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小説と脚本の間にあるもの

先日、電車の中で、隣の人が縦スクロールの漫画を読んでいた。

何とは無しに覗き見をした。吹き出しがかなり大きく、あまり漫画に見えなかった。

前にも書いたが、縦スクロールの漫画は、椀子そばである。だから横見開きの漫画のような、吹き出しのない絵だけのコマが少ない。もっと言えば、見開きページを使ったダイナミックな絵も当然ない。

漫画なのに、絵を見るというより、セリフを読む。

この違いは、最近の投稿小説にも見られる。

やたら会話が多いのだ。

これは昔は、小説の禁じ手だった。

会話が続くとページが白くなるからだ。作者の手抜きと思われ、編集者は嫌った。

だから昔の小説は、会話を地の文に組み込んでいた。

もちろん、文学的な理由だけではない。そこには紙面という物理的な制約もあった。

昔の小説は原稿用紙に書かれ、雑誌や書籍になると決められた版面に組まれた。ページを白くするということは、それだけで紙面を無駄にすることだった。

ところが、いまは違う。

文字は画面の中にいくらでも流し込める。一行の文字数も、昔のように紙のマス目に支配されない。

そして、スマートフォンで読む文章では、一行開けが当たり前になった。

文章を短く切る。

改行する。

会話を一つずつ置く。

そのほうが画面では読みやすい。

つまり、昔なら「ページを白くする」と嫌われた空白が、いまでは「読みやすさ」になった。

そして、もう一つ大きな変化がある。

口語が、そのまま小説になってきたのだ。

「そうですか」

「はい」

「でも、私は違うと思います」

こういう文章でも、小説として読まれる。

昔の小説なら、ここに地の文が入った。

「そうですか」と彼は言った。

彼女は少し考えてから、首を横に振った。

「でも、私は違うと思います」

小説には、台詞だけでなく、人物の動作や表情、風景、心理、そして語り手の存在があった。

ところが現在は、それらを削って、会話そのものが物語を進める。

これは脚本に近い。

脚本は、そもそも口語を中心にできている。

人物が何を言うか。

その言葉によって場面が進む。

小説の地の文が減り、会話が増えていけば、当然、小説と脚本の境目は薄くなる。

そして面白いことに、漫画の側でも同じことが起きている。

漫画は本来、絵を見るものだった。

一枚の絵だけで場面を成立させることもできた。

ページをめくった瞬間に大きな見開きが現れ、セリフがなくても、その絵だけで物語が進むこともあった。

ところが縦スクロールになると、そうした「絵を見る時間」よりも、「次の情報を読む」ことの比重が大きくなる。

大きな吹き出し。

短いセリフ。

そして次のセリフ。

スクロールするたびに、また次の情報が出てくる。

漫画もまた、セリフを読むものになってきた。

小説も、セリフを読むものになってきた。

その二つの間に、脚本的な表現が入ってくる。

私は、LINE WEBTOON原作大賞に向けて小説を書いた。

しかし、それはWEBTOONの原作としてはダメだったようだ。

いまさらながら、その理由がわかった気がする。

私の小説は、会話が少ない。

私は小説を書くとき、人物にしゃべらせるだけではなく、その周囲を書いてしまう。

風景を書く。

人物の動きを書く。

考えていることを書く。

つまり、私が書いていたのは「小説」だった。

ところがWEBTOONの原作として求められていたのは、もっと脚本に近い小説だったのだろう。

短い場面。

短いセリフ。

明確な展開。

スクロールするたびに、次の情報が出てくる。

そういう文章である。

私は漫画原作を書くことはできる。

しかし、WEBTOONは無理だった。

同じ「漫画の原作」でも、漫画とWEBTOONは違う。

そのことに、書き終えてから気がついた。

小説と脚本の間にあるもの。

それは、単なる文章の形式ではない。

紙のページからスマートフォンの画面へ。

絵を見る漫画から、セリフを読む漫画へ。

地の文を読む小説から、口語を読む小説へ。

メディアの器が変わることで、小説も漫画も、その姿を変えている。

そしてその境界に、いままでにはなかった新しい文章が生まれている。

それが、脚本的な小説なのかもしれない。

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飯島和男 読んでくださりありがとうございます。 私は、自分の小説にどれほどの価値があるのかを知りたいと思っています。 もし少しでもそう感じていただけたなら、チップというかたちでお知らせいただければ幸いです。それが私にとって何よりの励みになります。