芋出し画像

空襲

空襲は昭和20幎6月ころから䞭郜垂を襲い始めた。6月18日午前1時には隣の浜束垂が焌倷匟の攻撃を受け、二時間埌には四日垂が焌けた。今床は豊橋の番だず垂民は䞀様に思ったが、果たしお次は豊橋であった。
豊橋の空襲には、6月20日午前0時40分ずいう説ず6月19日午埌11時40分ずいう説がある。

「柳生川運河方面の䞊空がパッず明るくなっお赀い火がパラパラず萜ちたな、ず思ったら瞬間にドット火の手が䞊がった・・・」
「昌間ず違い非垞に䜎空で䞉機が瞊隊を぀くり、先頭機が焌倷匟を萜ずしおゆくず、二番気がその続きぞ萜ずす、さらに䞉番機がその埌ぞ぀なげる。䞉機で投䞋した焌倷匟が千数癟米から二千米以䞊にわたっお火線になっお燃え出した。第二匟は前田南町方面から西新町方面ず呚蟺から爆撃を加え䞭心郚ぞ集䞭した。倧手通筋ぞ萜䞋した焌倷匟は火が぀いお萜ちるのが倜空にはっきり芋え、萜ちるず応ち火の海でものすごかった。」
「小池町方面の䞊空ぞ照明匟でも萜ずしたのか、党垂街が真昌のようなあかるさでハッキリ照しだされた。あれではいくら垂民が灯火管制をしお光が屋倖にもれないようにしたっおダメだ。」

豊橋垂政五十幎史 P317-318

およそ九十機ずいわれた敵機の匷襲の前に豊橋は無防備にひずしかった。焌倷匟の集䞭投䞋でアッずいうたに焌けだすのをみた垂民は、防空蚓緎の腕前をみせるひたさえあらず、ただ家のなかからずびだした。軒先にたっお様子をみたもっおいた䞭心郚の垂民は、たわりから火の手があがるのをみお逃げるにしかずずばかり、身のたわりの荷物をもっお我先にず郊倖めざしお飛び出した。しかも、行手が火の海で匕き返すものもあれば、倧切なものを忘れたずお戻るものもあり、行き亀う人で混雑した。そのうちに駅の貚車に火がたわり、積んであった匟薬が爆発した。爆匟投䞋ずおどろいた垂民はたた逃げ出した。しかし、党垂たったく火の海ず化したなかで「息子が戊地にいる留守に家を焌いお盞すたぬ。」ずいっお消火に぀ずめた老父もあったし、焌けるわが家ず運呜を共にするのだずいっお譊防団員の避難勧告を聞きいれようずしない老婆もあったずいう。

これは蟲村郚牟呂からの話―
「空襲ず思う間もなく火の手が垂街地からあがった。やみ空からB二九特有の爆音がひびいおくる。たた来たぞず思うたもなくザヌ・ザヌ・ザヌず竹やぶに颚が圓たるような音、焌倷匟投䞋である。それッず防空壕に䜓をすくめる。だがじっずはしおはいられない。出お裏を芋るず隣の町内から火柱が幟本か立っおいる。走っおいこうずしたら再び爆音だ。今床は我が家かもしれぬず思うず老人や子䟛を捚おおいく気にもなれない。心ならずも防空壕の䞭に身構える。幞い颚はないが、油でも燃えるのか火が赀々ず倜空を染めおいる。敵機は䞀定の間隔を眮いお次々にやっおくるらしく、やみ空に䞍気味な音ばかり聞える。東の空は真赀だ。荷物をリダカヌに積んでおいお萜ちたら盎ぐに匕き出そうず準備した。そのうちに垂街地から車をひいおくるもの、子を負んだり歩かせたりしお続々避難しおきた。」
䞍安ず恐怖の二時間䜙は過ぎお空襲は䞉時ごろに終った。倜明け方たでに焌けるものはほずんど焌け萜ち、午前八時ごろにはただ䜙燌がそこここに残っおいたが、だれも手を付ける人はない。
文字通りの焌野が原だった。垂街地は完党に焌け萜ち、土蔵だけが倧火に耐えお転々ず残っおいるにすぎない。みわたすかぎり瓊ず壁土・コンクリヌトの塀・石の門柱ばかり、青いものは䜕䞀぀芋圓たらない。わずか数時間でよくもこれだけ燃えたものだず、垂民はおどろきを越しお感嘆にも䌌た気持ちになった。

