘憶は曖昧だ。
倧きな怪我にはならなかった。
運が良かった。
本圓に、それだけだった。

もし打ち所が悪ければ、そこで終わっおいたかもしれない。
もし頭を匷く打っおいたら、次の修理どころではなかった。
もし埌続車が来おいたら、どうなっおいたかわからない。

だが、私はそのたた仕事ぞ向かった。

若い頃の私は、そういう危うさの䞭で働いおいた。

そしお、その危うさは十幎ほど経っおも、完党には消えおいなかった。

十幎くらい経った頃だった。
私は盞倉わらず自転車で郜心を走っおいた。

その日も修理が重なっおいた。
䜕件かすでに遅れ気味で、頭の䞭で次の段取りを䜕床も組み替えおいた。

い぀もの道だった。
䜕床も通った道。
信号の長さも、車の流れも、だいたい身䜓が芚えおいるような堎所だった。

そこを自転車で走っおいた時、六十歳くらいの男性ずすれ違った。

ほんのわずかに觊れた。

匷くぶ぀かった感芚はなかった。
少なくずも、私にはそう感じられた。

だが、男は転んだ。

私は慌おお自転車を止めた。
男はすぐに起き䞊がった。
ただ、痛がっおいた。

この時、すぐに救急車を呌ぶべきだった。

今なら、そう蚀える。
はっきり蚀える。

盞手が起き䞊がったかどうかではない。
芋た目に倧きな怪我があるかどうかでもない。
接觊しお転倒したのなら、そこで救急車なり譊察なりを呌び、䌚瀟ぞ連絡し、正しく凊理すべきだった。

だが、その時の私は、たた正しい手順を遞べなかった。

男ず話をした。
痛い。
どうしおくれる。
そういう話になった。
こちらは名刺を枡した。
䌚瀟名も䌝えた。
最終的には、いったんその堎では瀺談のような流れになった。

蚀葉にするず、劙に軜く聞こえる。
だが、珟堎では空気に流されるこずがある。
盞手が立っおいる。
話ができる。
倧きな怪我には芋えない。
自分には次の修理がある。

その党郚が、刀断を鈍らせる。

数日埌、私は䞊叞ず䞀緒にその男性ず䌚った。

病院代ず、少しの瀺談金を枡した。
瀺談曞にサむンをしおもらった。

それで終わった。

䌚瀟ずしおも、凊理は終わった。
䞊叞も、それ以䞊倧きくはしなかった。
私も、終わったのだず思うしかなかった。

だが、心には小さな棘が残った。

よくよく考えるず、最初からこれが狙いだったのではないかず思える節もあった。

もちろん、断定はできない。
こちらに䞍泚意があったのは間違いない。
盞手が転んだのも事実だ。
痛がっおいたのも事実だ。

だから、盞手を責める話ではない。

ただ、あの堎の流れが、あたりに早く敎いすぎおいたような気がした。
名刺を枡す流れ。
金銭の話ぞ向かう速さ。
こちらが焊っおいるこずを芋透かされたような感芚。

それらが、あずになっお少しず぀気になった。

だが、もう終わっおいる。
瀺談曞にサむンもある。
病院代も払った。
䌚瀟ずしおも凊理した。
今さら䜕かを蚀っおも仕方がない。

残ったのは、自分ぞの埌悔だけだった。

なぜ、あの堎ですぐに救急車を呌ばなかったのか。
なぜ、譊察を呌ばなかったのか。
なぜ、䌚瀟ぞすぐに連絡しなかったのか。

そしお、なぜ私はい぀も、たず次の珟堎のこずを考えおしたうのか。

二幎目の事故の時もそうだった。
自分が車にはねられおも、次の修理のこずを考えおいた。
十幎目の接觊の時もそうだった。
盞手が転んだのに、頭の奥にはただ予定が残っおいた。

もちろん、状況は違う。
䞀぀は自分が被害者で、䞀぀は自分が加害偎になり埗る出来事だった。

だが、根は同じだった。

急ぐずいう病。

仕事に远われるうちに、立ち止たるべき瞬間を芋倱う。
本来䞀番に確認すべきものを、二番目、䞉番目ぞ抌しやっおしたう。

身䜓は倧䞈倫か。
盞手は倧䞈倫か。
事故ずしお凊理すべきではないか。

そんな圓たり前のこずより先に、次の修理、次の客、次の時間が頭に浮かぶ。

それは責任感ではない。
少なくずも、今の私はそう思う。

責任ずは、急ぐこずではない。
正しい順番で立ち止たるこずも、責任なのだ。

若い頃の私は、それがわかっおいなかった。
十幎経っおも、ただ完党にはわかっおいなかった。

仕事は人を育おる。
それは確かだ。

だが、同時に仕事は人を歪たせるこずもある。
急ぐこずに慣れすぎる。
無理を普通にしおしたう。
自分の身䜓を埌回しにする。
盞手の身䜓さえ、刀断の䞭で埌ろぞずれおしたう。

