津田梅子 日本の女子教育の先駆者
# 六歳で船に乗った女の子が、半世紀後に見た景色
明治四年。
横浜の波止場に、小さな女の子が立っていた。
まだ数え六歳。見送りに来た父親と、どんな言葉を交わしたのかは記録に残っていない。わかっているのは、その子が船のタラップを上り、アメリカへ向かったという事実だけだ。
津田梅子。
彼女が日本を離れた日、その小さな背中に背負わされたものの重さを、誰も正確には測れない。
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## 「あなたたちが、日本を変える」
明治政府が五人の少女を米国に送り出したのは、半ば実験だった。
「女子にも西洋の教育を」という理念は美しかったが、それを言い出した開拓使のお雇い外国人、ケプロンに言わせれば、要は「試しにやってみよう」程度の話だった。五人の中で最年少だったのが梅子だ。他の四人は十代だったが、彼女だけが六歳だった。
なぜ六歳の子を。
そう思うのは当然だ。だが父・仙は快諾した。維新の志士であり、新しい日本の形を信じていた父は、娘をアメリカへ送り出した。
梅子はランマン夫妻の家に預けられた。ワシントンの、緑の多い静かな家。夫妻には子どもがなく、梅子を実の娘のように育てた。英語を覚えるのは早かった。あっという間に、梅子の夢は英語で広がり始めた。
十一年が経った。
帰国した梅子は、十七歳になっていた。
そして、故郷に帰ってきた瞬間、彼女が感じたのは「ただいま」ではなかった。
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## 帰った先は、知らない国だった
日本語が出てこなかった。
父と話すのに困った。母との会話が続かなかった。着物の着方も、箸の作法も、どこかぎこちなかった。
もっと辛かったのは、そこではない。
梅子が見た日本の女性たちは、夫の三歩後ろを歩いていた。高等教育を受ける機会はなく、自分の意見を持つことすら憚られる空気があった。アメリカで「あなたはどう思う?」と毎日問われ続けた梅子には、その光景が最初、理解できなかった。
「これが、私の国なのか」
友人への手紙にそう書いている。失望ではなく、静かな問いかけとして。
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