子供に「写ルンです」を持たせてみた
子供に「写ルンです」を持たせてみた
3歳の手には少し大きいカメラを、両手で握りしめて、覗き込む。
片目じゃなくて両目を瞑ってるような気がするけど、ファインダーの中に何が見えているのかは、本人にしかわからない。
しばらく狙いを定めて、シャッターを押す。
ガリガリとフィルムを巻く感触が楽しいらしく、撮るたびに巻いている。
フラッシュが光れば、それだけではしゃぐ。
引き出しに眠っていた写ルンです
そもそも私が写ルンですに戻ってきたのは、大学の卒業式がきっかけだった。
友人が「せっかくだし写ルンですで撮ろう」と言い出し、その場のノリで買いに行って、みんなでスナップ写真を撮って回った。撮ったことすら、そのうち忘れていた。
それから10年近く経って、その一本が引き出しの奥から出てきた。現像に出してもどうせ真っ黒か、色も飛んでいるだろう。
そう思いつつ、このままにするのももったいないから、カメラのキタムラへ持っていった。
現像された写真を見て、心が動いてしまった。
まだ何者でもなかった自分たちが、そこに写っていた。
少し粗くて、光が滲んでいて、記憶よりもずっと柔らかい色をしていた。
スマホや一眼レフの写真のように鮮明ではない。
鮮明じゃないからこそ、あの日の空気、温度がそのまま閉じ込められているように見えた。
そこから、フィルムカメラにハマった。
とは言いつつ、最強のスナップカメラはスマホだと思っている。もちろん私もスマホで撮る。
めちゃくちゃ撮るし、撮ったそばからLINEのアルバムでシェアする。フィルムとか言いながら、グループで一番早くアルバムを作るタイプだ。
それでもフィルムに惹かれるのは、写真そのものの魅力の他に、現像まで待つという、焦らされる時間があるからだと思う。
撮って、少し忘れた頃に写真が届く。
待ち時間が極限まで削られている現代で、こういう待つ時間が、存外豊かだったりするのかもしれない。
しかも27枚しか撮れず、やり直しもきかない。だからこそ、一枚一枚を大切に撮るようになった。
思い返せば、学生時代、奥山由之さんの写真が好きだった。生活のなかの一瞬、ネバヤンのPV。それらの作品に惹かれていた理由が、10年越しに出てきた写真で、より自覚的になった。
ピンぼけしたスナップ写真を、心から愛するようになった。
素人のくせに。
娘が撮った写真
家族で某夢の国に行った際に、子供に写ルンですを持たせてみた。デジカメやスマホと違って、壊れても濡らしても、最悪まあいい。写ルンですも最近は地味に高くて、決して気軽ではないのだけど。
出てきたのは、決して自分では撮れない写真ばかりだった。
例えばこの1枚。

撮:3歳の写ルンです
テーブルの上に置かれた、リンゴジュースの紙パック。ピントはどこにも合っていなくて、全体がぼんやり滲んでいる。画面の下半分は、意味もなくテーブルの石目だけ。フラッシュがまわりを白く飛ばして、隅は暗く落ちている。
夢の国まで行って、撮ったのがテーブルの上のジュースかい、と笑ってしまう。
でもこの子の目線は、ちょうどテーブルの高さなんだと気づく。
親目線で撮る写真は、だいたい子供を見下ろす角度だ。でも子供の世界では、テーブルの上に置かれたジュースが、堂々と主役を張っている。
この低さは、私には撮れない。
(それはそれとして、本当に心の底からリンゴジュースが好きなんだな、とも思う。)
Suburban(郊外)で、何を残すか
海も山もない、東京に通えるというだけのSuburban(郊外)。
コンテクストの無い場所で、私は育った。
情報であふれる時代、自分の子供もきっと、周りの子と似たようなコンテンツを浴びて、似たような体験をして、大人になっていく。
三人も子供がいると海外旅行とか、分かりやすい旅先に中々連れて行ってあげられない。
それでもこの何もないSuburban(郊外)で、この子だけの、家族だけの記憶。
大人になってから誰かに話せる、自分のルーツや、足がかりになるような出来事を、一つでも授けたいと思う。
子供の頃の記憶なんて、大人になればほとんど忘れてしまう、けれど記憶は連続している。
写真はその記憶の行間を埋めてくれるものだと思う。
この一枚も、いつか子供の結婚式で流れたりするのだろうか。
あまりに映えてないから、速攻で却下されそう。