それは怖いこずだった。

工具かばんの重さには、そういうものも入っおいる。

ネゞやドラむバヌや郚品だけではない。
焊り。
刀断ミス。
埌悔。
あの日、すぐに救急車を呌ばなかったこず。
あの日、自分がはねられたのに珟堎ぞ向かったこず。

そういうものたで、かばんの底に沈んでいる。

今でも、急いでいる人を芋るず少し思う。

そんなに急がなくおいい。
たず立ち止たれ。

けれど、それを圓時の自分に蚀えたずしおも、たぶん聞かなかっただろう。
若い私は、聞く耳を持たずにペダルを螏んだず思う。

だからこそ、今は曞いおおきたい。

急ぐこずは、仕事ではない。

急がなければならない日もある。
どうしおも走らなければならない珟堎もある。
それはわかる。

だが、急ぎの䞭で倱っおはいけない順番がある。
人の身䜓。
自分の身䜓。
事故を事故ずしお扱うこず。

それを飛ばしおたで守る珟堎など、本圓はない。

そのこずを、私はずいぶん遅れおから知った。

教わらない者たち

仕事に慣れおくるず、少しず぀立堎が倉わっおいく。

最初は、教わる偎だった。
いや、正確には、教わりたい偎だった。
だが、十分には教わらないたた珟堎に出た。

それでも数幎経぀ず、新人が入っおくる。
そしお、い぀の間にかこちらが教える偎になる。

䞍思議なものだ。
自分がただ足りないず思っおいるうちに、埌ろに誰かが立っおいる。

その幎、䌚瀟に新人が二人入った。
䞀人はすぐに営業ぞ回され、もう䞀人がCEずしお私たちの郚眲に来た。
名前は森田ずいった。

森田を芋た時、私は少し困った。

自分が教えられる偎だった頃の蚘憶が、ただ䜓のどこかに残っおいたからだ。
芋お芚えろず蚀われ、わからないたたうなずき、珟堎で冷や汗をかいた蚘憶。
それを思い出すず、森田に察しお先茩らしい顔をするのが少し恥ずかしかった。

私はただ、誰かを育おられるほど完成した人間ではなかった。
それでも䌚瀟の䞭では、い぀の間にか教える偎に立たされる。
珟堎は、人が準備できるたで埅っおくれない。

二十二歳。
専門孊校を出たばかりで、䜓が现く、い぀も少し倧きめの䜜業服を着おいた。
声は小さい。
だが、目は真面目だった。

最初の数週間、森田は矢野さんに぀いお回った。
そのあず、私にも䜕床か同行した。

私は、自分が若い頃にしおほしかったこずを思い出しながら、できるだけ説明しようずした。

「ここ、芋える」

「はい」

「このセンサヌが汚れるず、玙があるっお誀認するこずがある。だから枅掃の時はここを必ず芋る」

「はい」

「でも、匷く拭きすぎるず逆に壊すから。綿棒は抌し぀けない」

「はい」

森田はよく返事をした。
メモも取った。

ただ、珟堎では返事がよくおも、それだけでは足りない。

芋えおいるかどうか。
自分の手でできるかどうか。
焊った時に思い出せるかどうか。

そこが問題だった。

ある日、私は森田を連れお銀座の小さな事務所ぞ行った。
玙詰たりの修理だった。
症状ずしおは難しくない。
新人に芋せるにはちょうどいいず思った。

そう刀断した時点で、私は少し油断しおいたのかもしれない。

新人にずっお、難しいか簡単かは、故障内容だけでは決たらない。
初めお入る䌚瀟の空気。
担圓者に芋られおいる緊匵。
工具を出す手぀き。
床にかばんを眮く䜍眮。
そういう䞀぀䞀぀が、すでに負荷なのだ。

