編集人の京都の朝をぶらぶら◉50回目は、王府の森へ — 首里城から識名園、新緑の京都御所へ
「編集人の京都の朝をぶらぶら」も、今回で50回目。節目となる今回は、いつもの京都の朝から海を越えて、4月半ばの沖縄県那覇市の首里へ。
目的は、首里城のある首里台地から、識名園のある識名台地までを歩き、地形の起伏やまちに残る痕跡を手がかりに、近世琉球という王国の成り立ちをたどるフィールドワークへの参加。案内してくださったのは、京都高低差崖会 崖長の梅林秀行さんです。
まずは、ゆいレールの儀保駅近くから、首里城へ。

たどるのは、琉球王府の主要道のひとつであった中頭方西海道。
道は、ゆるやかに上がり、また下がる。石垣があり、濃い緑があり、風が抜ける。王府の中心へ近づく道は、建物へ一直線に向かうのではなく、台地の起伏をたどりながら、少しずつその空間に入っていく道でした。
道の途中に、ウタキがありました。

「御嶽」と書きます。琉球の信仰における聖地です。
京都を歩いていると、町角の小さな祠や、古い社寺に足が止まることがあります。ただ、ウタキの前に立ったときの感覚は、それとは少し違っていました。石や木々に囲まれたその場所は、土地の奥に静かに残る祈りの場のように見えました。
外から来た自分が、何かを簡単に言うことはできません。けれど、王府へ向かう道のそばに、こうした聖地がある。そのことだけでも、首里という土地の深さが少し伝わってきます。
ガーにも出会いました。

ガーは、井戸や湧水の場所です。水のある場所には、暮らしの記憶が集まっているように感じます。
京都でも、名水や井戸の跡に出会うことがあります。けれど、首里のガーは、もっと生活と祈りに近い場所として残っているように見えました。
王府のまわりには、政治の中心だけがあったわけではない。祈りの場があり、水をめぐる暮らしの記憶があり、日々の営みがあった。その重なりを感じながら、首里城へ向かって歩きました。


首里城が近づくにつれて、石垣と緑の存在感が増していきます。その途中で、玉陵の周辺を通りました。「たまうどぅん」と読む、第二尚氏王統の陵墓です。
首里城へ向かう道のそばに、王家の墓所がある。
玉陵の周辺を歩くと、首里城が単独で建っているのではなく、王府の営みの中に置かれていたことが伝わってきます。
石垣の向こうに濃い緑があり、坂の先に首里城がある。
その道を進むことは、台地の起伏と、王家の記憶をたどりながら、王府の中心へ近づいていくことでもありました。
そして、守礼門へ。

首里城を象徴する門として、あまりにもよく知られている場所です。
けれど、中頭方西海道からウタキやガー、玉陵の周辺をたどって来ると、少し見え方が変わります。
門の向こうに首里城がある。
その前に、ここへ至る道がある。
守礼門は、その道の先に静かに立っていました。
守礼門を過ぎ、首里城の内側へ。

背後から見る正殿は、正面から見る姿とはまた違う印象でした。華やかさよりも、台地の上に置かれた建物としての存在感がありました。
赤い正殿の向こうには、石垣があり、坂があり、濃い緑がある。
首里城は、建物だけで完結する場所ではなく、首里の地形や道の記憶とともにある王府の空間だったのだと思います。
その余韻を残したまま、首里城から、今度は識名園へ向かいます。

たどるのは、真珠道。まだまみち、と読みます。
首里城から那覇港方面へ延びていた、近世琉球の官道です。王府の中心と港を結び、識名園へ向かう道でもありました。
石畳の坂を下っていくと、足元には琉球石灰岩。京都の石畳とは、色も質感も違う白っぽい石が、南の光を受けていました。
その道を歩きながら、近世琉球の都市が、王府、港、別邸を結ぶ道によって支えられていたことを感じました。
やがて、識名園に着きます。

ここは、琉球王家最大の別邸とされる庭園です。国王一家の保養の場であり、中国からの冊封使などをもてなす場でもありました。
池のまわりを歩く廻遊式の庭。その形式だけを見れば、日本の近世大名庭園と重なるところがあります。けれど、実際に歩くと、そこにある空気はやはり沖縄のものでした。

水面に映る濃い緑。厚みのある植物の葉。南の光を受ける白い琉球石灰岩。識名園は、外から庭園の形式を取り入れながらも、琉球の土地の素材と気候によって、まったく別の表情を持っていました。

池の中島に掛かる橋も、琉球石灰岩でできています。識名園が琉球石灰岩の台地の上にあることを思うと、この橋は庭の意匠であると同時に、土地そのものが庭に現れたもののようにも見えてきます。
首里城が王府の中心だとすれば、識名園はその外側にある、もうひとつの王府の顔だったのかもしれません。政治の中心から少し離れた別邸であり、同時に、中国からの冊封使を迎える外交の場でもあった。
穏やかな庭の奥に、近世琉球が置かれていた複雑な立場も、少し見えてくるようでした。首里城が王府の中心だとすれば、識名園はその外側にある、もうひとつの王府の顔だったのかもしれません。

沖縄から戻って一週間後、京都御所を歩きました。
季節は新緑。京都御苑の木々は、やわらかな緑に包まれています。
何度も歩いている場所です。けれど、首里城から真珠道をたどり、識名園を歩いたあとでは、その静けさの受け取り方が少し変わっていました。
台地の起伏とともに濃い緑が迫ってくる首里城。京都のまちなかに、広く静かに緑がひらける京都御所。
まったく違う森でありながら、どちらも近世の元首の空間を包んでいた。
そう思うと、歩き慣れた京都御所の新緑にも、いつもとは違う時間の層が見えてくるようでした。

現在の京都御所は、安政2年、1855年に造営された安政度内裏をもとにしています。その前の寛政度内裏の基本的な造営方針を受け継ぎ、ほぼその姿を再建したものとされます。
寛政度内裏は、寛政2年、1790年の造営。そこには、平安の内裏を意識した復古的な考え方が反映されていた。とくに紫宸殿や清涼殿には、光格天皇の時代の空気が重なっています。

光格天皇は、近世後期において、天皇の権威をあらためて浮かび上がらせた存在でもあります。徳川将軍の権威が少しずつ揺らいでいく時代に、朝廷の存在感が、もう一度強く意識されていく。
一方で、琉球を支配下に置き、交易を通じて力を蓄えた薩摩は、やがて幕末政治の大きな力となっていく。
首里城と京都御所。
遠く離れた二つの場所が、近世の終わりに向かう歴史の中で、思いがけずつながってくる。
首里の亜熱帯の森を歩いた一週間後、歩き慣れた京都御所の新緑が、いつもより少し深く見えたのは、そのためだったのかもしれません。
50回目の朝は、海を越えた首里の道を通して、歩き慣れた京都御所の新緑の奥に、近世の終わりへ向かう時間を少しだけ見る回となりました。
