本能と善性のあいだで
人間の「善さ」とは、なんだろう。
ときどき、それが分からなくなる。
それは「本能を抑えること」なのだろうか。
衝動のままに振る舞わず、理性によって自分を律すること。
それこそが、人間らしさであり、善性なのだろうか。
その考え方には一理ある
けれど、ふと立ち止まる。
もし本当に、本能を削ぎ落とした先に「善」があるのだとしたら、そこに残る人間は、どんな姿をしているのだろう。
愛想もなく、装いもなく、ただ淡々と日々をこなす存在。
その姿を、私たちは本当に「魅力的だ」と感じるだろうか。
たぶん、少しだけ難しい。
私たちはきっと、どこかで「本能的に惹かれるもの」を求めている。
やわらかさや、親しみやすさや、安心感。
あるいは、弱さのように見えるもの。
それらは、必ずしも合理的ではないし、ときに「作られたもの」であることすらある。
それでもなお、人はそこに惹かれる。
ここで、少しだけ不思議なことが起きる。
本能に寄り添った振る舞いは、ときに「不誠実」として批判される。
けれど同時に、その振る舞いに惹かれる心もまた、確かに存在している。
つまり私たちは、本能を否定しながら、本能に惹かれている。
だからこそ思う。
問題は、「どちらが正しいか」ではないのかもしれない。
本能のままに生きることも、それを抑えようとすることも、どちらも人間の一部なのだとしたら。
必要なのは、どちらかを切り捨てることではなく、そのあいだでどう折り合いをつけるか、なのではないか。
人は、完全に理性的にもなれないし、
完全に本能的にもなれない。
そのどちらでもない場所で、揺れ続けている。
だからこそ、誰かを求め、誰かに求められながら、少しずつ「ちょうどいい距離」を探しているのかもしれない。