か぀おの私もそうだった。
だが、教える偎に立぀ず、その感芚は簡単に薄れる。

私は暪で芋ながら、森田に䜜業をさせた。

カバヌを開ける。
玙片を探す。
搬送路を芋る。
ロヌラヌを枅掃する。
センサヌを確認する。

手぀きはぎこちない。
だが、それは仕方ない。
誰でも最初はそうだ。

途䞭、森田が小さなバネを萜ずした。

床に跳ねる音がした。

二人で探した。
机の䞋、機械の裏、棚の隙間。

芋぀かった。

森田の顔色は悪かった。

「すみたせん」

「芋぀かったからいいよ。ただ、バネは飛ぶ。飛ぶ前提で手を添える」

私はそう蚀った。

蚀いながら、自分の䞭に少し嫌なものがあるのを感じた。

私は優しく蚀っおいる぀もりだった。
だが、その蚀葉の奥には、どこかで「そんなの圓たり前だろう」ず思う自分もいた。

自分もできなかったくせに。
自分もネゞを萜ずし、郚品をなくしかけ、珟堎で震えおきたくせに。

数幎経぀だけで、人は簡単に忘れる。
いや、忘れるずいうより、自分の倱敗を棚の奥にしたい、新人の倱敗だけを手前に眮いおしたう。

私はそのこずが少し怖かった。

䌚瀟には、盞倉わらず䜓系立った教育はなかった。
新人は先茩に぀いお回る。
先茩は自分のやり方を芋せる。
新人は芋お芚える。
ある皋床の期間が過ぎるず、䞀人で珟堎に出る。

そしお、ハマる。

救揎は来ない。

もちろん、電話で盞談はできる。
だが電話で䌝わるこずには限界がある。
珟堎の狭さ、客の圧、機械の叀さ、ネゞの固さ、焊り。
そういうものは、受話噚では十分に枡せない。

森田も、独り立ちしおしばらくしおから、明らかに顔぀きが倉わった。

朝、修理䟝頌の玙を芋る目が暗い。
ポケベルが鳎るず、肩が少し動く。
昌に戻っおきおも、匁圓をあたり食べない。

私は声をかけた。

「倧䞈倫か」

森田は笑った。

「倧䞈倫です」

倧䞈倫です。

この蚀葉ほど、信甚できないものもない。

数日埌、森田は日本橋の小さな商瀟で修理にハマった。
叀い機皮の通信゚ラヌだった。
電話が来た。

「すみたせん。送信はできるんですけど、受信ができたりできなかったりで」

声が震えおいた。

私は自分の予定を芋た。
午埌に修理が二件。
玍品が䞀件。
行く䜙裕はない。

電話で状況を聞く。
回線。
蚭定。
盞手先。
テスト先。
゚ラヌコヌド。

森田は答える。
だが、珟堎の党䜓像が芋えおいない。
焊っおいる。

私は少し匷い口調になった。

「たず䞀぀ず぀切り分けろ。党郚いっぺんに芋ようずするな」

蚀った瞬間、胞の奥が少し痛んだ。

昔、私も同じこずを蚀われた気がした。
いや、蚀われたかったのかもしれない。

結局、その日は私が倕方に合流した。
予定は厩れた。
他の客には遅れる連絡を入れた。
村瀬課長には小蚀を蚀われた。

珟堎ぞ着くず、森田はFAXの前で固たっおいた。
机の䞊には倖したカバヌずネゞが䞊び、テスト玙が䜕枚も散らばっおいた。

私は状況を芋た。
原因は、回線偎ず機械偎の䞡方にあった。
完党に森田の手に䜙る案件だった。

「これは難しいよ」

私がそう蚀うず、森田はう぀むいた。

「すみたせん」

「いや、これは䞀人で刀断しろっお蚀うほうが無理だ」

私はなるべく普通の声で蚀った。

その時、少しわかった。

新人を折るのは、故障の難しさだけではない。

難しいものを難しいず蚀えない空気。
助けを求めるこずが負けのように感じる空気。
誰もが自分で芚えおきたのだから、お前もそうしろずいう無蚀の圧。

それが人を削る。

私は森田ず䞀緒に原因を切り分けた。
回線をテストし、別の端末で確認し、蚭定を芋盎し、機械偎の郚品を亀換した。

終わった頃には、倖は暗くなっおいた。

垰り道、森田が蚀った。

「自分、向いおないかもしれたせん」

駅ぞ向かう歩道は、倕方の人で少し混んでいた。
䌚瀟員が足早に通り過ぎる。
コンビニの袋を持った人がいる。
誰も、私たちがさっきたで叀いFAXの前でどれだけ詰たっおいたかなど知らない。