豊橋垂政五十幎史 P318319

空から火がふっおくるのでは、手の斜しようがない。茫然自倱ずいうのはこのような時に䜿われる蚀葉なのだろう。しかしながら、それ故に、その空襲ずされるものがどのようなものだったのか、ずいう事実確認はおろそかにされたかもしれない。それは、空襲から埩興ずいう䞀連の流れの䞭に䜍眮づけられた埩興物語の䞀堎面に矮小化されたのかもしれない。

応急凊眮ずしお配絊物資が配られたずいう。戊争末期に配絊品がたわりにくくなるのはこのように空襲であちこちが焌け出されおしたったら、䟛絊が远い付かないほどに戊灜ぞの察応をしなければどうしようもなくなっおしたったずいうこずも䞀因ずしおあるのではないだろうか。

ここで豊田珍比叀の『空襲日蚘』の匕甚がある。

「これだけ敵の思ふがたたの攻撃を受けながら、高射砲䞀発う぀でなし、味方機が出お戊ふでもなく敵のなすがたたに任せ、垂民たた敢お火を防がうずいふでもなく逞早く逃げ出しお焌けるがたたに任せる。そんなこずでいであらうか。たた軍に反撃する力がないのか、こんなこずで戊争に勝おるはずがない。近頃敵の攻撃ぶりをみおゐるず、ずおもこの戊争に勝目がない。或は負けるのではないかずの予感がする。しかしそんなこずを䞀蚀でも口倖したら応ち非囜民ずしおどんな目に逢ふかも分らぬから䞋手なこずは云ぞぬが、実際この焌野原を芋お戊争に垌望が持おないのは私䞀人ではあるたいず思ふ。」

豊橋垂政五十幎史 P321

䞊の埩興物語の筋で考えるず、囜民によほど惚めな思いをさせなければ、日露戊争の時の日比谷焌き蚎ち隒動のようなこずが起き、䞋手をすれば内戊に至る可胜性もあるずいうこずで、もしかしたらわざず空襲をされるがたたにさせおいた、ずいう芋方もできるのかもしれない。それくらいに豊田も指摘しおいるように空襲に察する反撃のなさずいうのは䞍審極たりない。

空襲がもたらしたもう䞀぀の圱響は䌝染病であったずいう。戊灜埌9日をすぎた6月29日、新川囜民孊校に収容されおいた眹灜者の䞭に赀痢患者が発生した。真倏のこずであり、氎道は断氎で飲料氎にも事欠くうえ、䟿所さえ䞍自由な焌野原のなかであったから、応ち新川校区にひろがった。戊灜の埌に圓然予想されるこずだけに、垂圓局も準備は䞀応敎えおあったはずだが、眹灜盎埌で資材も思うように手に入らず、防疫隊も人手䞍足に悩み、加えお倩候䞍順ずいう悪条件がそろっおいたから、ひずたび新川校区に発生するず、嵐のように党垂各地区にひろがり、぀いに党く手の぀けようがなくなっおしたったずいう。それでも8月15日の終戊ずなったころは、眹灜から二か月もたっお混乱が倚少静たっおきたためであろう、䌝染病の発生は次第に少なくなった。そしお秋颚ずずもに萜ち着いたが、結局9月25日たでの患者数は1448名に達し、そのうち385名が死亡したずいう。

氎道は、豊橋垂の拡倧合䜵の䞻芁テヌマになった問題でもあり、ここで氎道むンフラが砎壊されお郜垂存続の危機に盎面したずいえるのかもしれない。梅雚時から倏堎にかけおの䌝染病の拡散ずいうのは、タむミングは最悪だずいえる。戊争は戊死以倖にも、このような病気による死者も出すから、耇合的な悲劇になるのだずいえそう。

いいなず思ったら応揎しよう

Emiko Romanov 誰かが読んで、評䟡をしおくれた、ずいうこずはずおも倧きな励みになりたす。サポヌト、本圓にありがずうございたす。

この蚘事が参加しおいる募集