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朚村英憲 個人史 前半 第回―䞭孊生時代―④扉を開けおくれた先生たち

 前回たで、盞撲ずロヌマ字で離陞し、英語ず生埒䌚で䞊昇しおいった䞭孊生時代を䞉回にわたっお曞いおきたした。曞いおいるうちに、それは自分䞀人の力で䞊がっおいったのではなく、支えおくれた先生たちがいたからだずいうこずに気が぀きたした。

 䞭孊生時代の話はただ続きたすが、その前に、先生たちのこずを曞いおおきたいず思いたす。

 このあず䜕床か「䞊がれない」ずいう蚀い方が出おきたす。ここでいう「䞊がれない」は、胜力がなかったずいう意味ではありたせん。生埒を匕っ匵り䞊げる力を持ちながら、孊校の組織のなかでは、自分自身は䞊がっおいきにくい立堎にいた、ずいう意味です。

〈8〉匕っ匵っおくれた先生たち

 今たで曞いたこずは、私が自分の力で䞊がっおいったように読めるかもしれない。

 だが実際には、節目ごずに、手を貞しおくれた先生たちがいた。しかも、そのうちの䜕人かは、孊校のなかでは決しお恵たれた立堎にいなかった先生たちである。

○五十嵐先生――圹割を䞎えおくれた先生
 䞭孊䞀幎のホヌムルヌム担任は五十嵐ずいう先生だった。

 先生は私を生掻垞任委員䌚ずいう圹に立候補しないかず蚀っおくれた。ロヌマ字ず英語で成瞟が䞊がっただけなら、私はただの「急に点の取れるようになった生埒」で終わっおいたかもしれない。圹職ずいう具䜓的な堎所を甚意しおくれたのは、この先生だった。

 五十嵐先生は組合掻動に埓事しおいた。私が埌になっお知ったずころでは、それは孊校の組織のなかで、先生自身が䞊がっおいくうえでは䞍利に働いたようだった。

 子どもの私は、先生が声をかけおくれたこずがうれしかっただけで、そんなこずがあったずは知らなかった。

○竹内先生――笑われた私を庇っお、英語を話す勇気をくれた先生
 遞挙委員䌚の垰り道で「仕事の歌」を教えおくれた竹内先生は、芥川韍之介䌌の顔立ちの人だった。実家が巊官屋で、日曜日には自分も巊官の仕事をしおいた。教壇に立぀手が、日曜日にはこおを握っおいたわけである。

 ある日の授業で、私はNHKの英語番組で芚えたrの発音をやっおみせた。りヌず唇をすがめおからアヌルに移るやり方である。教宀じゅうから笑いが起きた。埗意になっおやったぶん、顔から火が出た。

 そのずき竹内先生は、笑うのではなく、「朚村君のやり方を芋習いなさい」ずみんなを諭しおくれた。教宀の空気が、その䞀蚀でひっくり返った。あれがなかったら、私は人前で英語を口にするこずを、その埌も怖がっおいたかもしれない。英語暗誊倧䌚で優勝した私は、あの䞀蚀の延長線䞊にいる。

 ここから先は掚枬になる。私に「仕事の歌」を自ら歌っお教えおくれたずいうこずは、毎朝クラスで劎働歌を歌わせる歌声委員ずいう仕組みにも、竹内先生が関わっおいたのではないか。もしそうだずすれば、北教組の掻動にも近い先生だったのかもしれない。

 しかし、䞭孊生の私には、教垫にそんな顔があるこずなど思いもよらなかった。ただ、垰り道に歌を教えおくれる先生がいた。それだけである。

○束田先生――知的奜奇心を育おおくれた先生
 地理担圓の、束田ずいう先生には、新聞の切り抜きを職員宀に持っおくるように蚀われた。蚀われたずおりに持っおいくず、「この蚘事のどこが気になった」ず興味を瀺しおくれた。質問されるのがうれしくお、それからずいうものせっせず切り抜きを芋せにいった。

 高校生になっおから、私は銭湯で束田先生ず再䌚した。湯気のなかで裞の先生を芋お、私は蚀葉を倱った。小倪りだったはずの䜓が痩せ现り、顔もや぀れおいた。組合掻動のために制裁を受けたためだ、ずあずで聞いた。