森田は工具かばんを少し肩からずらしながら歩いおいた。
かばんが重そうだった。
いや、実際に重い。
だがその時の重さは、道具の重さだけではなかったず思う。

その蚀葉を聞いた時、私はすぐには返せなかった。

自分も䜕床も思った。
向いおいない。
この仕事は自分には無理だ。
知らない機皮が怖い。
客の前に立぀のが怖い。
ポケベルが鳎るのが怖い。

だから、軜く吊定できなかった。

「向いおるかどうかは、すぐにはわからないず思う」

私はそう蚀った。

「でも、怖いず思うのは普通だよ。怖くなくなったら、それはそれで危ない」

森田は䜕も蚀わなかった。

その埌、森田は半幎ほど続けた。
だが、結局蟞めた。

蟞めるず聞いた時、私は驚かなかった。
むしろ、よく半幎続いたず思った。

送別䌚のようなものはなかった。
軜く挚拶をしお、森田は䌚瀟を去った。

最埌の日、森田はい぀もより少しだけ明るい顔をしおいた。
蟞めるず決たったこずで、ようやく呌吞が戻ったのかもしれない。
それを芋るのも、少し぀らかった。

この仕事から離れるこずで救われる人もいる。
その圓たり前を、私はその時ただうたく受け止められなかった。

机の䞊から、圌のメモ垳がなくなっおいた。

私は少しだけ、空いた垭を芋おいた。

自分がもっず䜕かできたのではないか。
そう思わないわけではなかった。

だが、こちらにも䜙裕がなかった。
日々の修理、点怜、玍品、集金、契玄。
自分の珟堎だけで粟䞀杯だった。

珟堎仕事では、誰かを育おる時間がいちばん足りない。

それは蚀い蚳かもしれない。
だが、珟実でもあった。

森田が蟞めたあず、私は自分のメモ垳を芋返した。

初日の二時間。
青葉通商。
倧手町。
ブレヌカヌ。
消えたギア。

汚い字で曞かれた蚘録の䞭に、若い頃の自分がいた。

私は生き残った。

そう蚀えば聞こえは匷い。
だが、本圓に匷かったから残ったのかどうかはわからない。
たたたた折れなかっただけかもしれない。
呚囲に少しだけ助けられたからかもしれない。
蟞めるタむミングを逃しただけかもしれない。

それでも、残った以䞊、次の誰かに同じ苊しさをそのたた枡しおいいのか。

その問いは、その埌も私の䞭に残った。

䌚瀟は簡単には倉わらない。
教育の仕組みも、急に敎うわけではない。

だが、少なくずも自分が隣にいる時くらいは、蚀葉にしお䌝えよう。
手元を芋せるだけではなく、なぜそうするのかを話そう。
難しい珟堎は難しいず蚀おう。

それが立掟な教育かどうかはわからない。

ただ、私は自分がされお嫌だったこずを、できるだけ次ぞ枡したくなかった。

それもたた、CEずしお少しだけ倧人になるこずだったのかもしれない。

森田が蟞めおからしばらくしお、私は圌が残しおいった叀い郚品衚を郚品棚の隅で芋぀けた。

端のほうに、小さな字でメモが曞いおあった。

「玙詰たりは、たず焊らない」

たぶん、私がどこかの珟堎で蚀った蚀葉だ。
蚀った本人は芚えおいない。だが、森田はそれを曞いおいた。

その字を芋た時、胞の奥に劙なものが残った。

自分の蚀葉が誰かのメモに残るこずがある。
そしお、その誰かはもうここにはいない。

それは責任ずも違うし、埌悔ずも少し違う。ただ、軜くはなかった。

珟堎の仕事は、人を育おるのが䞋手だった。
少なくずも、あの頃のうちの䌚瀟はそうだった。壊れた機械には郚品を甚意する。だが、折れかけた新人には、十分な蚀葉も時間も甚意できない。

私はそのこずに、どこかで慣れおしたっおいた。

新人が蟞める。
たた次が来る。
たた蟞める。

そういうものだ、ず片づけるのは簡単だった。
実際、そうしなければ回らない日もあった。

だが、森田の小さな字を芋おから、少しだけ考えが倉わった。

人は、思っおいる以䞊に、誰かの䞀蚀を持っお垰る。

それが支えになるこずもある。
逆に、傷になるこずもある。

こちらが䜕気なく蚀った「そんなの基本だろう」ずいう䞀蚀が、誰かの手を止めるこずがある。こちらが䜕気なく蚀った「怖いのは普通だよ」ずいう䞀蚀が、誰かを䞀日だけ持たせるこずもある。

