短編小説『ビストロ』
勾配のきつい片側一車線の坂が次第にゆるやかになるにつれて、車ならすいすいとのぼれたなと思うまもなく、やっぱり運動不足だろうなと苦笑いを浮かべながら、彼はなお歩むうち、傾斜はほとんど平行になって、軽やかになりだした足取りに身をまかせていると、ふいに気がついて振りかえった。
途端にぴったり瞳の合った柚月は口もとをほんのりあけて、目をすこし見開いている。彼が待ち合わせのお店を素通りしかけたので、びっくりしたらしい。
彼は表情を変えずにぴたりと立ち止まって見つめかえすうち、相手が唇をとじて頬をゆるめたのをしおに踵をめぐらし、そちらへむかうと、柚月はこぶりなショルダーバッグの細い肩ひもに手を添えながらこちらへ背を向けて、戸口へむきなおった。
写真でみたときには鮮やかな赤の印象だったドアは、目の当たりにすると、すこしくすんで見える。
柚月の白いトップスが生成りいろに染まっているのは、暮れなずむ夕方の灰いろのひかりを吸いとっているからだろうか。
「どこ行っちゃうのかと思った」
「ごめん」
「方向音痴だね」
「これって、方向音痴っていうのかな」彼はのどかに聞き返した。
「ちがうかな」柚月はこちらを見上げながら小首をかしげる。
「うん」
「だね」
納得したようにうなずいて、銅いろの取っ手をつかむと、柚月はしずかに戸をひいて、お店のひとに会釈をしながらはいっていくその後につづいて、彼は足を踏みいれると、店内もまた写真でみたおもむきとは異なっている。
写真では明るく感じたけれど、目のまえのこぢんまりとした空間は薄暗くひろがり、やさしくつつみこまれるようで、彼はなごやかな気分になりながら、連れのあとについてゆき、やがて案内された席のまえで振り返った柚月にソファをすすめて、自分は椅子に腰をおろした。
やがてお店のひとから黒い冊子にとじられたものと、バインダーにとめられた白い紙との二つのメニューが手渡された。
柚月がみつけてくれたこのお店はビストロで、豊富なワインとそれによく合う家庭的なフランス料理を提供しているらしい。
彼自身はそのあたりの知識には疎いのだけれど、料理が好きで飲食関係の仕事についたこともある柚月はリモートで働いている現在でも、各国の料理や飲食店についていろいろと調べていて、休日には家に引き込もりがちな彼を度々こうやって連れ出してくれる。
「え、料理ってこの一枚の紙だけなんだね。ワインはすごく多いみたいだけど」
彼が思わずたずねると、柚月はやさしく答えてくれる。
「そうだよ。お客さんが好きなものをえらべるように、ワインは数多く取りそろえていて、お料理はお店自慢のものをって感じじゃないかな」
「なるほど。そもそも、ワインはお店のひとの手づくりじゃないからか」彼はひと息にそう言って、まるめた拳にあごをのせながら、「つまり、この少数精鋭の料理に並々ならぬプライドが込められているってことだね」
「うん、そうかもしれないけど。でも、こっちが気合をいれなくてもいいよ。気になるものをたのんで、ワインと一緒にゆったりと味わえばいいんだから」
「たしかに。今日はゆるやかに楽しみます」
「そうしましょうね」
柚月は朗らかにうなずいて、黒い冊子を彼から受け取ると、目のまえにひろげて、じっとメニューをながめながら、そっと微笑んだり、唇を噛んだり、小首をかしげたり、指さきでほっぺを静かにたたいたり、あおむいて考えに耽るかと思うと、さっとこちらを見つめて、
「あなたはどうするの?」
「おれはそうだね、『本日のワイン』にしようかな。白、赤、ロゼで迷ってるけど」
「それなら、わたしはそれの赤にしようかなあ」
「じゃあ、おれもそれで」
「赤でいいの?」
「うん」
やがて届いたおそろいの赤ワインのグラスに口をつけ、オリーブ、チーズ、サラミのおつまみから、ともにオリーブを一つずつ口にいれ、バインダーにとめられたお食事のメニューをふたりで交互にながめながら、リヨン風サラダ、エビの十穀米リゾット、仔羊とマッシュポテトの重ねオーブン焼きの三品にまずはきめて、やって来た店員さんにたのんだあと、柚月はメニューを指さして、
