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十時の投稿

 六月の朝は、庭から始まる。
プチトマトの葉先には、夜のあいだに結んだ露が、まだ小さな珠のように残っていた。
この歳になると、こうした何でもない景色が、妙にいとおしく思える。いつもと変わらない、静かな朝だった。


 家にもどってパソコンを開くと、一通のメッセージが届いていた。
野川宏光さん——noteで親しくしている、小説家からである。

 「一週間からおまはんの綴りを読み返し、何回も書き直してんが……もしわしの読んで、気に入らん、おもろない、言うんがあったら、遠慮せんと、率直に言うて下さいね。十時に投稿します。」

 飾らない関西の言葉が、かえって胸に沁みた。
一週間ものあいだ、この人は、私の文章を読み返してくれていたのか。気に入らなければ言ってくれ、と、これほど低く構えて。

そして、十時。
私は、その時刻を、静かに待つことになった。

 野川さんには、「気持ちが動いたこの綴り」という連載がある。
スキやビューといった数字には目もくれず、読んでいて心が動いた綴り手を——それも、おおむね六十を過ぎた書き手を——一人ずつ紹介していく、というものだ。
派手な評判でもなく、大きな数字でもない。ただ、読んで心が動いたから。その一点だけで選ぶというのである。

 考えてみれば、不思議なことだ。会ったこともなく、声を聞いたこともない人間のために、一週間という時間を割き、何度も書き直す。画面の向こうの、顔も知らぬ相手に、人は、そこまでできるものなのだろうか。

 私は、十時が近づくのを、少し落ち着かない気持ちで待っていた。
期待と、それから、わずかな怖さもあった。私の歩いてきた道が、他人の目にどう映るのか——それを知るのは、嬉しくもあり、こわくもあった。

 十時。投稿は、静かに現れた。読みはじめて、すぐに気づいた。
そこに綴られていたのは、いつか私自身が書いた、あの自己紹介だった。

三十歳過ぎた頃からの「これからは、英語の時代が来る」という直感。
睡眠を削って手にした工業英検一級。
定年目前の熟年離婚と、家族の離散。
七十代で、積み上げてきた財産のほとんどを失ったこと。
七十九歳の交通事故と、免許の取消処分。
そして八十一歳——
「もう一度、免許を取り直そう」と、免許センターの窓口で覚悟を語った、あの日のこと。

 野川さんは、私の書いた言葉を、できるだけそのまま活かし、ていねいに要約しまとめ上げてくださった。

人間は、何歳からでも変われる」——七十歳のとき、鏡の中の自分に見惚れて、心の底から実感した、あの一行も、私の言葉のまま、そこにあった。

自分の半生が、他人の手を通して、もう一度、目の前に立ち現れる。それは、誇らしいというより、不思議で、少し面映ゆい心持ちだった。
 ところが、最後まで読み終えたとき、私は息をのんだ。文章の結びに、私には決して書けない一行が、添えられていたのである。

「心が震える、本物の人間がここにいた。」

 自分の人生を、自分の口でそう呼ぶことは、どうしてもできない。
けれど野川さんは、私の綴ったすべてを読み終えたあとで、その一行を、まっすぐに書いてくださった。
不覚にも、目頭が熱くなった。感慨無量とは、こういうことをいうのだろう。私は、しばらく画面の前から、動くことができなかった。

 八十二にもなれば、もう、誰かに見出される日が来るとは思わない。
フルタイムのアルバイトを一日おきにこなしてはいるものの、日々は静かに過ぎていく。最近は庭の野菜を育て、花の世話をし、過ぎた日のことを綴る。それで十分だと、思っていた。

それなのに、見ず知らずの人が、私の文章を何度も読み返し、言葉を尽くして世に送り出してくれた。
長く生きてきて、いつのまにか刻まれていた年輪を、誰かが、そっと照らしてくれたような——そんな朝だった。

 野川さんは、記事の結びに、こう書いておられた。「誰だか知らない出会いに感謝」と。まったく、その通りだと思う。顔も知らず、声も知らぬまま、ただ言葉だけで、心が触れ合う。noteという場所は、つくづく不思議なところだ。

 私は、もう一度、庭に出た。露はもう乾き、トマトの実が、朝の光をうけて、小さく輝いている。——年齢は、ただの数字でしかない。

本当に問われるのは、今、何をしているか。」

そんな言葉が、静かに胸に残っていた。野川さんの言葉を、私はもう一度、胸のなかで、そっと繰り返した。

ーー野川さんからご紹介頂いた記事はこちらーー

以上、野川さんには過分の言葉でご紹介して頂き感謝に耐えません。
ありがとうございました。

自分の紹介記事はこちら



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