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10分で読めるドむツの歎史

ドむツの歎史は、䞭䞖の「神聖ロヌマ垝囜」による緩やかな連邊状態から、1871幎のビスマルクによる鉄血政策での統䞀、二床の䞖界倧戊による敗戊ず東西分裂、そしお1990幎の再統䞀を経お珟代に至る分裂ず統合のストヌリヌずなりたす。

395幎、欧州を支配したロヌマ垝囜が東西に分裂し、476幎にゲルマン人の傭兵隊長オドアケルが最埌の西ロヌマ皇垝ロムルス・アりグストゥルスを廃䜍させお、西ロヌマは滅亡したす。

旧西ロヌマ地域においお481幎頃、ゲルマン人の䞀掟であるサリ・フランク族のクロヌノィスがフランク王囜を建囜したす。圌は、䌝統的なゲルマン人の倚神教からカトリックに改宗し、教䌚ず王は互いを利甚しお暩益拡倧を図っおいきたす。

768幎に即䜍したカヌル倧垝は次々ず倧遠埁を行ない、南は北むタリア、西はむベリア半島、東はバむ゚ルンなどを埓え、今のハンガリヌにたで軍を送り、西ペヌロッパほが党域を領土ずしたす。
カヌル倧垝は「統䞀」を重芖する人で、広倧な垝囜内でバラバラだった瀌拝の圢匏兞瀌をロヌマ教䌚の方匏に統䞀しようずし、キリスト教信仰の統䞀を政治的支配の匷化のために掻甚したした。

800幎、東のビザンツ垝囜ず察立しおいたロヌマ教皇レオ3䞖はカヌル倧垝に「ロヌマ皇垝」の垝冠を授けカヌルの戎冠、教䌚を庇護する皇垝ず暩嚁を授ける教皇ずの盞互䟝存関係の象城ずなりたした。
カヌル倧垝の父芪ピピン3䞖が寄進した教皇領を皇垝が保護するずいう関係も明確になり、カヌル倧垝の圚䜍は768814幎の46幎ずいう長期に及びたした。

カヌル倧垝は「西ペヌロッパの父」ずも呌ばれ、ゲルマン文化、ロヌマ文化、キリスト教を融合させ、珟代のペヌロッパの基瀎を築いた人物ずしお、ドむツでは、カヌル・デア・グロヌセ、フランスでは、シャルル・マヌニュず呌ばれ、どちらからも自囜の英雄ずしお尊敬されおいたす。

フランク族には、息子たちに囜土を平等に分ける「分割盞続」の慣習があり、カヌル倧垝の孫の時代に3人の息子が埌継者争いを展開した結果、843幎、垝囜は䞭郚フランク、東フランク、西フランクに分かれたすノェルダン条玄。このうち、東フランク王囜がドむツの原型ずなりたす。

936幎に東フランク王ずなったオットヌ1䞖の時代、むベリア半島にはむスラム勢力の埌りマむダ朝があり、北からはノァむキング、東からはマゞャヌル人ハンガリヌ人が䟵入を目指しおいたした。

オットヌ1䞖は955幎、南ドむツのレヒフェルトの戊いで、東方から䟵入したマゞャヌル人を撃退し、キリスト教䞖界の守護者ずしおの名声を確立したした。敗れたマゞャヌル人はパンノニアに埌退しお定䜏し、ハンガリヌ王囜を成立させるこずずなりたす。

962幎、オットヌ1䞖は圓時の教皇ペハネス12䞖から救揎芁請を受けおロヌマぞ遠埁し、北むタリアのベレンガリオ2䞖の脅嚁から教皇を保護したした。
この功瞟により、オットヌ1䞖は教皇から「ロヌマ皇垝」の冠を授けられ、これをもっお神聖ロヌマ垝囜が成立したずみなされおいたす。

神聖ロヌマ垝囜が「ロヌマ」ず名乗った理由は、叀代ロヌマの継承者ずいう「ブランド力」で支配の正統性を埗たかったからですが、歎代皇垝ドむツ王の倚くはむタリアずロヌマに目が向いおしたい、足元は300もの小さな領邊が分立した状態でした。

皇垝ず教皇の関係は、カヌル倧垝に象城される「庇護ず戎冠」ずいう蜜月関係から次第に倉化しお、聖職者の任呜を巡っお争うようになっおいきたす。
1077幎、こうした「叙任暩闘争」の結果、教䌚から砎門されたハむンリヒ4䞖が教皇グレゎリりス䞖に懇願しお信者ぞの埩垰を願うずいう事態も生じたしたカノッサの屈蟱。
これによっお教皇の暩嚁が皇垝を䞊回ったずされたすが、1084幎にハむンリヒ4䞖は察立教皇を擁しおロヌマに攻め蟌み、グレゎリりス䞖をロヌマから远い出しおしたうずいうリベンゞも果たしたした。

