サムライフル #ショートショート
約2800字・ショートショート
(サッカーとはなんの関係もありません)
その年の夏は、街が丸ごと一つの巨大なオーブンに放り込まれたかのような、絶望的な猛暑だった。
朝の六時で、すでに気温は三十度を超えている。アスファルトから立ち昇る陽炎のせいで、遠くの高層ビルは水底の景色のようによじれていた。焦げ臭い街の匂いと、耳鳴りのように響くアブラゼミの声が、脳の奥底にまでべっとりとへばりついて離れない。
電力を酷使された我が家のエアコンが、カコンと間の抜けた音を立てて沈黙したのは、八月の初旬だった。
修理業者は一週間待ち。
サウナと化したワンルームの部屋で、僕は生ぬるい麦茶を喉に流し込んだが、干からびるような恐怖に襲われ、藁にもすがる思いで隣室のインターホンを押した。
隣人の内海さんは、白髪を綺麗に撫整えた、背筋の伸びた七十代の老人だ。
「……はい」
「あの、隣の者ですが。エアコンが壊れてしまい、少しの間だけ涼ませていただけないでしょうか」
ドアが開いた瞬間、僕の羞恥心は驚きへと変わった。部屋の奥から、冷凍庫を開けたときのような、身を切るほどの強烈な冷気が流れ出してきたのだ。
「ああ、それは大変だ。どうぞ、中へ」
招き入れられた部屋は異様だった。
窓には分厚い断熱シートが何重にも貼られ、外の光を遮っている。そして部屋の中央には、見慣れない巨大な機材が鎮座していた。
それは銃身の長いライフルの形をしていたが、そのすべてが透明な「氷」でできていた。表面から白い冷気を立ち昇らせている。
「……内海さん、これは?」
寒さに震える僕に、内海さんは熱いほうじ茶を差し出し、悪戯っぽく笑った。
「私の仕事道具です。寒いライフルでサムライフルと呼んでいます。これで、街の『夏の熱』を射抜いているんですよ」
「熱を、撃つ?」
「ええ。夜な夜な、ここから外を狙って、街に溜まった熱の塊を撃ち抜くんです。まあ、焼石に水ですがね」
その夜、僕は内海さんの狙撃に立ち会うことになった。
深夜二時。外は依然として熱帯夜だ。内海さんはベランダにライフルを据え、スコープを覗き込んだ。
「あそこの交差点、アスファルトが熱を溜め込んで、ひどく淀んでいるでしょう」
言われて目を凝らすと、街灯に照らされた空間が不自然に揺らいでいた。
内海さんが、氷の引き金を引く。
銃声はなかった。ただ、シュアッと炭酸水が弾けるような微かな音が響いた直後、交差点の上の空間で、見えないガラスがパチンと砕け散った。
次の瞬間、陽炎が嘘のように消え去った。
涼しい。それは、エアコンの風ではない。秋の夜長に吹くような、澄み切った清らかな風だった。
それ以来、僕は内海さんの助手になった。
日中、街を歩いて熱気が溜まっている場所を記録し、夜、内海さんに報告する。
「今日は、公園の滑り台の熱がひどかったです」
「なるほど。では、今夜の第一目標はそこにしましょう」
ベランダからサムライフルが音もなく熱を撃ち抜くたび、街のあちこちに小さな「涼しいオアシス」が生まれた。
SNSでも『#謎のオアシス』という噂が流れた。
翌朝、公園で子どもたちが「ここだけ涼しい!」とはしゃぐ姿を遠くから見つめるとき、僕たちの間には誇らしい絆が生まれていた。
しかし、その奇妙な儀式の代償は、静かに内海さんを蝕んでいた。
ある夜、狙撃を終えた内海さんが激しく咳き込んだ。口元を押さえたハンカチには白い霜が付着し、引き金を引いた右手の人差し指は凍傷のように白く強張っている。
「内海さん、もうやめましょう。その体……」
「大丈夫です……もう少しだけ、この熱を放っておけない」
「ひょっとして、サムライフルは……」
「……ええ。ご想像の通りです」
内海さんは静かに目を伏せ、ぽつりと言った。
「この装置は、熱を相殺するために、撃ち手の生命力を引き換えにするんです。数年前の猛暑の日、妻をこの部屋で熱中症で亡くしました。もっと早く気づいていればという後悔が、今も消えない。だからせめて、この身がどうなっても、誰かに涼しい風を残したいんですよ」
それは、老人の悲しい後悔と執念であり、世界に対する優しすぎる反逆だった。
運命の八月二十日。
気象庁が観測史上最悪の熱波を警告した日、街は早朝から四十度に迫る熱に包まれた。
その日の夕方、内海さんは部屋で倒れた。
救急車が到着するまでの間、内海さんは僕の手を握ったて、うわ言のように繰り返した。
「……あと一発だけ、力が残っています……。今日みたいな夜は、一番高い空の、熱の渦を撃たなければ……街が、壊れてしまう……」
内海さんが運び出された後、僕は一人、極寒の部屋に残された。
ライフルの中心では、彼の最後の命のような青白い光が脈打っている。
夜八時。街は断末魔の悲鳴を上げるように熱せられていた。僕は決意を固め、重いサムライフルをベランダに運び出した。
スコープを覗き込み、空の熱の渦を探す。あそこを撃てば、街全体の気温が下がるかもしれない。
しかし、僕は視線を下へと向けた。
そこには、駅前の巨大な広場があった。
逃げ場のない熱波の中で家路を急ぐ人々、ぐったりと座り込む会社員、泣き止まない赤ん坊をあやす母親。
内海さんが本当に救いたかったのは、気象データではなく、今ここで苦しんでいるこの人たちではないのか。
「……内海さん。ごめんなさい、僕は命令違反をします」
照準を、空から駅前広場へとゆっくり下ろした。
全身の力が吸い込まれていく。構わない。僕は冷え切った引き金を引き絞った。
パキィィィィィン!!
硬質な破裂音が夜空に響き、サムライフルが粉々に砕け散った。
その瞬間、広場の上空で巨大な氷の結晶が弾け、きらきらと輝くダイヤモンドダストとなって、人々の頭上へと雪のように降り注いだ。
暴力的な熱が、嘘のように消し飛ぶ。
人々が一斉に足を止め、空を見上げた。
彼らの頬を、真夏とは思えないほどの優しく清らかな冷風が撫でていく。
翌日、嘘のように熱波は去り、季節は少し早く秋の気配を漂わせ始めていた。
一命を取り留めた内海さんは、いつもの穏やかな隣人に戻っていた。
彼の目からあの少年の執念は消え、長い旅を終えたような安堵の色が浮かんでいた。
「サムライフルは、壊れてしまいました」
僕が言うと、内海さんは窓の外の青空を見つめたまま頷いた。
「ええ。あなたのおかげで、私はようやく、この世界に触れることができた気がします」
彼は、僕がどこを撃ったのか、すべてわかっていた。
窓から吹き込む風が、白いカーテンを優しく揺らした。
僕は冷たい麦茶のペットボトルを手渡し、ふと、当たり前の言葉を口にした。
「……今日も、少し暑いですね」
内海さんは表面の水滴を指先で拭いながら、目を細めて笑った。
「ええ。でも、とてもいい風が吹いていますよ」
熱を斬る侍はもういない。
けれど、この街の片隅には彼が残した秘密の涼しさが、今日も誰かの頬をそっと撫でている。

プロンプトお借りしました。