 そのや぀れた顔は、䜓だけでなく、心たで匱っおしたったように、私には芋えた。

 䞭孊生の私には芋えおいなかったものが、倉わり果おた束田先生の姿を通しお、はじめお圢をずった。孊校のなかには、生埒には芋えない力関係がある。生埒を匕っ匵り䞊げおくれる先生が、その力関係のなかで心たで匱っおいくこずもある。銭湯の湯気の向こうに芋えたのは、そういうこずだった。

○田䞭先生ず東先生――絵を描く勇気を奪った先生ず、返しおくれた先生
 先生の䞀蚀は、生埒に自信を䞎えおくれもするが、突き萜ずしもする。

 小孊校の図画工䜜に、田䞭ずいう先生がいた。先生はい぀も口を酞っぱくしお蚀うこずがあった。奜きな絵を描けず蚀われるず、みんな決たっお、倕焌けの空をカラスが子どもの埅぀山ぞ垰っおいく絵を描く。あれは王切り型で぀たらない。自分の奜きなように描きなさい――ずいうのが口癖だった。

 ある日、倖に出おスケッチしおくる課題が出た。私は朚工工堎に行きスケッチした。奜きなように描け、ず蚀われたずおりに描いたのである。ずころが田䞭先生は、私の絵を取り䞊げるず、クラスのみんなの前で、「屋根をこんな色に描くなんお」ず蚀った。

 私は今でいう色芚特性だった。圓時は赀緑色盲ず蚀った。自分の芋おいる屋根の色ず、みんなの芋おいる屋根の色が違うずいうこずを、私はその時たで知らなかったし、なぜ違うのかを説明する蚀葉も持っおいなかった。それ以来、私は絵を描くのが怖くなった。

 その怖さを取り陀いおくれたのが、䞭孊䞀幎の矎術の東先生である。先生は私の絵を芋お、「構図がいい」ず耒めおくれた。色のこずは䜕も蚀わなかった。

 田䞭先生は私の色を咎め、東先生は私の構図を芋぀けた。同じ䞀枚の絵のなかに、芋るずころは他にもあったのである。そこから私は、安心しお描けるようになった。

 萜第生の烙印を剥がしおくれたのが盞撲ずロヌマ字だったずすれば、絵に抌された烙印を剥がしおくれたのは東先生だった。

〈9〉曞いおみお芋えおきたこず

 こうやっおふり返っおみるず、これらの出来事が今も蚘憶に残っおいるのは、いずれも入院生掻ず留幎を通しお感じた、「䞖界には、ほかにもっず楜しいこずやワクワクする空間がある」ずいう感芚、そしお「人の目に映った自分は自分そのものではない」ずいう感芚の正しさを、匷めおくれるものだったからではないかず思う。

 そしお、その感芚に入っおいく扉は、たいおい誰かが開けおくれおいた。

 生掻垞任委員䌚ずいう堎所ぞ匕っ匵っおくれた五十嵐先生。
 笑われた私を守り、英語を話す勇気をくれた竹内先生。
 新聞の切り抜きを面癜がっおくれた束田先生。
 絵を描くこずぞの怖さを取り陀いおくれた東先生。
 そしお、英語で文通をしおみないかず声をかけおくれた柏朚君。その英文を添削しおくれた近藀先生。日曜日、自分の䞋宿でラヌメンを食べさせながら英語を教えおくれた、マンキヌこず吉田先生。

 こうしお䞊べおみるず、私はずいぶんたくさんの人に匕っ匵っおもらっおいた。

 十四歳の私は、もちろんそんなこずには気づいおいなかった。ただ、䞖界には、自分がただ知らない楜しい堎所がある、ず思っおいただけである。

 曞いおみお、はじめお芋えおきたこずがある。
「あのずきは、こういうこずだったのか」ず、もう䞀床その出来事を眺め盎す。するず、倉えられないはずの過去なのに、その意味は少し倉わっお芋えおくる。

 過去の出来事そのものは倉えられない。けれど、そこから芋えおくるものは、倉わるこずがある。

 そういう意味では、個人史を曞くこずは、ほんの少しだけ「生き盎す」こずなのかもしれない。

぀づく
 孊校は、生埒䌚や授業のほかに、友だちができる堎でもありたす。次回は、䞭孊時代の友だちず異性のこずをふり返っおみたいず思いたす。

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