『伝記』第六天魔王 ― 織田信長②青年期編
四、政秀の諫死
天文二十二年閏正月。傅役・平手政秀が、腹を切った。
理由は、いくつも語られている。信長の奇矯な振る舞いが一向に改まらぬこと。信長が愛馬に執着し、政秀の息子との間に軋轢が生じたこと。何より、傅役として仕えながら、主君の将来を正しく導けなかったという、政秀自身の無力感。
政秀は、腹を切る前夜、信長への諫言状をしたためたと伝えられる。言葉を尽くしても届かぬのなら、我が命をもって伝えるほかない――そう思い定めての死であった。
信長は、政秀の死を知り、その場に凍りついたという。誰よりも自分を見捨てず、道三との縁組にも奔走し、鉄砲の稽古にも目をつぶってくれた男。うつけと蔑まれる自分をただ一人、辛抱強く見守り続けてくれた男。その男が、己の命と引き換えに、諫言を突きつけてきたのである。
信長は程なく、政秀の菩提を弔うため、政秀寺という一寺を建立した。開山には沢彦宗恩を招き、手厚く供養したと伝えられる。
だが、信長がそれ以降も奇矯な振る舞いを完全に改めた形跡はない。政秀の死は、信長の行いを正したのではなく、むしろ彼に一つの覚悟を刻み込んだのかもしれない。人は、言葉だけでは動かぬ。命がけの諫言すら、時に届かぬことがある。ならば己は、己の信じる道を、誰に侮られようと貫き通すほかない――。
後年、信長が家臣の諫言に耳を貸さず、独断で物事を進めていく苛烈な統治者として知られるようになる、その原点の一つが、この政秀の死にあったのではないかと語る者もある。
五、帰蝶との日々
天文十七年、信長のもとに輿入れした帰蝶は、当時十五、六歳。父・斎藤道三譲りの才気煥発な女性であったと伝えられる。
輿入れに際し、道三は帰蝶に小刀を持たせ、こう耳打ちしたという。
「もし織田の婿殿が、噂通りのうつけであったなら、この小刀で刺し違えよ」
対する帰蝶も、負けてはいなかった。祝言の夜、信長にこう問い返したと伝わる。
「もし父が、婿殿を謀るような真似をいたしましたなら、その時はいかがなさいます」
信長は、静かに答えたという。
「その時は、その小刀でわしを刺すがよい」
政略の駒として嫁いだ二人であったが、互いに腹を探り合うだけの間柄ではなかった。道三が信長の器量を見抜いた正徳寺の対面の裏にも、帰蝶が実家に送った文が一役買っていたのではないか、と語られることがある。うつけを装う夫の本当の姿を、妻である帰蝶だけは、早くから見抜いていたのかもしれない。
美濃と尾張という、いつ牙を剥き合ってもおかしくない両家の間にあって、帰蝶は信長にとって単なる政略の妻ではなく、道三という梟雄の思考を映す鏡のような存在であった。後年、義父・道三が実子の義龍に討たれた際にも、信長と斎藤家の関係はこの縁組を軸に複雑に絡み合っていくことになる。
帰蝶がその後の生涯をどう過ごしたか、確かな記録は乏しい。だが、うつけと蔑まれた若者の本質を、家臣の誰よりも早く見抜いていたであろう妻の存在は、信長という人間を語る上で欠かすことができない。
「これは史実そのものではなく、史実をベースにした創作物語です」
