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短編小説『晴れやかな半月』

 ぼんやりと前を見つめていると、晴れやかな薄い水いろの半球に、すっぽり包まれているように感じて、この聖域の外に広大無辺で真っ暗な、星々がきらめくばかりの宇宙が果てしなく広がっていると思うと、にわかには信じられなくて、絵麻えまはふいに我に返ると、車は知らぬうちに随分と先まで進んでいる。

 足もとはアクセルを踏んでいるし、右手はハンドルを握っていて、左手は肘掛けに置かれていて、運転していることを半ば忘れたまま、ゆったりと背もたれに身をあずけながら、一瞬あるいは数分が流れたらしい。

 よくあることだけれど、恐ろしさとともに、絵麻はいつも不思議な気持ちになる。どうして事故に遭わなかったのだろう。初めは苦手だった運転も、もうしっかり身について、頭ではなく体が覚えたのだろうか。

 速度は五十キロに達していて、硝子越しの周囲の景色も、歩いているときとは比べものにならないほど、めまぐるしく過ぎていく。

 晴れやかな日のひかりを浴びて、涼やかな風を心地よく受けて、なだらかな道をてくてく歩みながら、じっくりと風景を吸い込むのもいいけれど、車に乗って軽やかに、すいすいと突っ走ることにも、違った気持ちよさがある。

 普段はいろいろなことを同時にするのは苦手なのに、運転なら考えごとをしていても、ぼんやりしていても、すんなりとできてしまう。

 だけど慣れたらいけないよね、油断は大敵なんだから、と思い直しながら、肘掛けに置いていた手をハンドルにのせて、両手でゆるく握りしめて、運転するうちに目的地に近づいたときには、左手は肘掛けにもどっていて、優雅に休んでいて、絵麻は思わず二度見したのち、心で苦笑しながら、やがて車を停めた。

 それから駐車場をでて、赤信号の前で立ちどまり、青緑いろになるのを待ってかすれた白の横断歩道を渡り、緑の街路樹がつくる優しい影の下を通りぬけ、三階建ての書店にはいると、真っすぐにエスカレーターに乗り、二階でおりて文芸コーナーをめぐりながら、目当ての文庫本の在庫を確かめたのち、フランス文学の棚に寄って紫いろの大判の書籍を抜きだすと、荘重な重みを左手に感じながら書物をひらいて、静かに眺めるうちにそっと書棚にもどし、その後しばらく徘徊したのち、文庫本や料理本を持ってレジへ向かった。

 料理ならインターネットでもいろいろなものが出てくるけれど、料理本をパラパラとめくるのが好きなので、つい買ってしまう。家にある本には試してないレシピもたくさんあって、絵麻がつくってくれるのを心待ちにしているはずだけれど、こればかりは趣味なので仕方がない。

 実際に調理したものよりも、空想のなかで味わったもののほうが多いかもしれない。それに本を読みながら美味しそうな料理の描写に遇うと、やっぱり立ち止まってしまうので、想像のなかでは相当に豪華な一品にも舌鼓をうってきたことだろう。

 ある日のこと、絵麻はフランス文学に読みふけるうち、ふと文庫本をとじて、なおくんとテーブルに向き合って座って、質素なエプロンをつけた女中さんに給仕をしてもらいながら、二人で食事を楽しむさまを思い浮かべてみたけれど、よく考えてみると、自分がつくった料理で尚くんを唸らせたいし、やっぱり家のなかでは二人きりがいいと思って、ふたたび文庫本にもどると、またしても尚くんを思い出して、すぐにでも会いたくなった。

 絵麻は文庫本をとじて窓辺に寄り、そっと額をあてたかと思うと、たまらず背をむけて部屋を行ったり来たりし、やがてぴたりと止まってスマホを取り上げ、会えるのは週末になるのを確かめると、尚くんに連絡しようかためらううち、ぎゅっと目をつむって、唇をかみながら静かに首をふってスマホを置き、カーテンをしめてベッドにもぐりこみ、毛布にくるまった。

 そんなこととは知らない尚くんに二日後に会ったとき、絵麻はぴったりくっついて、二人で散歩をして、ドライブをして、一緒に料理を食べて、幸せな休日を過ごしながら、待つことの大切さを知った。

 けれどそれはあの日の話で、今日は待たなくていい。これから尚くんに会えるから。夕方には迎えに来てくれるはず。でもそれまでは待たなくちゃいけない。待ち遠しい。

 絵麻は購入した本を手にして本屋をでると、晴れやかな薄い水いろの半球に、ぼんやりと白い半月が浮かんでいる。月がでているなら、もうすぐ夜になるのかな。違うかな。

 途端に足もとが軽くなって、浮き浮きと歩むうち、点滅していた歩行者信号が赤になって、絵麻はそっと立ち止まり、大丈夫、これくらいは待てるから、とおだやかに微笑むとともに、涼やかなそよ風が頬をなでた。

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