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文化資本への対抗方略とは?

昨今、体験格差が、バズワード化している。
体験によって、文化資本の蓄積、身体化に大きな差が生まれ、それが、人生における社会的地位向上を左右するからということらしい。
また、文化資本を巡って、どちらが上かという「闘争」も、暗黙に行われているということもある。

文化資本に基づく「闘争」に対する対抗方略として、「歴史を知れ」があり、これは納得できる。端的に言えば、これはフーコーが提唱した「脱構築」「知の考古学」によって、文化資本の価値が象徴的に受容されている状態を相対化するべしということになる。
要すれば、権威性のある文化も、その起源を知ってしまえば、「なあ~んだ」となって権威性が失われるということ。
その結果、その文化資本を「見上げる」必要のなポジションが作られ、その結果、新しい価値基準(すなわち「界」)が生み出されるということになる。

しかし、この序列化への対抗方略は、いわば複数の「界」を作ればよいといっているだけにも思えるかもしれず、2つの疑問が生まれてくるのも確かだ。

①そもそも、界は、どのように生み出せるのか?
②新しい界の中で、新しい序列化が生じるのでは?

「歴史を知る」ことで、新しい界がダイナミックに生成され、序列化が繰り返し無効化され、代替性が確保され、これにより暴力性を抑制するということになるのだが、その生成過程に対する解像度を上げること、そして、それが文化資本を巡る闘争を消滅させるのではないということには自覚的である必要があるのだろう。

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