1152幎即䜍のフリヌドリヒ1䞖赀髭王も、教皇ずの関係は良くありたせん。赀髭王は「ロヌマ」支配に執着し、6回も北むタリアに攻め蟌みたすが、むタリアの30郜垂が教皇ず協力しおロンバルディア同盟を結んで察抗したす。
1176幎、北むタリアのレニャヌノの戊いで、フリヌドリヒ1䞖はロンバルディア同盟・教皇の連合軍に倧敗しお和解。1189幎、第䞉回十字軍の総叞什官ずしお遠埁したすが、その途䞭で溺れ死んでしたいたす。

フリヌドリヒ1䞖の孫が、シチリア出身のフリヌドリヒ2䞖で、1220幎にドむツ王ずなりたす。
シチリアはむスラム教埒やノルマン人に埁服された歎史があったため、フリヌドリヒ2䞖も語孊に堪胜で、アラビア語を含めお6か囜語を話したした。

しかし教皇は異文化に寛容な王が嫌いなので、フリヌドリヒ2䞖は些现なこずで砎門されおしたい、砎門されたたた1228幎、第六回十字軍を率いお゚ルサレムぞ向かいたす。

゚ルサレムを統治するアむナヌブ朝のスルタヌン・アルカヌミルは、アラブ文化を理解するフリヌドリヒ2䞖に友奜的で、フリヌドリヒは血を流すこずもなく、1229幎2月、10幎間の期限付きで゚ルサレム返還を実珟したしたダッファ条玄。
本来なら「無血開城」ずいう倧偉業ず評䟡されるべきですが、こうした異教埒に融和的な姿勢は呚囲に匱腰ず思われお理解されず、教皇も砎門した手前これを評䟡せず、フリヌドリヒ2䞖は孀独感を抱いたたた、シチリアぞ垰囜したす。

1254幎、フリヌドリヒ2䞖の子であるコンラヌト4䞖が26歳で急死するず、120幎ほど続いたホヌ゚ンシュタりフェン朝が断絶しおしたい、1254幎から1273幎たでの間、皇垝が事実䞊䞍圚ずなりたす倧空䜍時代。

倧空䜍時代は、1273幎にハプスブルク家のルドルフ1䞖がドむツ王に遞出されたこずで終わりたしたが、圓時のルドルフは「貧乏䌯」ず蚀われるほど小さなスむスの領䞻であり、誰の脅嚁にもならないだろうずいうのが遞ばれた理由でした。

しかし圌は1278幎、圓時勢力を拡倧しおいたボヘミア王オタカル2䞖に「マルヒフェルトでの戊い」で勝利。りむヌンを含むオヌストリア地方を手に入れお、ハプスブルク家栄光の基瀎を䜜りたした。

1356幎、皇垝カヌル䞖は金印勅曞黄金文曞を出しお、皇垝遞挙暩を有力な7぀の諞䟯に䞎えたした。7人の内3名は教䌚の倧叞教であり、4名が領䞻です。
それたでの遞挙では参加する諞䟯は固定されおおらず、その時々の有力者や倧諞䟯が䌚議に参加しお皇垝を遞出しおいたため、様々な混乱が付きものであり、しばしば教皇も介入したした。
カヌル4䞖はプラハ倧孊を創蚭しお、ボヘミアをペヌロッパの文化教育の䞭心地のひず぀ぞず抌し䞊げ、プラハのカレル橋に名前を残しおいたす。

カヌル4䞖の息子がゞギスムントで、1414幎にコンスタンツ公䌚議を䞻催しお、教皇が二人存圚した1378幎からの教䌚倧分裂を終わらせたした。
しかし同時に、教䌚の腐敗を批刀したプラハ倧孊孊長のダン・フスを隙し打ちのように呌び出しお火刑に凊しおしたい、ベヌメン地区が反発しおフス戊争が起こりたす。フス戊争は15幎以䞊続き、ベヌメンはロヌマ教䌚に批刀的な地域ずしお「しこり」が残りたした。
今もチェコでは7月6日が「ダン・フス火刑の日」ずしお囜の祝日です。

プラハのダン・フス像

1519䞖玀はハプスブルク家がほが独占的に皇垝䜍を継承するようになりたす。ハプスブルク家が有力な王家ず政略結婚を繰り返しお領土を広げたこずは良く知られおおり、スペむン、ネヌデルラント、ボヘミア、ハンガリヌなどの広倧な領土を継承し、他の諞䟯を圧倒する経枈基盀ず圱響力を手に入れたした。

皇垝を遞出する暩利を持぀「遞垝䟯」たちは、自分たちの特暩を守るために、ある皋床埡しやすい、あるいは芋返りをくれる候補者を奜みたした。ハプスブルク家は膚倧な富を背景に、遞垝䟯たちに倚額の賄賂や特暩を提瀺しお祚を固めるのが垞套手段でした。

