現代日本におけるウィトゲンシュタイン受容と異なる二つの哲学の語り口
書店の哲学棚にて
現代日本の書店の哲学棚を眺めると、ある一人の哲学者が、対照的な二つの顔を持って立ち現れていることに気づかされる。ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインである。彼の入門書を複数、手に取れば、一方は精密な論理分析によって思考の霧を晴らそうとする明晰な語り口であり、もう一方は存在の深淵や世界の不思議を詩的に、あるいは挑発的に指し示す語り口である。この「一人の哲学者を巡る二つの語り口」の共存こそが、現代哲学の主要な対立軸である「分析哲学」と「新実在論(あるいは大陸哲学)」の断層を、最も鮮やかに映し出している。
ウィトゲンシュタインの2つの「語り口」
まず、分析哲学的なアプローチから見てみよう。古田徹也氏に代表されるような近年の読解において、ウィトゲンシュタインの言葉は、私たちが日常的に陥る論理的な混乱を解消するための「セラピー(治療)」として機能する。ここでは、言語は「世界を理解するための最も便利なモデル」と位置づけられるが、同時にそれは欠陥や限界を抱えた不完全な道具でもある。この語り口はきわめて「微視的」であり、言葉の定義を一つずつ点検し、どこまでが有効な「問い」であり、どこからが意味をなさない「空回り」かを画定する。これは、知性の「ブレーキ」としての哲学の在り方であり、誰が読んでも同じ論理的帰結に至ることを目指す、誠実な解剖学の文体である。
しかし、こうした精密な解剖図とは対照的な、もう一つの語り口がある。中村昇氏の著作に見られるような、ハイデガー的あるいは現象学的な響きを伴う読解である。ここでは言語の限界は「欠陥」として退けられるのではなく、むしろ「世界の深淵」や「語りえぬもの」への窓として開かれる。この語り口は、論理的な正解を提示することよりも、読者の世界の捉え方そのものを変容させる「一人称の深境」を重視する。こうしたドラマチックで挑発的な手つきは、マルクス・ガブリエルらが提唱する「新実在論」の文体と深く共鳴している。
ガブリエルらの新実在論は、分析哲学が言語という「檻」の中で論理パズルに熱中し、現実の豊かさを見失っているのではないかと批判する。彼らの語り口は、分析哲学が磨き上げた「集合論」や「述語論理」を武器として使いながらも、その視線は常に「言葉の外側」や「多様な意味の場」の実在へと向かう。「世界は存在しない」という彼らの宣言は、分析哲学的な厳密さを土台にしながら、かつてラッセルが「ポエム」と切り捨てた壮大な形而上学を、現代的な知性として再構築しようとする「冒険家」の文体である。
ウィトゲンシュタインの力量
こうして議論を一巡させると、なぜウィトゲンシュタインがこの二つの対立する潮流の源泉となり得るのかという、彼の哲学の持つ圧倒的な力量が浮かび上がる。彼は「論理」を極限まで突き詰めながら、それが「具体的な生の事実(生活様式)」の中でしか機能しないことを喝破した。境界線の内側を歩く分析哲学と、境界線の上に立ってその外側を展望しようとする新実在論。ウィトゲンシュタインは、その両者が依って立つ「境界線」そのものを描き出したのである。
かつて、彼は「言語的転回の始祖」として、分析哲学の父という狭い枠組みの中に安置されていた。しかし、現代の多様な語り口を通じた受容は、その歴史的位置づけを相対化しつつある。彼は単に言葉を整理した技術者ではなく、人間が言語という不完全なモデルを背負いながら、いかにして「存在」という驚きと出会い直すことができるかを問い続けた、現代哲学最大の「結節点」であった。
私たちは、思考が迷走しないための「杖」を分析哲学的な明晰さに求め、同時に、世界を新鮮な驚きで見つめるための「レンズ」を新実在論的な洞察に求めている。現代日本におけるウィトゲンシュタインを巡る二つの語り口は、私たちが「論理的な動物」であると同時に「意味を生きる動物」でもあるという、逃れがたい二重性を象徴している。この二つの川が混じり合う地点にこそ、現代を生きるための最も誠実な思考の在り方が隠されているのかもしれない。