「それと、これもお願いします」
「自家製ソーセージでよろしいですか?」
「はい」
「かしこまりました。しばらくお待ちください」
しずかに響いたやわらかな声の店員さんに柚月は微笑みかけ、それからこちらを向いて、
「勝手にきめちゃった」
「いいじゃん、自家製ソーセージ」
柚月はにっこりして、グラスをつまみ、赤ワインをゆらして香りを吸いこんだのち、グラスを傾けながら仰向くと、薄赤い液体が唇にすいこまれる。
ぼんやりとした暖かみのある明かりに照らされながら、しばらくしてテーブルに置かれたリヨン風サラダのポーチドエッグに柚月はそっとフォークをさし入れて、新鮮な野菜とベーコン、砂肝のコンフィとやさしく絡めたのち、お皿にとりわけて、ひと口食べるとともに、
「おいしい」
「うん、これはワインに合うよ」
その後もエビの十穀米リゾット、仔羊とマッシュポテトの重ねオーブン焼きに舌鼓をうちながら、いつしか手もとのグラスは白ワインにかわって、柚月はほんのり頬をあからめつつ、くるくるとグラスをまわして液体をきらめかせ、ふと思い出したように食事を口にはこび、そっとワインを口に含み、しあわせそうに微笑みながら、たわいもないおしゃべりをする。
彼はなごやかに相槌をうちながら、楽しそうな顔を見守りつつワインを傾け、ときおり自分からも話をふって、こくりとうなずく相手の眼差しに満足をおぼえるままに、ふたたび主導権を柚月にかえして、話をききながら、こまやかに移りゆく表情に惹きつけられるうち、
「お待たせしました。こちらが自家製ソーセージです」
「おいしそう」とつぶやくなり、柚月はメニューをとりあげて、「すみません。『本日のワイン』からロゼをいただけますか?」
そう言いながらさっとこちらを見つめて、ちらりとグラスを一瞥したので、彼はすぐさま、
「おれも」
「二つお願いします」
柚月は手にしたナイフをソーセージに差しいれて、こつんと微かなひびきを立てながら等分に切り分けて、やがて届いたロゼワインを口に含んだのち、ひと口サイズになった丸いソーセージを半月型に切りとって、フォークに刺すまま、そっと小さな口にはこぶとともに、ふっと顔をほころばせた。
「ねえ、食べてみて」と勧める柚月の声はきらめいている。
「旨いね、これも」
「うん、おいしいの」
柚月はにこりとうなずいて、半月型のソーセージに付け合わせのマスタードをのせて、もうひと口食べると、ロゼワインをつまんでグラスをかたむけ、そっと目をつむり、しばし余韻にひたるかと思うと、しずかに瞼をひらいて、こちらを見つめながら、嫣然と微笑んだ。
その後、ほろ酔いかげんで店を出ると、辺りはすっかり暗くなっていて、先ほどはくすんでみえたドアの色合いもライトに照らされて、赤くあざやかに浮きでている。
しめやかな街灯の下に立ちながら、柚月は白いトップスにひかりをあつめて輝きだし、やがて歩みだしたかと思うと、縁石に飛びのって、つま先立ちになりながら、細い道のりをすいすいと一歩ずつ進んでいく。
「危ないって」
「大丈夫だよ」とふり向きながら言いざま、柚月はよろめいて、「あれれ」とつぶやきながら、ぽんと歩道に着地した。
「ほらね」こちらをとろんと見上げながら、そんなことを言う。
「ほらねじゃないよ」
「ねえ、なんか飲みたいな」
柚月がしっとりとつぶやくので、彼はすぐさま聞き返す。
「え、まだ飲み足りない?」
すると柚月はしずかに首をふって、
「ううん。じゃなくて、紅茶とかコーヒーとか、そういうの」
「紅茶ならあるよ。昨日、ちょっといいものを買ったばかりだし」
「え、飲みたい。ねえ、早く帰ろう」
ぎゅっとこちらの袖をつかんだ柚月の瞳はきらめいている。彼がおだやかにうなずくと、柚月は腕を抱き寄せて、それからパッとはなれて、にこやかに坂道を下りてゆくのを、彼はやすらかに見守っていた。