1517幎、ザクセン遞垝䟯領にいたマルティン・ルタヌが、免眪笊を倧量発行する教䌚を批刀したこずから宗教改革が始たり、キリスト教のプロテスタントずカトリックの争いが激化したす。

1555幎、アりクスブルクの宗教和議によっお、各領䞻がカトリックかルタヌ掟かを遞択する暩利が認められお、䞀旊は争いが鎮静化するものの、1618幎、ハプスブルク家によるカトリック匷制に反発したベヌメン珟チェコでの歊装蜂起は「䞉十幎戊争」ずなりたす。
この戊闘は、ドむツの郜垂ず蟲村を荒廃させ、ドむツの人口は1600䞇人から1000䞇人に枛ったず蚀われたす。

䞉十幎戊争の埌半の1635幎になっお、カトリックの倚いフランスが、ハプスブルク家に察抗するため、プロテスタント偎で参戊したす。もはや宗教戊争では無く、西欧支配をめぐるパワヌゲヌムになっおいたした。

1648幎、ようやく講和が成立りェストファリア条玄しお、スむスずオランダが独立。神聖ロヌマ垝囜は、勝者のフランスやスりェヌデンに領土を割譲し、小さくなっお圢骞化しおいきたす。
こうした状況を、18䞖玀の思想家ノォルテヌルは、「神聖でもロヌマでもなく、垝囜でもない」ず評したした。

1789幎、フランス革呜が起こるず、革呜思想の䌝播を恐れた皇垝フランツ2䞖は、むギリスやロシアらず組んで察仏倧同盟を組みたした。
しかし1806幎、ナポレオンの圧力によっお、ドむツ南西郚の16諞邊がラむン同盟を結成しお神聖ロヌマ垝囜から離脱したため、フランツ2䞖は退䜍を䜙儀なくされ、神聖ロヌマ垝囜は厩壊したした。

1815幎、ナポレオンが最終決戊「ワヌテルロヌの戊い」で敗れお倱脚するず、りむヌン䌚議を䞻催したオヌストリアのメッテルニヒが䞭心になっお、オヌストリアを盟䞻ずするドむツ連邊が結成されたす。
神聖ロヌマ垝囜時代は数癟あった諞邊が、35の君䞻囜ず4぀の自由郜垂に集玄されたものの、あくたでも緩やかな連合䜓でした。

1848幎にフランスで2月革呜が起こるず、欧州党䜓で民族䞻矩の気運が向䞊し、同幎、フランクフルト囜民議䌚が開催されおドむツ統䞀ぞの意欲が高たりたす。
ただし参加したのぱリヌト知識局であり、「教授議䌚」や「法埋家議䌚」ず揶揄されたした。民話収集によっおドむツ統䞀意識の醞成に貢献のあった、グリム兄匟の兄も参加しおいたす。

䌚議では統䞀の方向性ずしお、オヌストリアを含む倧ドむツ䞻矩ず、含たない小ドむツ䞻矩が議論ずなりたしたが、倚民族囜家であったオヌストリアが民族䞻矩に傟けば囜家が分裂しおしたうので、小ドむツ䞻矩の方向ずなりたす。

匷囜オヌストリアが倖れるずなるず、軍事力を匷化しおいたプロむセン王囜が自然に統䞀運動の䞭心ずなりたす。
プロむセンの宰盞ビスマルクは1862幎、「珟代の倧問題は挔説や倚数決ではなく、鉄ず血によっおのみ解決される」ず議䌚で挔説し、力による統䞀方針を掲げたす。

ビスマルク

ビスマルクは巧劙でした。
1864幎、たずはオヌストリアを誘っお、デンマヌクの支配䞋にあっおドむツ人が倚く䜏むシュレスノィヒ・ホルシュタむン䞡公領の奪還を掲げおデンマヌクに攻め入りたす。

単独でも勝おるデンマヌクずの戊争に、わざわざオヌストリアを匕き蟌んだのは、オヌストリアの戊力分析ず戊争のきっかけ䜜りでした。プロむセンは戊闘そっちのけで、オヌストリア軍の装備を芳察しおいたずされたす。

ビスマルクの想定どおり、獲埗した領土の統治に぀いおオヌストリアず意芋が食い違い、1866幎に普墺戊争が起こっお、プロむセンが勝ちたす。
䜆しビスマルクはオヌストリアに領土芁求をせず、少額の賠償金を取るだけでした。次なる戊いを考慮し、オヌストリアを匷く远い蟌むこずは避けたした。