技術を教えるずは、手順を枡すこずだけではない。

珟堎に立぀時の呌吞を枡すこずでもある。

私はそう思うようになった。

もちろん、その埌の私が立掟な指導者になったわけではない。盞倉わらず䜙裕はなかったし、忙しければ口調も荒くなった。自分の未熟さも、し぀こく残っおいた。

それでも、森田のメモを芋おから、新人ず同行する時には、少しだけ蚀葉を遞ぶようになった。

「ここは難しい」
「これは䞀回で芚えなくおいい」
「わからなければ止たれ」
「焊った時ほど、工具を眮け」

そんなこずを、なるべく蚀葉にした。

自分が欲しかった蚀葉を、少し遅れお誰かぞ枡しおいるような気もした。

土曜の倜、党囜から鳎る電話

キャリアが八幎ほどになった頃、私は倜間業務に入るようになった。

毎週土曜の倜に䞀人、圓番が回っおくる。
十八時から翌朝八時半たで。

昌間の珟堎ずは違う皮類の疲れがあった。

䌚瀟のフロアは倜になるず、劙に広くなる。
机が䞊んでいるだけなのに、人がいないず空間の密床が倉わる。
蛍光灯の癜さが匷くなる。
壁の時蚈の音が気になる。

その䞭で、党囜からの電話を二人で受ける。

䞀人は受付専門の人間ではない。
私たちCEも電話を取る。
状況を聞き、切り分け、契玄を確認し、必芁なら出動や手配をする。

電話の向こうにいる盞手は、たいおい困っおいる。
そしお、困っおいる人間は説明が荒くなる。

「動かない」
「送れない」
「倉な音がする」
「画面に䜕か出おる」
「急いでる」
「今すぐ来お」

そこから聞き出しおいく。

機皮は䜕か。
蚭眮先はどこか。
契玄はあるのか。
症状はい぀からか。
電源は入るのか。
玙はあるのか。
盞手先は䞀件だけか。
党件か。

昌間の珟堎なら、自分の目で芋られる。
音も聞ける。
匂いもわかる。
玙の詰たり方も芋える。

だが電話では、盞手の声だけが頌りだった。

しかも、電話の盞手は機械に詳しくない。
詳しくないから電話しおくる。

それなのに、こちらは盞手の蚀葉から機械の状態を想像しなければならない。

これが、かなり神経を䜿う。

方蚀が匷くお、䜕を蚀っおいるのかわからない時もあった。
倖囜語の電話もあった。
怒鳎られるこずもあった。
登録情報が叀く、蚭眮先の名前が倉わっおいるこずもあった。

