汐風通り👒
その年の夏も、異常な暑さが続いていた。
古都といえば風流な情緒が漂うけれど、秀行が下宿していた田舎家は、最近またエコで注目を集めている京町家でも洛中でもない。
町外れの、築五十年にもなろうかという木造家屋で、当然のように屋根裏には断熱材など貼られていなかった。
古い冷房専用エアコンはあるにはあったが、それがもし故障でもしたら、ビニールハウスどころかたちまちサウナ風呂になるだろう。そうでなくても、扇風機ぐらいじゃ酷暑に太刀打ちできないから、下宿に居るときは昼間はどこかに避難したくなる。
といってコンビニや喫茶店じゃ長居出来ないし、ファミレスや図書館も近くにはない。
そんなとき、珍しく従姉妹の瑞穂からのメッセージがあった。
「それやったら、夏休みのあいだ、うちに泊まったら?」
「おばさんに怒られないか?」
「話しとくから大丈夫。ちょうどタツヤは合宿でおらへんから、弟の部屋使うたらええやん」
卒論の下書きを何とか書ける、天気や気温に振り回されない部屋があればどこでも良かったのだが、風通しのいい海沿いの宿にでも泊まろうかと思っていたから、貧乏性の秀行には渡りに船だった。
何冊かの本やタブレット、着替えにタオル、水筒とバッテリーをリュックに詰め込んで、彼は下宿を出た。
須磨の駅についたとたん、磯の匂いがした。
久しぶりの海だったから、浜の照り返しが暑いけれど、海原を眺めているだけで楽しい。
広い海面は、太陽に向かってさらに輝きを増していた。
はるか沖をタンカー船が流れてゆく。
整備された砂浜の端で、3、4人の子供たちが、浜釣りや潮だまりの生き物観察みたいな遊びに興じていた。
「なにが釣れるの?」
帽子を抑えながら遠くから尋ねてみても、声は潮風に吹き流されてしまう。
「メバルとカニ」
男の子の高い声がなんとか聞こえた。返事がわりに腕を高く上げたら、その子も真似して手を上げてくれた。見知らぬ者同士の交流がちょっと愉しい。メッセージを打つとすぐ、浜の方まで瑞穂が自転車で迎えに来てくれた。
「やぁ、久しぶり」
「ははっ、秀ちゃん変わってへんなぁ」
ポップな柄のTシャツにショートパンツ姿の瑞穂は、相変わらずハコフグみたいな顔つきだった。ひょっとこのお面みたいに、すぼめた口元をつきだしてるのが愛嬌があって可愛い。その唇が、以前よりもずっと艶やかで綺麗に見えた。リップでも変えたんだろうか、と秀行は思った。
須磨はいつも、路地裏まで潮風が吹き抜けているような街だった。
街のシンボルでもある須磨寺は、海岸からほど近い場所にある。
ゆっくり歩いて20分、自転車で5分ぐらいだろうか。
レトロな風情が残る商店街も味わい深い。
須磨寺の近くに、生花店を営む瑞穂の家はあった。
「あっ!あの二階のカベ」
「アハハ、覚えてた?」
「ああ、だって僕が塗ったからな」
「ラッセン気分でね」
瑞穂の部屋の外壁には、秀行が数年前に描いた魚やら貝殻がまだ鮮やかだった。コンクリートのヒビをパテで修復していたら、瑞穂がリクエストしたやつだ。裏の倉庫に通じる路地に面しているから、表通りからは見えない。
「お母ちゃん!きたでー!」
「あら、秀ちゃん早かったねぇ」
「どうも、お久しぶりです」
帽子を取って挨拶すると、色白の瑞穂とは対照的に、小麦色に日焼けしたおばさんがパタパタと動くたびに、磯の香りがほのかに漂ってきた。
「晩ごはんまでにまだあるから、二階に荷物おいて、シャワーしてから昼寝でもしたら」
「はい、すいません」
「あ、トイレの場所わかる?」
「うん、覚えてるよ」
大した移動じゃないけれど、旅の疲れもあって、タツヤ君のベッドを借りて横になったら、すぐ寝入ってしまった。
「秀ちゃん!ごはんやでー」
階段の下から瑞穂が呼ぶ声で目覚めた。
一瞬、いつもの下宿部屋じゃない見知らぬ部屋だったから、まだ夢を見ているような気がした。
窓辺はすっかり日が暮れていた。
「ウチはいつも、磯のもんばっかしだよ」
リビングに降りると、そう言っておばさんは笑った。
「たまにはカレーとかスキヤキ食べたいなぁー」
ソファーに寝転がってテレビを見ていた瑞穂がつぶやく。
「食べたら、夜店いっといで」
「夜店?」
「きょうは近くの神社でお祭りあってね、通りに金魚すくいやら並んでるだけなんやけど」
「クレープ食べたい!ウチも行くー!」
燈点し頃の海沿い街は、日が暮れても潮の香りがした。
ずっと風が吹いているせいか、さほど蒸し暑さは感じなかった。
ふだんは近所で盆踊りなどがあっても、いつも夏らしいな、と思うだけで滅多に見に行かない秀行だが、ちょっと観光客のような感覚でいると、この街の夏祭りも見物してみよう、と思ったりするから不思議なものだ。
祭り囃子に混じって歌声が聴こえる。歌謡ショーでもやっているんだろうか。
「たまに落語とか漫才もあるんよ」
「へぇ」
「あっ!はしまき見っけ!」
おばさんが言ってたように、通りの片側には夜店の屋台が軒を連ねていた。よくある店いがいには、うなぎ釣りや古本屋、スイカ売りが秀行には珍しかった。
「関東炊きって?」
「ああ、あれはおでんやな」
「おでん?暑いのに?」