1870幎、ビスマルクは、プロむセン王がフランス倧䜿の芁請を断った電報内容を挑発的に線集しお公衚し、その挑発に乗ったナポレオン䞉䞖がドむツに宣戊垃告普仏戊争したしたが、ナポレオン䞉䞖自身が捕虜ずなる倧倱態でプロむセンが勝利。
オヌストリアは䞭立の立堎を取ったので、ビスマルクは埌方を気にせずにフランスず戊うこずが出来たした。

1870幎の欧州

プロむセンがフランスに勝利したこずにより、それたで慎重姿勢だったバむ゚ルンなどカトリックの倚い南ドむツ諞邊もプロむセンに合流するこずを決断し、ドむツの統䞀が完成したした。

1871幎1月、ドむツはノェルサむナ宮殿で、プロむセン囜王ノィルヘルム1䞖をドむツ皇垝ずする戎冠匏を行っおフランスに屈蟱を䞎えたしたが、これによっおフランスはドむツを仮想敵囜ずしお匷く意識するようになり、その察立は第䞀次䞖界倧戊で決定的ずなりたす。

ノィルヘルム1䞖の戎冠

1914幎、圓時オヌストリア領だったサラ゚ボで、オヌストリア皇倪子がセルビア人孊生に暗殺されるず、オヌストリアがセルビアに宣戊垃告。
セルビアにはロシア、むギリス、フランスが、オヌストリアにはドむツやオスマン垝囜が付いお䞖界倧戊ずなりたす。

ドむツは、ロシアずフランスによる挟み撃ちを避けるためにフランスぞ先制攻撃を仕掛けたすが、仏軍の抵抗で長期戊ずなっお目論芋が倖れ、埌にアメリカが英仏偎で参戊しお、ドむツは敗戊したす。
今床はフランスがノェルサむナ宮殿で、ドむツに厳しい領土割譲や莫倧な賠償金などの制裁を科す条玄を締結したした。

ノィルヘルム1䞖の孫のノィルヘルム2䞖はオランダぞ亡呜。ドむツは共和政ワむマヌル共和囜ぞず䜓制転換し、男女平等の普通遞挙が実珟したす。

1923幎、ヒトラヌは歊装したナチス突撃隊を率いお、ミュンヘンのビアホヌルで開催されおいた州政府の集䌚を襲撃しおクヌデタを起こしたしたが、この蜂起は倱敗。刑期5幎で投獄されたす。
䞍況に苊しむ珟地ではヒトラヌに同情的な者も倚く、収監期間は僅か9か月。この間に自身の政治思想をたずめた「わが闘争」を口述筆蚘し、暎力革呜を諊めお合法的な政暩獲埗を目指すようになりたす。

第䞀次䞖界倧戊埌の巚額賠償によっおドむツはハむパヌむンフレずなり、1929幎発の䞖界恐慌で曎に経枈危機が深刻ずなる䞭、倧芏暡な公共工事で雇甚を創出し、巧みな宣䌝工䜜で人気ずなったナチ党は、1932幎7月の囜䌚遞挙においお、第䞀党になりたす。
1933幎にヒトラヌが銖盞に就任しお党暩委任法を成立させたこずで、ワむマヌル共和囜の民䞻䞻矩は厩壊したした。

ヒトラヌは、第二次䞖界倧戊ずホロコヌストを匕き起こしお既存秩序ぞ倧胆に挑戊し、䞀時はフランスを含む欧州倧陞の倧郚分を支配したすが、アメリカの参戊でドむツは再び敗北。
匷すぎるドむツは、米゜冷戊䞋で「西ドむツ」ず「東ドむツ」に分断されたす。

戊埌の独仏は、再び䞖界倧戊が起こらないように共同䜓を䜜っおいきたす。たずは1951幎、フランスず西ドむツを含む6カ囜で欧州石炭鉄鋌共同䜓ECSCを蚭立したす。

゜連は、蚈画経枈の行き詰たりやアフガン䟵攻による軍事負担などから80幎代に匱䜓化しおいきたす。
85幎からゎルバチョフが指導者ずなり、「ペレストロむカ改革」ず「グラスノスチ情報公開」を進めお、民䞻化ず自由化の方向ぞ共産䞻矩䜓制を修正したすが、次第に連邊ぞの統率力を倱っおいきたす。
1989幎にベルリンの壁が厩壊しお冷戊構造が終焉に向かうず、1990幎に東西ドむツが再統䞀され、珟圚のドむツ連邊共和囜が誕生したした。

1993幎にはECSCが欧州連合EUぞず発展し、2002幎にはフランスずドむツを含めお12か囜で共通通貚ナヌロの流通が開始され、EU加盟囜も27カ囜に拡倧したす。
二床の悲劇的な倧戊を経隓した独仏は協力䜓制を構築し、EUの䞻導囜ずしお欧州の䞭枢を担っおいたす。




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