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【番外編:父親との別れ】①複雑だったオトンとの距離

結論からお話すると、
2022年の年末に、父は大腸癌で他界しました。

享年66歳。年齢だけを見れば、
まだまだ早い死なのでしょうね。

父のことが大好きだったか?と聞かれると、
正直、そうではありません。

でも、感謝はしています。
父がいなければ、私は存在していませんからね。

両親の離婚と母の苦労

私が高校に入学する直前、父と母は離婚しました。
離婚の原因は、父の莫大な借金。

金額は3000万円ほどだったと、母から聞いています。

しかも、闇金のようなところも絡んでいたらしく、
かなり深刻な状況だったみたいです。

私は、あまり記憶に残っていませんが、
借金取りが家に来て、玄関を強く叩いていた時期もあったそうです。

それでも母は、1度2度と、
父にやり直しの機会を与えたらしいのですが、
結局また裏切られ…
そんな父を家から追い出して離婚に至ったと聞きました。

離婚後、母はがむしゃらに働いていましたね。
仕事も何個か掛け持ちしていました。

朝早くから夜遅くまで働いていて、
高校時代は、母と一緒にご飯を
食べた記憶がほとんどないくらいです。

仕事の合間に夜ご飯を作り、
また次の仕事に出て、夜遅くに帰ってくる。
それでも朝は早く起きて、
朝ご飯とお弁当を用意してから仕事に向かう。

そんな母の姿を見ていますからね。

当然、母に苦労をかけた父親に、
どうしても好感は持てずにいました。

父と再会してからの距離感

父と母が離婚してから、
10年ほど経った頃だったと思います。

父から定期的に連絡が来るようになりました。

新しい仕事にも就き、
収入も少し安定してきた様子でした。

年に1回~2回会って食事をする。
そんな、何とも言い難い"複雑な距離感"の
親子関係が始まりました。

近いわけでもない。
かといって、完全に他人でもない。

ただ、今振り返ると、
父が昔のことを言い訳のように語ることは、
ありませんでした。

「あの時はこうだった…」
「本当はああだった…」

そういう話は、一度もなかったのです。
私も、あえて聞こうとはしませんでしたし。

年に1~2回 一緒に飯を食う。
普通の居酒屋やファミレスで。

兄と一緒に3人の時もあれば、
父と2人の時もありました。

そんな微妙な距離感の親子関係は、
そこから10年近く続きました。

父の癌がわかった日

…2018年頃だったでしょうか。
父から「大腸癌になった」と告げられました。

発見が遅かったらしく、ステージ4。

転移もしていたそうで、治療はかなり
厳しい状況だったのだと思います。

もちろん父には、まだ生きる意思があり、
闘病を続けることになりました。

抗がん剤の副作用に苦しみ、
会うたびに少しずつ弱っていく父を見るのは、
どう表現していいか?分からない感情でした。

思春期の頃に突然いなくなった父。
そこから再会して、約10年。

その頃には、私も大人になっていて、
父に対する感情も、少しずつ整理が
つき始めていた時期だったと思います。

父と息子の温泉旅行

父が闘病生活に入ったその頃の
私の環境はというと…
物販の収益が少しずつ伸びてきていた頃。

ですが、まだまだ金銭的なゆとりなんてありません。

入ってくるお金の使い道は、
入ってくる前から、全部決まっている。

そんな状態でした。
それでも、思ったんです。

今、このタイミングを逃したら、
もう機会は来ないかもしれない、と。

父とは複雑な時間を過ごしてきましたが、
それでも私の父であることは事実です。

私は兄に相談して、
「父と息子の温泉旅行」を企画しました。

冬の城崎温泉

父の体調が比較的安定しているタイミングを見て、
男3人での家族旅行。

何年ぶりの父との旅行だったでしょう…
そんな事も分からないぐらい、
久しぶりの父との旅行

父は嬉しそうでしたね。

「息子たちにカニをたらふく食べさせてもらった」

周りの人にも、そんな風に自慢していたそうです。

私にとっても、数少ない父との
良い思い出になったことは間違いありません。

その時間は、長くは続かなかった

それから1~2年。

父の体調には波がありながらも、
闘病生活は続いていきました。

一時は、
完治に近いところまで回復しているように
見えた時期もあったんですけどね。

でも、
ついに、その時はやってきてしまいました。


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桐谷光一|会社経営者だけど夜勤もしてます よろしければ応援お願いします! いただいたチップは「夜勤の際のコーヒー代」と、クリエイターとしての活動費に使わせていただきます!