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事実がねじ曲げられる
いじめの被害を受けた子どもが、勇気を出して担任の先生に相談しました。
証拠もあり、担任の先生もその事実をしっかり認めてくれた。
しかし、数日後、状況は一変します。
管理職から示されたのは、まったく違う説明でした。
「加害者とされている子は、実はクラスの中でいじめられていた被害者であり、その反撃として今回の出来事が起きた」というものです。
けれど、そのような事実はありませんでした。
担任の先生も、クラスの子どもたちの証言も、その説明をはっきりと否定している。それにもかかわらず、管理職はその主張を変えない。そして最終的に作成された報告書には、その「事実とは異なる内容」が記されてしまう。
事実とは何なのか。誰の言葉が信じられるのか。
本来、学校は事実を丁寧に積み重ね、判断を下す場所であるはずです。しかし、現実には、その事実が組織の都合によって書き換えられてしまうことがある。もしそれが許されるのであれば、どれだけ証拠があっても、どれだけ声を上げても、意味を持たなくなってしまいます。
さらに苦しいのは、そのような虚偽の報告書が作られても、責任が問われることがほとんどないということです。これが当たり前のように通ってしまう社会に、違和感を覚えずにはいられません。
被害を受けた子どもとその家族は、何を信じて前に進めばいいのでしょうか。
正しいことを訴えたはずなのに、それが覆されてしまう。その中で、「正義とは何か」という問いだけが残ります。
本来、正義は特別なものではなく、事実をそのまま認めることの中にあるはずです。その当たり前が守られる社会であってほしい。そう願わずにはいられません。
