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「社内評価と自己評価のギャップは当たり前」は、本当に当たり前なのか

社内評価と自己評価にギャップがあるのは普通だ。
だから気にするな。理解してくれ。

よく聞く言葉だ。

しかし、それは本当に“普通”なのだろうか。


1. ギャップは構造的に発生する

まず前提として、ギャップが発生する理由はある。
• 情報の非対称性(上司は全行動を見ていない)
• 評価基準の抽象性
• 組織目標と個人目標のズレ
• 役割定義の曖昧さ

この条件がある限り、評価と自己認識が完全一致することは難しい。

ここまでは事実だ。

しかし、ここで話を止めてはいけない。

なお、本稿は一つの前提を置いている。

自己評価が、事実と記録に基づき、可能な限り客観的に行われていること。

自己評価が主観的願望や感情に依拠している場合、そこに生じるギャップは制度問題ではなく、認知の問題である。

本稿が問うているのは、

双方が合理的努力を行っているにもかかわらずなお固定化されるギャップである。

2. 「発生する」ことと「当然」は違う

発生可能性があることと、それを当然として放置してよいことは、別問題である。

例えば、
• 業務範囲が明文化されていない
• 実質的に担った役割が評価項目に存在しない
• フィードバックが抽象的で修正不能
• 事実確認を経ずに評価が確定する

こうした状態でギャップが生じた場合、

それは自然現象ではない。

設計不全である。

3. 健全な組織ではギャップは「縮小され続ける」

理想的な評価制度においては、
• 明確で具体的な評価基準が存在する
• 評価基準が解釈によって変更、追加されない
• 目標設定が具体的
• 途中フィードバックがある
• 行動事実が共有される
• 客観的事実の検証が行われる
• 修正機会が確保される

この環境では、そもそも大きなギャップが生まれることは少ないだろうし、ギャップが出たとしても放置されることはないだろう。

「当たり前」ではなく、「調整対象」になる。

そして、ギャップが生じた場合には、評価の根拠や事実関係が具体的に示され、説明が行われる。
被評価者は客観的な事実や根拠から説明を受ければ合理的に理解でき納得できる場合が多い。

納得とは感情的同意ではない。

根拠が提示され、論理が通っていることによって成立する。

それが評価制度の最低条件である。

4. 危険なのは、ギャップの正当化

もっとも危険なのは、

ギャップそのものではない。

ギャップを前提にして、
• 説明責任を放棄する
• 評価基準を明示しない
• 評価基準があっても不明確
• 評価基準が解釈によって変更、追加される
• 運用が恣意的
• 事実実態で検証しない、検証できない
• 客観的根拠を示さない、示せない
• 説明責任を果たさない
• 「そういうものだ」と言い切る
• フィードバックがない
• 被評価者から求めなければフィードバックされない
• 異議申し立てを嫌う
• 「社の決定だから」と見直さない
• 評価者によって運用が変わる

この瞬間、評価は制度ではなくなる。

それは、裁量の名を借りた不可視の力になる。

5. 「当たり前」と言われたときに考えるべきこと

もし「評価とのギャップは当たり前」と言われたら、その時点で危険性が高い兆候である。

問うべきは次の一点である。

そのギャップは、縮める努力が制度上組み込まれているか。
• 明確で具体的な基準はあるか
• 事実確認の機会はあるか
• 修正のプロセスは存在するか
• 記録は残るか

最低限これらがない場合、

それは“当たり前”ではない。

単に検証不能な評価が行われている可能性が高い。

6. さらに危険なのは「ギャップの正当化」が全体周知されること

さらに深刻なのは、

評価のギャップを
“個別事情”ではなく
“組織の前提”として周知する場合である。

例えば、
• 「評価のギャップは普通だから受け入れてほしい」
• 「評価とのズレは普通だから受け入れてほしい」
• 「自己評価が高いのはよくあること」
• 「会社の見方が最終判断だ」
• 「他の社員も同じ」

このような言葉が、全体周知される組織は危険である。

なぜならそれは、

ギャップの存在を説明するのではなく、
ギャップの固定化を宣言しているからだ。

本来、評価制度は

ギャップを前提に設計されるのではなく、ギャップを縮小するために設計されるべきものである。

それを

「ズレるのが当たり前」「個人に受け入れさせること」として制度化する瞬間、

説明責任は空洞化し、
異議は未熟や迷惑行為と扱われ、
検証は不要とされる。

評価は制度から、力へと変わる。

7. 裁量と現実

人事評価は各企業の裁量権が非常に大きい。

客観的に疑問が残る評価であっても、行政機関や専門家が深く介入することは多くないのが実態である。

「裁量権が大きいから何でも許されるのか」と言えば、そうではない。

しかし現実問題として、労働者は構造的に弱い立場にある。

明確な降格や減給でなければ、評価そのものを争うことは容易ではない。

争うには時間、労力、精神的負荷、そして覚悟が必要である。

争っても必ず報われる保証はない。

この現実は、念頭に置いておく必要がある。

8. 結び

ギャップはあってよいが、それを当たり前として放置することは違う。

健全な評価制度であれば、ギャップが出た場合でも縮小可能な状態にある。仮にギャップがあったとしても客観的事実根拠を示し説明されることで納得できる可能性が高い。

人間が行う以上、完全一致は困難である。

しかし、一致しなくて当然という態度は制度の放棄である。

評価は「納得」ではなく「説明可能性」によって支えられる。

ギャップがあることは自然現象である。
だが、ギャップを正当化する文化は制度の劣化である。

仕組みの存在だけでは意味がない。

その仕組みのもとで縮小努力が実行されているかが重要である。

もし説明責任も検証機会も修正余地も存在せず、改善もされないのであれば、

その組織は制度的に危険である。

制度的に危険な環境に長期的に身を置くことは、合理的判断とは言い難い。

早期に距離を取ることは、感情ではなくリスク管理である。

制度が機能しない場所で努力を続けることは、美徳ではない。

消耗である。

人の生活、人生に直結する評価のギャップを当たり前として改善しない組織は、管理職以上も既に機能していない可能性がある。

評価は本来、組織の自己修正装置の役割もある。それが機能不全、または、改善されないと言うことは、その組織は、既に内側から崩壊が始まっている可能性がある。

そして入社前の面接において、

  • 人事評価と自己評価のギャップの有無

  • ギャップ発生時の対応方針

  • 説明責任の考え方

を確認することは、自己防衛につながるだろう。



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