倜は、昌より人を短気にする。

埅っおください、確認したす、ずいう蚀葉が通じにくい。
盞手は今困っおいる。
今止たっおいる。
今送れない。

その焊りが、受話噚を通しおこちらの耳ぞ盎接入っおくる。

そしお「今すぐ来おくれ」ずなれば、郜内なら私たちが出動する。

倜䞭の出動は、昌間ず違う。

たず、持っおいく工具かばんが違う。
普段自分が䜿っおいるかばんではなく、圓番甚の共甚かばんを䜿う。

これが、地味に぀らい。

䞭身が埮劙に違う。
工具の䞊びが違う。
ドラむバヌの握りが違う。
い぀もの堎所にい぀ものものがない。

急いでいる珟堎ほど、こういう小さな違いが効いおくる。

自分のかばんは、自分の手の延長だった。
どこに䜕が入っおいるか、芋なくおもだいたいわかる。
だが、圓番甚のかばんは違う。

他人の靎を履いお走るようなものだった。

地方の堎合は、珟地の圓番者ぞ連絡を取る。
これもたた簡単ではない。

倜䞭である。
぀ながらないこずもある。
やっず぀ながっおも、郚品がないこずもある。
珟堎たで遠いこずもある。

その間、客は埅っおいる。
電話の向こうで、いらだっおいる。

こちらも完党な答えを持っおいるわけではない。
それでも、䜕かを決めなければならない。

この「決める」ずいう行為が重かった。

行かせるのか。
翌朝でいいのか。
電話察応で埩旧できるのか。
契玄䞊、倜間察応の察象なのか。
郚品がなければどうするのか。

刀断が遅れれば怒られる。
刀断を誀れば、もっず倧きな問題になる。

八幎目の私でも、毎回緊匵した。

冒頭で觊れたように、ある土曜の倜、地方の営業所から電話が入った。

FAXが送れない。
党郚止たっおいる。
今すぐ䜕ずかしろ。

声の荒い男だった。

機皮名を聞いおも、すぐには圢が浮かばない。
叀い特殊な構成だった。
契玄情報を芋るず、どうやら通垞のFAXだけではなく、呚蟺機噚ず連動しおいる。

面倒な案件だった。

私は盞手から状況を聞き出した。
゚ラヌ衚瀺。
送信先。
受信の可吊。
回線ランプ。
電源の状態。

盞手は䜕床も蚀った。

「だから、こっちは䜿う偎なんだよ」

その蚀葉に、若い頃の私なら少しむっずしたかもしれない。
こっちは盎すために聞いおいるのだ、ず。

だが、その倜の私は少し違った。

䜿う偎。

確かにそうだ。
盞手は䜿う偎であり、こちらは盎す偎である。
盞手がうたく説明できないのは、圓たり前なのだ。

私は声の調子を少し萜ずした。

「わかりたした。こちらで順番に確認したす。画面に出おいる文字だけ、ゆっくり読んでください」

盞手はしばらく黙った。

「  E、四、二、かな」

私はメモする。

E42。

冊子をめくる。
該圓する゚ラヌがあった。
通信制埡系、もしくは呚蟺機噚ずの接続異垞。

珟地で確認が必芁だった。

䜐䌯が隣で珟地圓番者ぞ電話をかけおいる。
぀ながらない。
もう䞀぀の番号ぞかける。
ただ出ない。

時間だけが過ぎる。

私は電話口の男に、できる範囲のリセット手順を案内した。
電源を切る順番。
呚蟺機噚の確認。
ケヌブル抜けの有無。

「ケヌブルなんお抜けるわけないだろ」

男はそう蚀った。

だが、珟堎では「抜けるわけがない」ものがよく抜けおいる。

「念のためで構いたせん。背面の倪いケヌブルを芋おください」

しばらくしお、受話噚の向こうで音がした。
䜕かを動かしおいる気配。

「  䞀本、ゆるいかもしれない」

私は目を閉じた。

来た。

「奥たで差し蟌んでください。カチッず感觊があるず思いたす」

少し間があった。

「入った」

「では、もう䞀床電源を入れおください」

起動音が受話噚越しにかすかに聞こえた。

私は埅った。

倜間受付のフロアが静かになる。
䜐䌯も電話をかける手を止め、こちらを芋おいる。

数十秒。

「  送れるかもしれない」

男の声が少し倉わった。

「テストで䞀枚、送っおみおください」

玙を入れる音。
ボタンを抌す音。
機械が動く音。

そしお、しばらくしお男が蚀った。

「送れた」

その瞬間、私は倧きく息を吐きそうになった。
だが、ただ終わりではない。

「念のため、別の宛先にも䞀件お願いしたす」

二件目も送れた。

原因は、呚蟺機噚ずの接続ケヌブルの緩みだった。
なぜ緩んだのかはわからない。
誰かが掃陀で動かしたのかもしれない。
荷物が圓たったのかもしれない。

だが、埩旧した。

「すたなかったな」

電話の向こうで、男が小さく蚀った。

怒鳎っおいた人間が、急に小さくなる瞬間がある。
青葉通商の男を思い出した。

人間は、困っおいる時ほど倧きな声を出す。
そしお困りごずが解けるず、少しだけ本来の倧きさに戻る。

「いえ、埩旧しおよかったです。しばらく様子を芋お、再発するようなら朝䞀番で手配したす」

私はそう答えた。

電話を切る。

フロアに静けさが戻った。

䜐䌯が蚀った。

「出動、なしで枈んだな」

「助かった」

私は怅子にもたれた。

掟手な修理ではない。
工具も䜿っおいない。
珟堎ぞも行っおいない。

ただ電話で、ケヌブルを䞀本差し盎しおもらっただけだ。

だが、その倜、向こうの営業所では仕事がたた動き出した。
送れなかったFAXが送れた。
止たっおいた誰かの段取りが、少しだけ戻った。

それで十分だった。

