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「どうして私が」―無理やり負わされた十字架を負って歩く力―2026.9.6礼拝メッセージ

このnoteでは、毎水曜日に「日本基督教団 西宮聖光教会」の礼拝メッセージを、毎日曜日に「週報のコラム」、そしてときどき「短歌」を載せています。

今日は礼拝メッセージです。
新学期の始まる9月。今月は、「勇気」を思い巡らします。

「どうして!」「なぜ?」と叫ばざるを得ないような体験をしたとき、私たちはどのようにすればいいのだろう‥‥‥

勇気の一歩を踏み出したいと思います。


聖書:ルカによる福音書 23章26節

彼らがイエスをひいてゆく途中、シモンというクレネ人が郊外から出てきたのを捕えて十字架を負わせ、それをになってイエスのあとから行かせた。


 1.「どうして私が」―降ってわいた「災難」


今日の聖書箇所は、たまたまそこに居合わせたがために、イエスさまが負っていた十字架を負わされたシモンという人の話です。

たった 1 節で描かれて いますが、迷惑千万、災難としか思えないようなイエスさまの十字架を負うこ とになったシモンを通して、私たちの負う十字架のことを考えてみたいと思 います。 

ピラトの判決によって、イエスさまは十字架刑となりました。朝からの様子は、マルコ福音書が詳しく記しています。

イエスさまは、すでに、もう 十字架を担いで歩くことができないほど弱られたのでしょう。

そこで人々は、たまたまそこを通りかかったクレネ人シモンに、イエスさまの十字架を無理やりに負わせました。

クレネは北アフリカ、現在のリビア東部にあった町です。このシモンがどのような人物であったのか、詳しいことはわかりません。
シモンにとってはとんだ災難、迷惑千万です。

私たちの人生にも、「無理やりに十字架を負わされた」と思うことがあります。

「どうして私が」「なぜ、こんなものを背負わなければならないのか」「とばっちりにあった」そういう「体験」です。

事故、災害、冤罪‥‥‥自分が意図したものでなない、降ってわいたような苦しみを負う体験は、いつ、自分の身に降りかかるかもしれません。


 2.傷つけられるプライド―「自分を捨てる」とは

当時、ローマの支配下では、兵士が住民に荷物の運搬などを強制することが ありました。今の時代で考えれば、人権侵害です。

シモンは、十字架をおわされました。 当時の人々にとって十字架は、ローマ帝国で犯罪人などを処刑するために 用いられた、残酷で屈辱的な刑罰でした。

そんな十字架を、人々が見ている中 で背負わされたのです。 シモンがどういう身分の人だったかわかりませんが、彼のプライドは、ずい ぶん傷つけられたのではないでしょうか。 

「私は犯罪人ではない。」「どうして私が、こんな恥ずかしいものを背負わなけ ればならないのか。」腹立たしく思ったかもしれません。

けれども、ローマの権力には逆らえません。シモンは十字架を担ぎました。 

イエスさまは、以前、弟子たちにこのように言われました。

「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架 を負うて、わたしに従ってきなさい。」(ルカ 9:23)


「自分を捨てる」―難しい言葉です。私たちにはプライドがあります。自分を守ろうとします。恥を恐れます。自分の考えや自分の立場をなかなか手放せません。

でも、そ れらを捨てて、イエスさまに従いなさい、ということなのでしょうか。

 創世記のはじめに出てくる、アダムとエバの長男カインのことを思い起こ します。(創世記4章)