「うん、スジ肉とかイケてんで」
そう言って瑞穂は、はしまきのはしをわけてくれた。
神社の境内に入ると、賑わいも高まってきた。
「なあ、むかしの盆踊りってエッチなイベントやったって知ってた?」
「へぇ、そうなのか」
「雑魚寝は一夜の枕物なんやって」
「誰に聞いたんだ」
「チャッピー」
「なーんだ」
裸電球に照らされて、短パンからスラリと伸びた瑞穂の足が、やけにキレイに見えた。
「このへん、銭湯あったかな?」
「あるよ。なんで?ウチで入ったらええやん」
「うん、なんか風呂屋に行きたいんだよ」
「ほな、アタシのチャリ貸したげるわ」
「いいよ、歩くから」
「けっこうあるから、歩いとったら、また汗かくで」
屋台の灯りが金魚すくいの水面を揺らし、ソースの焦げる甘辛い匂いが夜気に混ざり合っている。
人混みをかき分けて歩いていた時、ふと、境内の奥にある風鈴棚の前で眼が止まった。
腰を深く曲げ、銀色の髪をひっつめに束ねた、おばあちゃんがいた。
彼女は秀行の視線に気づくと、皺の寄った目元を和ませて小さく手を振った。
なぜ、知り合いでもない自分に手を振るんだろう、と秀行は思った。
カラカラと響かせる風鈴棚を見上げながら、おばあちゃんは言った。
「この風鈴、来年も鳴るやろか」
秀行は言葉に詰まりながら、
「鳴りますよ、きっと」
とだけ答えた。
おばあちゃんは嬉しそうに頷くと、ゆっくりと去っていった。
瑞穂に教えてもらった銭湯は、意外と大きかった。
カコーン、カコーン、と女湯からの桶の音が天井に響く。
シャワーの湯で背中を流している間も、さっきのおばあちゃんが気になっていた。
「スコールひとつ」
「150えん」
風呂あがりに脱衣場の椅子に座って、涼みながらジュースを呷る。
この下町感がたまらない。
番台の上に掛かった柱時計は、もう百年も時を刻んでいそうだった。
部屋に戻って扇風機で涼みながら、秀行はスマホの画面をスクロールしていた。
それは、彼が世話になっているブログサービスの記事に、誰かが投稿したモノクロ写真だった。
タイトルには『昭和三十八年 須磨寺町内納涼大会』と添えられている。
写っていたのは、濃い藍色の浴衣を着た少女。
風鈴の棚の脇で、ふり返りざま、少し照れたように笑っている。
画質は荒いけれど、少女の着ている浴衣の色や、頬の赤みまでが見えてくるようだった。
秀行はしばらくの間、その写真から目を離すことができなかった。
胸の奥が、わけもなく静かに波立つ。
翌日。
午前中ずっと書き物をしていたせいで、眼が疲れて肩が凝ってきた。
おばさんが作ってくれた具沢山の冷やし中華を平らげてから、少し昼寝した。
夕方になって、顔を洗ってから瑞穂の自転車を借りて、秀行は気まぐれに海岸沿いを走ってみた。
昼間の猛暑も一息ついて、おだやかな潮風が頬に心地いい。
子供の頃に何度か行った、海釣り公園がなつかしい。
取って付けたようなヤシの木が風に揺れている。
海の家もけっこう賑わってるかな、と思いながら帰りかけたが、誰かの視線に気づいて立ち止まった。
道を挟んで海岸沿いのガードレールのわきに、あの写真の少女が立っていた。
藍色の浴衣、小さな帯、そして少し照れたような笑い方。
(写真と同じだ……)
夕映えの空が逆光になって、顔は影になっているけれど、昨夜みた少女に違いなかった。
盆踊りの写真が脳裡に再生される。
秀行は吸い寄せられるように歩み寄り、声をかけようとした。
だが、あと数歩というところで車に邪魔された。
つぎの瞬間には、もう少女は消えていた。
あの子は、昨夜のおばあちゃんの子供の頃のスナップだ、と直感的にわかっていた。でも、なぜ自分の前に現れたんだろう。
帰って部屋でスマホを開いたとき、秀行のアカウントにコメントが届いていた。
『昨日は、ありがとね』
それだけだった。
プロフィール画像を見てわかった。
差出人は、あのおばあちゃんだ。
孫が設定してあげたのだろうか?
それとも──。
瑞穂の家に厄介になって、一週間はあっという間だった。
お陰で卒論はだいぶ捗った。
そろそろタツヤ君が合宿から戻ってくるらしいから、秀行は下宿に帰ることにした。
リュックに荷物や着替えをまとめていると、瑞穂が部屋にやって来た。
「もう帰るん」
「うん、でもだいぶ書けたよ。サカナも旨かったし」
「はい、これ」
「なに?」
「お母ちゃんから」
「お守りか.…..」
「ちゃんと卒業できますようにって」
須磨寺の御守りをリュックにくくりつけて、外に出た。
「駅まで送っていこか?」
「いいよ。ちょっとお寺寄ってくから」
「なに、またお大師さんで御守り買うの?」
「いや、ちょっとな」
「ほな、気いつけて。あ、帰ったらいちおうラインしてな」
「ああ、おばさんによろしく」
「うん、ほな!」
須磨寺の境内は、平日のせいか閑散としていた。
馬に跨がった武者の像が見えた。
朱塗りの三重塔が緑に映えていた。
蝉時雨のなか、あのおばあちゃんの姿を思い浮かべながら、秀行は静かに手を合わせた。
もう一晩泊まれば、またあの少女に会えただろうか、と取り留めないことを思いながら、秀行は海風の街を後にした。🚉🍃