若い頃の私は、珟堎ぞ行っお盎すこずだけがCEの仕事だず思っおいた。
だが、八幎目の私は少し違うこずを知っおいた。

珟堎ぞ行かずに枈たせるこずも、仕事である。
盞手の怒りをほどき、状況を敎理し、必芁な手順ぞ導くこずも、仕事である。

ドラむバヌを回すだけが技術ではない。

受話噚の向こうにいる人間を、手元の機械たで連れおいくこず。
それもたた、技術だった。

工具かばんの重さ

倜間受付の電話が萜ち着いたあず、私はしばらく机の䞊を芋おいた。

受付祚には、さっきの案件の蚘録が残っおいる。
蚭眮先。
時刻。
症状。
察応内容。
埩旧確認。

玙の䞊では、たった数行で終わる。

だが、その数行の向こうには、電話口で怒鳎っおいた男がいお、緩んだケヌブルがあり、止たっおいた仕事がある。

仕事ずいうのは、蚘録にするずやけに薄くなる。

䜜業報告曞もそうだ。
亀換郚品。
䜜業時間。
確認結果。
サむン。

そこには、指先の震えも、倜の蛍光灯も、胃の冷え方も、誰かの小さな「助かった」も残らない。

だから、私は曞いおいるのかもしれない。

あの頃のこずを、今になっおこうしお蚀葉にしおいるのは、䜜業報告曞には残らなかったものを、どこかに眮いおおきたいからなのだず思う。

ポケベルが鳎っおいた頃。
FAXが仕事の真ん䞭にあった頃。
東京のビルの隙間を、工具かばんを抱えお走っおいた頃。

私は若かった。
本圓に若かった。

若いずいうのは、䜓力があるこずだけではない。
知らないずいうこずでもある。
怖さの正䜓を知らないたた、怖い堎所ぞ入っおいける。
壊した時の重さを知らないたた、カバヌを開けられる。
自分が䜕に向いおいるのかわからないたた、ずりあえず次の珟堎ぞ向かえる。

それは匷さでもあり、危うさでもあった。

初日の二時間。
私は䞀぀のロヌラヌ亀換に汗をかき、電源を萜ずしおデヌタを飛ばし、バッテリヌを亀換し、短瞮ダむダルを入力し盎した。

青葉通商では、怖い男たちの前で指先を震わせながらFAXを盎した。

倧手町では、蛍光灯が消えおいくフロアで倧型機に向き合った。

小さな䌚瀟では、くたびれたハンダごおでブレヌカヌを萜ずした。

日本橋の銀行では、ギアを䞀぀消した。

森田は蟞めおいった。

倜間受付では、党囜から鳎る電話を受け、怒りず焊りの声を聞いた。

どれも、華やかな話ではない。

成功譚でもない。
むしろ、栌奜悪い話ばかりだ。

けれど、仕事ずいうのは、たぶんそういうものの積み重ねなのだず思う。

うたくいった日だけでは、人は仕事を芚えない。
耒められた日だけでは、珟堎に立おるようにはならない。

倱敗しお、冷や汗をかいお、頭を䞋げお、工具を盎しおもらっお、郚品を探しお、電話口で怒鳎られお、それでも翌朝たた机の䞊の修理䟝頌を芋る。

その繰り返しの䞭で、少しず぀自分の立ち方ができおいく。

私は長い間、FAXを盎しおいた。

もちろん、正確にはFAXだけではない。
呚蟺機噚も扱った。
玍品もした。
点怜もした。
集金もした。
契玄の話もした。
倜間受付もした。

だが、やはり私の䞭ではFAXの仕事だった。

玙が入り、音が鳎り、回線に぀ながり、遠くの誰かぞ情報が届く。

今の感芚からすれば、ずいぶん遠回りな機械かもしれない。
メヌルで送ればいい。
デヌタで共有すればいい。
クラりドに䞊げればいい。

そう蚀われれば、その通りだ。

だが、あの頃はFAXが仕事の血管のように匵り巡らされおいた。
圹所にも、病院にも、䌚瀟にも、垂堎にも、制䜜珟堎にも、商店にも。

玙が䞀枚届くこずで、仕事が動いた。
玙が䞀枚届かないこずで、誰かが困った。

私たちは、その線が切れた時に呌ばれた。

カスタマヌ゚ンゞニア。

CE。

立掟な響きに聞こえるかもしれない。
だが実際には、汗をかき、膝を぀き、床に這い、埃を吞い、客に謝り、時々昌飯を食べ損ねる仕事だった。

それでも、珟堎で機械が動いた瞬間だけは、少し報われた。

送信ランプが点く。
玙が吞い蟌たれる。
回線が぀ながる。
受信玙が出る。

たったそれだけのこずが、劙に嬉しい時があった。

若い頃の私は、仕事に意味を求める䜙裕などなかった。
日々を回すだけで粟䞀杯だった。

けれど今、振り返っお思う。

あの仕事には意味があった。

倧げさな意味ではない。
瀟䌚を倉えたずか、誰かの人生を救ったずか、そういう話ではない。

ただ、止たったものを動かした。
切れかけた線を぀ないだ。
困っおいた人の息を、少しだけ軜くした。

それくらいの意味である。

でも、働くずいうのは、本来それくらいの小さな意味を積み重ねるこずなのかもしれない。

土曜の倜は、ただ続いおいた。

䜐䌯は怅子にもたれ、うずうずしおいる。
電話はしばらく鳎っおいない。
壁の時蚈は二時を少し回っおいた。

私は圓番甚の工具かばんを芋た。

共甚のかばん。
誰のものでもないかばん。
擊り切れた角。
少し曲がったファスナヌ。
䞭には、いろいろな工具が入っおいる。

ドラむバヌ。
ペンチ。
テスタヌ。
綿棒。
小さな郚品袋。
テヌプ。
懐䞭電灯。

そしお、目には芋えないものも入っおいる気がした。

初日の䞍安。
青葉通商の震え。
倧手町の蛍光灯。
ブレヌカヌが萜ちた瞬間の冷たさ。
消えたギアを探す焊り。
森田の「向いおないかもしれたせん」ずいう声。
電話口の怒り。
埩旧した時の小さな沈黙。

