早稲田/物語は、この街から。
街には、不思議と「帰ってきた」と思える場所がある。
私にとって、その街は早稲田だった。
学生だった頃、この街を毎日のように歩いた。
授業へ急ぎ、友人と笑い、将来なんて何も決まっていないのに、それでも毎日が楽しかった。
卒業してから二十年以上。
仕事に追われ、この街へ来る理由はほとんどなくなった。
今日は、一通のメッセージが、その理由になった。
「久しぶりに、ご飯でも行きませんか。」
送り主は、前の会社で直属の上司だった人。
厳しくて、でも誰よりも部下を見てくれていた女性だった。
待ち合わせの店へ向かう道すがら、リュックを背負った学生たちが楽しそうに通り過ぎていく。
あの頃の私は、どんな顔をして歩いていたのだろう。
そんなことを考えながら、店の扉を開けた。
「久しぶり。」
変わらない笑顔だった。
木の温もりを感じる店内は、思っていた以上に静かだった。
席数は多くない。
それでも窮屈さはなく、それぞれのテーブルでは、それぞれの会話がゆっくり流れている。
学生街にありながら、時間だけが少しゆっくり進んでいるような空間だった。
白のビオワインで乾杯する。
「元気そうね。」
「なんとかやってます。」
仕事のこと。
家族のこと。
転職してからのこと。
料理が運ばれるたびに、会話も少しずつほどけていく。
最初の一皿は、ブロッコリーのアンチョビ和えだった。
アンチョビのほどよい塩味が、ブロッコリーの甘みを引き立てる。
一口食べて、白ワインを口に含む。
思わず笑みがこぼれた。
「このお店、素敵でしょう。」
そう言って微笑む上司に、私は静かにうなずいた。
鯛のカルパッチョが運ばれてくる。
ディルの香りがふわりと立ちのぼる。
「あなた、昔から魚は最後まで丁寧に食べるのよね。」
「覚えてたんですか。」
「そういうことは忘れないものよ。」
思わず笑った。
仕事では何度も叱られた。
褒められた記憶は、あまりない。
でも、ちゃんと見てもらえていたんだ。
そのことが、少しだけ嬉しかった。
締めはカルボナーラを二人で取り分けた。
濃厚なソースが、もちもちのパスタによく絡む。
黒胡椒の香りが最後にふわりと広がる。
「余ったソースまで美味しいわね。」
そう言ってパンを添える上司の姿につられて、私も最後の一口まできれいにいただいた。
料理が美味しい店はたくさんある。
ワインが美味しい店もたくさんある。
でも、この店には、ゆっくり話ができる時間があった。
だから、昔は言えなかった言葉まで、自然と口にできたのかもしれない。
店を出ると、夜風が少しだけ涼しかった。
「また、美味しいもの食べに行きましょう。」
彼女はそう言って笑った。
「はい。」
その一言が、昔よりずっと素直に言えた。
駅へ向かう途中、少しだけ遠回りをした。
学生だった私には、この街が未来だった。
今の私には、この街が原点になっていた。
物語は、この街から。
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この物語の舞台はこちら。
Osteria il Fico
https://tabelog.com/tokyo/A1305/A130504/13302769/
「エド村雨」の食べログレビューをご覧ください。
