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思考の解剖──タテドラとWEBTOONはなぜ「わんこそば式刺激供給装置」になるのか

タテドラやWEBTOONは、わんこそばである

私がこの結論に至ったのは、単なるコンテンツへの好き嫌いからではない。 問題にしたいのは、現代の映像表現がどのような構造へ変質し、それが人間の思考にどのような影響を与えているのか、という点である。

タテドラやWEBTOONは、新しい表現形式として語られることが多い。 しかし私には、それらは「物語」の進化ではなく、アテンション(注意)を獲得するために最適化された“わんこそば式の刺激供給装置”として映る。

文脈ではなく、刺激をつなぐ装置

スマートフォンの縦型画面という制約の中では、背景や空間の情報は最小限に抑えられる。 画面には人物の顔が大きく映り、短い台詞とともに次々とカットが切り替わる。

そこでは映画が積み重ねてきた構図やカメラワーク、「間」の演出は後景に退く。 重要なのは、視聴者の指を止めないことである。

つまり、この形式が優先しているのは、文脈の構築ではなく、刺激の連続なのである。

ここで私は、タテドラを「動く紙芝居」と呼ぶだけでは不十分だと感じた。 むしろそれは、味わう前に次が差し出される“わんこそば”の構造に近いと思ったわけだ。

一杯一杯の味よりも「次を食わせる」ことが重要になっている料理。つまり一話一話の余韻よりも、「次を見せる」ことが構造の中心にある。

なぜ、この形式は生まれたのか

このような短尺コンテンツは、中国の短劇や韓国のWEBTOONとともに急速に拡大した。

その背景には、スマートフォンを前提とした生活環境と、激しい競争社会の中で短時間に強い刺激を求める消費スタイルがあったと考えられる。

限られた数十秒、あるいは数分の中で視聴者を離脱させないためには、物語の起伏よりもクリフハンガーを連続させる方が合理的になる。

刺激はさらに強い刺激を要求する。

その結果、物語は「次を見せるための装置」と化していく。

これはSNSやショート動画にも共共通する、アテンション・エコノミーの設計思想そのものである。

そしてこの「次を見せる装置」という構造こそ、まさにわんこそば式の刺激供給装置である。

日本人の物語文化との相性

私は、タテドラやWEBTOONが日本では決定的な主流になりにくい理由の一つに、日本で育まれてきた物語文化との相性があると考えている。

日本の物語文化は、『源氏物語』や能、俳句から近代文学、漫画、アニメに至るまで、「間」や「余白」を大切にしてきた。 語らないことで語り、描きすぎないことで想像力を喚起する文化である。

漫画は、 白黒の画面の中で読者は色を補い、静止したコマの間に時間の流れを感じ取り、行間から登場人物の感情を読み取る。 その「補完する楽しみ」こそが、日本の物語体験の核になっている。

一方、タテドラやWEBTOONは、スクロールを止めないことを最優先に設計されている。 余白より刺激、沈黙より説明、余韻よりクリフハンガーが求められる。

つまり、味わう前に次が差し出される“わんこそば的構造”が、日本の物語文化の美学と根本的に噛み合わないのである。

WEBTOONは漫画の進化系なのか

WEBTOONもまた、スマートフォン時代に最適化された形式である。

縦スクロール、カラー表示、大きな人物、少ない背景。 これらは欠点ではなく、スマートフォンという媒体が要求した合理的な設計である。

しかし、日本の漫画とは発想が異なる。

日本の漫画は、白黒という制約を逆手に取り、線と余白によって読者の想像力を喚起してきた。 色を描かないからこそ、読者は自ら色を補い、音や匂いまで想像する。

情報を削ることで、読者の思考を働かせるのである。

一方、WEBTOONではカラー情報が前提となる。 高速スクロールとの相性を考えれば、彩色は単純化され、「バケツ塗り」と呼ばれる均質な着色が合理的になる。

これは技術的退化ではない。 スマートフォンという媒体に適応した結果なのである。

しかし、その代償として、読者が想像によって補完する余地は少なくなる。 つまり、読者の脳が“味わう”前に次の刺激が流れ込む、わんこそば的構造が強化される。

課金システムが物語を変える

日本は外来文化をそのまま受け入れる国ではない。 カレーは日本のカレーとなり、ラーメンは日本のラーメンとなった。 外来文化は、日本人の感性や生活様式に合わせて「和風化」されて初めて定着する。

しかし、WEBTOONやタテドラは事情が異なる。 その表現は課金システムと不可分であり、物語のリズムそのものが収益構造によって規定されている。

「間」や余韻を取り入れて日本の物語文化に近づけようとすれば、その収益モデル自体が揺らぐ。 だからこそ、この形式は従来の外来文化のようには和風化しにくいのである。

そしてこの収益モデルこそが、タテドラやWEBTOONをわんこそば式刺激供給装置へと決定的に変質させている。

タテドラやWEBTOONで繰り返されるクリフハンガーは、単なる演出技法ではない。 その背後には、スマートフォン時代の課金システムが存在する。

一話を読み終えた瞬間、「この先が気になる」という心理を生み出し、そのタイミングで課金や広告視聴を促す。 この循環こそが、現在の短尺コンテンツのビジネスモデルの中核である。

つまり、クリフハンガーは物語のために存在するのではなく、収益モデルのために最適化されているのである。

これは、味わう前に次が差し出されるわんこそばと同じ構造である。

物語のリズムは、文学や映画の論理ではなく、収益モデルの論理によって決定される。

ここに私は、現代のデジタルコンテンツが抱える本質的な転換点を見たのであった。

物語は思考を深めるためにある

私もLINEマンガ大賞への応募を考え、WEBTOON形式で物語を構成しようと試みた。

しかし、そこで求められていたのは、一話ごとの余韻ではなく、一話ごとの「崖(クリフハンガー)」だった。 作品全体のうねりよりも、「次を読ませる仕掛け」が優先される。

もちろん、それはビジネスモデルとしては極めて合理的であり、多くの読者に支持されていることも事実である。

結局書いたものはWEBTOONの原作小説ではなく、従来の漫画やアニメの原作であった。

物語とは、本来、読者に考える時間を与えるものである。

刺激だけを積み重ねる物語は、読者を次のページへ導くことはできても、その人の人生に長く残る余韻までは与えにくい。

日本人は、物語を単なる刺激として消費するだけでは満足しない。 物語を味わい、行間を読み、自らの人生と重ね合わせる文化を育んできた。

だから私は、物語を記号の連鎖としてではなく、文脈の積み重ねとして書き続けたい。 読者の注意を奪うためではなく、読者の思考を豊かにするために。


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飯島和男 読んでくださりありがとうございます。 私は、自分の小説にどれほどの価値があるのかを知りたいと思っています。 もし少しでもそう感じていただけたなら、チップというかたちでお知らせいただければ幸いです。それが私にとって何よりの励みになります。