ショートショート 渇水の夜
蛇口を限界までひねっても、返ってくるのは「シュー」という、喉を詰まらせたような乾いた空気の音だけだった。
洗面器の底に、わずかに残った赤錆混じりの泥水がこびりついている。これで、三日目だった。
神戸内(ごうどうち)地区。山あいにへばりつくようにして広がるこの集落で、茂雄(しげお)は七十年、米を作ってきた。
異変が始まったのは、去年の春だ。
麓の広大な町有地に、コンクリートの巨大な要塞が建った。「最先端のデータセンター」とやらだった。
『これからはAIの時代です。雇用が生まれ、税収が増え、村は潤います』
役所の人間はそう言って頭を下げた。だが、潤ったのは村の財政ではなく、あの要塞の「喉」だった。
AIとやらを動かす計算機は、放っておけば焼き切れるほどの熱を持つという。それを冷やすため、山から流れる川の水が、一日何千トンもあの要塞へと吸い上げられていった。
最初は、誰も気に留めなかった。
だが、夏が来た。例年なら青々と波打つはずの田んぼは、またたく間に干からび、ひび割れた地肌が牙のように剥き出しになった。井戸を掘り下げても、乾いた砂しか上がらない。
「孫に飲ませる水もねえ。米も全滅だ。どうしてくれる!」
集落の衆で役所に怒鳴り込みもした。
しかし、応対した若い職員は、申し訳なさそうな顔で「あちらも規則に従って契約された水量を使用しておりまして……」と繰り返すだけだった。規則が、俺たちの命より重いというのか。
その夜、集会所に集まったのは、疲れ果てた三十人ほどの住民だった。
中央に立った元漁協の組合長、豊(ゆたか)が、無骨な手を握りしめ、地を這うような声で言った。
「……もう、堪忍袋の緒が切れた。おい、おめえら。道具を持て。あそこへ行くぞ」
誰も反対しなかった。ただ、めいめいが無言で頷き、持ってきた鍬やバールを強く握り直した。言葉は要らなかった。これは議論ではなく、生存の本能だった。
夜の闇の中、データセンターは不気味なほどの存在感を放っていた。
何百台もの換気扇が、ゴー、ゴー、と重低音を響かせている。まるで、村の血を吸って肥え太った巨大な怪物が、悠然と呼吸しているかのようだった。
「誰だ!」
フェンスの向こうで、若い警備員がライトを向けて声を荒らげた。だが、殺気立った三十人の老人たちが、無言でフェンスに手をかけるのを見て、男は恐怖に顔を引き攣らせ、乗ってきた軽自動車へと逃げ帰った。
「壊せ!」
誰かの叫び声を合図に、鉄網が引きちぎられた。
茂雄は夢中で鍬を振り下ろした。狙うのは、あの怪物の心臓へと繋がる、太い冷却水のパイプだ。何十年も田畑を耕してきた腕の力は、まだ衰えていない。
ガン、と金属の弾ける鈍い音が響き、亀裂から冷たい水が激しく噴き出した。
「水だ……!」
誰かが泣きそうな声をあげた。
配電盤が叩き割られ、高圧電流の火花が闇を裂いた。要塞の窓から漏れていた無機質な青い光が、ひとつ、またひとつと、生き絶えるように消えていく。あれほど耳障りだった換気扇の唸りが、ぴたりと止み、山に本当の夜の静寂が戻ってきた。
翌朝。
居間の古いラジオは、麓の街から「データセンターが暴徒に襲撃され、機能停止。深刻なテロ行為」と非難がましいニュースを流し続けていた。じきに警察が来るだろう。逮捕されるかもしれない。
だが、茂雄は静かだった。
縁側に出て、久しぶりに聞こえる「ちょろちょろ」というかすかな音に耳を澄ませる。涸れ果てていた庭の古井戸の底に、わずかだが、泥の混じっていない濁りのない水が戻ってきていた。
隣の田んぼでは、トメ婆さんが一人、ひび割れた土の上に立ち、どんよりとした曇り空を見上げていた。
「雨が降るまで……これでなんとか、繋げるかねぇ」
山を吹き抜ける風が、焦げたプラスチックの匂いを運んでくる。
それは、人間が人間らしく生きるために、なにか別の怪物を焼き殺した匂いだった。
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