他人の目を気にしないって、できます?
「他人の目なんか気にするな」
この言葉に、何度も出会ってきました。
SNSでも、本でも、誰かのアドバイスでも。
気にしなければ自由になれる、生きやすくなると
でも、ふと、だれでも
「何者かになりたい」、と思うことがあります。
出世したい
賞を取りたい
認められたい
これ全部「人の目」で決まることじゃないですか
出世は、上司や会社からの評価
賞は、審査員や読者の評価
認められるというのは、そもそも誰かに認められること
私はそもそも
「人の目を気にするな」を否定はしていません。
人の目を気にしたほうが生きやすくないですか。
というお話です。
「他人の目なんて気にするな」と言われると、
なぜか思考が止まる感覚があるんです。
本当はもっと複雑な話のはずなのに、
「気にするな」の一言で、
その複雑さごと、片付けられてしまう
ふと気づいたことがあります。
「気にするな」じゃなくて、
「誰の目を気にするか」の話なんじゃないかです。
(仮説)
不特定多数の目を気にするのは、
ただ自分を消耗させるだけ。
でも、自分が尊敬する人や、
目指している「何者か」の目を気にするのは、違う。
その人ならどう思うか。
その人に見せて恥ずかしくないか
それは呪いじゃなくて、羅針盤です。
そこまで考えて、もう一つ気づいたのですが
その「尊敬する人」も、
最初から自分の中にあったわけじゃない。
誰かが先に見つけて、発信していたから、
自分はその存在を知ることができた。
例えば絵画が好きなのも、
誰かが先に絵画を見ていたから。
理想像も、好きなものも、
全部「人の目」を経由して、
自分の中に入ってきている。
完全に「人の目」から自由になることは、
構造的に無理だと考えます。
それでも
「誰の目を気にするか」を選ぶことには、意味があります。
たまに嫌いな人や、嫌な人の目を気にしたくないのに
入ってきてしまう状況はどうしてもあると思います。
でも人生、明日生きてる保証もないので、
人のせいにしてる時間すらも惜しい
自分の目の前の人生に集中するだけです
…すみません、もう少し具体的な言語化にしたいのですが
結局マインドセットの話になってしまいます
いつか深掘りします
すべてが人の目経由だとしても、
その中から自分で選び取るという行為が、
呪いを羅針盤に変える
人の目なんて気にするな、なんて無理です
誰の目を気にするかは、選んでいいです。
ただ、選んだ人はあなたの人生の連帯保証人ではありません
感情の解像度を上げる文章を、週に1〜2本書いています。
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