彼は、自分の供え物が受け入れられず、弟アベルの供え物が受け入れ られた時、激しく怒って顔を伏せました。

彼は、プライドをひどく傷つけられ たのだと思います。弟は認められたのに、自分は認められなかった。

神さまはカインに、「なぜあなたは憤るのですか。なぜ顔を伏せるのですか」と語りかけ、顔を上げる道を示されました。

しかし、カインは自分の考え、自分の殻を破ることができませんでした。

彼の中で膨らんだ怒りは、ついには弟アベルへと向かいました。そして、聖書に記された最初の殺人を犯してしまったのです。

自分の正しさや傷ついたプライドにしがみつくと、怒りや憎しみから自由になれず、かえって自分の心を縛ってしまうことがあるのではないでしょうか。

イエスさまが「自分を捨てなさい」と言われたのは、自我と自分の考えにしがみついている私たちを、自由にすることなのだと思います。


 3.「イエスのあとから」―十字架の道を歩く


他の福音書(マタイもマルコ)も、シモンがイエスさまの十字架を負わされたことを記し ています。

しかしルカだけは、わざわざ「イエスのあとから」と記しました。

「十字架を負わせ、それをになって、イエスのあとから行かせた。」 

これは、ルカが伝えたイエスさまの言葉を思い起こさせます。 

「自分の十字架を負うてわたしについて来る者でなければ、わたしの弟子と なることはできない。」(ルカ 14:27)

イエスさまが群衆に語られたお言葉です。大勢の群衆の中から、シモンは「たまたま」十字架を無理やり負わされて、イエスさまのすぐあとを歩きまし た。

シモンは、ご自分では十字架を負って歩けないほどに弱られたイエスさまのうしろを、ゴルゴダの丘に向かって歩かされました。

イエスさまの、息遣いが聞こえていたと思います。 また、周囲からの嘲笑を聞き、嘆き悲しむ女たちへのイエスさまのお言葉も聞こえていたでしょう。

ゴルゴタに着いて、自分が背負ってきたその十字架に、イエスさまがつけられました。

シモンはそこで何を思ったのでしょう。聖書には書かれていません。しかし、シモンにとって忘れることのできない出来事になったのだと思います。

 マルコによる福音書は、彼を「アレキサンデルとルポスとの父シモン」と紹 介しています。詳しいことはわかりませんが、無理やり負わされた十字架、災難としか思えなかった出来事が、シモンとその家族にとってイエスさまと出会う道になったのかもしれません。


4.十字架を負う勇気―自由への道


信仰を持っていても、苦しみのない人生になるわけではありません。 

私たちにも、思いがけず十字架を負わせられることがあるかもしれません。

シモンに十字架を負わせたのは、人間の支配による力 でした。
それでも神さまは、その出来事さえ用いることがおできになります。

パウロは、こう語っています。

 「神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである」(Ⅰテ サロニケ 5:9)

 たとえ、十字架を負わされたとしても、その先には、主の復活があります。私たちが出会うのは、この復活されたキリストです。

そして、私たちが十字架を負って歩く時、その前にはすでにイエスさまがおられます。

十字架を負って主に従う道は、私たちを押しつぶす道ではありませ ん。
まことの命と自由へと導かれる、恵みの道です。

もし、無理やり十字架を負わされたとしても、そこには、私たちより先に十字架を負われたイエスさまが歩いておられます。

 十字架を背負い、イエスさまのあとから一歩を踏み出す勇気を、神さまから 与えていただきましょう。



【黙想・祈り】
愛の神さま。穏やかな日常が一変して、突然の苦しみ、不条理のただ中に置 かれることがあります。

それを、自分の十字架として受け止めることができ ますように。私たちの前を歩まれるイエスさまのお姿を見ることができます ように。

自分を捨てて、十字架を負うて歩む道が、私たちに自由と救いを与 える道であることを、深く知ることができますように。
イエスさまの御名によって祈ります。アーメン。


🪴おまけのふたことみこと

長いメッセージをお読みくださり、ありがとうございました。

「苦難」は、味わなくてすむのなら、味わいたくはありません。
「十字架」も、負わなくてすむなら負いたくはありません。

けれども、そうはいかないのが人生です。
何が起こるかわからない、今の時代です。

どんな重荷を負わされても、理不尽な十字架を負わされても、死からよみがえられたイエスさまが共におられることを信じて、その後ろを一歩ずつ歩んでいけたらと思います。

大雨の降る今朝、老ハイビスカスが、二輪花を咲かせていました

ちらりと見えていた朝日も、雨雲に覆われてしまいました。

「あなたがたには世で苦難がある。 しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネによる福音書16:33b)

イエスさまが、勇気と力をお与えくださいますように!🤗



🎈関連リンク
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🦖こちらは、牧師のプライベートブログです。
生きづらい時代に生きる私たちの希望をファンタジーで綴っています。
ホッとひと休みしたいときに、思い出してもらえたらうれしいです。

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