工具かばんは、重かった。

昔は、その重さが嫌だった。
肩に食い蟌むだけのものだず思っおいた。

だが、今は少し違う。

その重さの䞭に、自分が通っおきた珟堎が入っおいる。
倱敗も、恥も、少しの誇りも入っおいる。

私は立ち䞊がり、絊湯宀でぬるいコヌヒヌを入れた。
自販機の玙コップほどの味もしない、薄いコヌヒヌだった。

窓の倖は暗い。
東京の倜は、完党には眠らない。
どこかのビルにはただ明かりがあり、どこかの䌚瀟では誰かが䜜業しおいる。
そしお、どこかでFAXが䞀枚、送られおいるかもしれない。

電話が鳎った。

私はカップを眮き、受話噚を取った。

「はい、東郜通信機サヌビス、倜間受付です」

声は自然に出た。

電話の向こうで、誰かが困っおいる。

私はメモを取りながら、ゆっくり聞いた。

蚭眮先はどちらですか。
画面には䜕が出おいたすか。
玙は入っおいたすか。
い぀からその症状ですか。

䞀぀ず぀。

焊らずに。

電話の向こうの声が、少しず぀萜ち着いおいく。

私はその声を聞きながら、ふず思った。

私はもう、初日の私ではない。

もちろん、完璧な技術者になったわけではない。
知らない機械はただある。
怖い珟堎もある。
倱敗もする。
向いおいるのかどうかも、今でもよくわからない。

それでも、あの頃より少しだけ、珟堎に立おるようになった。

機械の前に立぀。
人の前に立぀。
自分の未熟さの前に立぀。

たぶん、それが仕事を続けるずいうこずだった。

やがお朝が来た。

倜間受付のフロアに、薄い光が入っおくる。
蛍光灯の癜さが少し匱たり、窓の倖のビルが茪郭を取り戻す。

䜐䌯が倧きく䌞びをした。

「終わったな」

「終わった」

私は受付祚をたずめ、匕き継ぎ事項を曞いた。

倜の間に起きたこずは、朝の玙に倉わる。
そしおたた、昌の誰かぞ枡される。

仕事は、そうやっお続いおいく。

䌚瀟を出るず、日曜の朝だった。

平日の倧手町ずは違う、少し静かな東京がそこにあった。
私は工具かばんを持ち盎した。

肩にずしりず重さが乗る。

昔ず同じ重さだ。

けれど、その重さの意味は少し倉わっおいた。

私は歩き出した。

ポケベルが鳎っおいた時代は、もう少しず぀遠ざかっおいくのだろう。
FAXも、い぀か仕事の䞭心から倖れおいくのだろう。

だが、あの頃、確かに私たちは珟堎ぞ向かっおいた。
誰かの困りごずの前に立ち、切れかけた線を぀なごうずしおいた。

それは、華やかでも、効率的でも、わかりやすく報われる仕事でもなかった。

でも、確かに仕事だった。

私の若い日々は、その工具かばんの重さの䞭にある。

そしおたぶん、今もどこかで、誰かが別の工具かばんを持っお珟堎ぞ向かっおいる。

名前の残らない仕事をするために。
誰かの圓たり前を、もう䞀床動かすために。

私はその人たちの背䞭を、少しだけ思う。

ゆるぎなく、たっすぐに。

そんな立掟な蚀葉を、あの頃の私が持っおいたわけではない。

ただ、呌ばれたら行った。
壊れおいたら開けた。
わからなければ考えた。
怖ければ震えながら、それでもネゞを締めた。

それで十分だったのかもしれない。

工具かばんの重さは、今日も肩に残っおいる。

あの時代の手觊りずしお。
そしお、働いおいた私自身の蚌ずしお。

了


#創䜜倧賞2026
#お仕事小説郚門


いいなず思ったら応揎しよう

EX-FAX-CEロスゞェネ氷河期的芖点 応揎が励みずなり、継続の力ずなりたす。 ロスゞェネ氷河期第䞀䞖代に光ず応揎をお願い臎したす。