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健康支援課主任のマシロさん|好きな相手ほど、意地を張る話

Project MOON No.08-3

人間は、
嫌いな相手より、
好きな相手に意地を張る。


健康支援課の定例会議は、
毎週火曜日の午前十時から始まる。

白い蛍光灯に照らされた会議室には、
長机が四角く並び、
二十人ほどの職員が資料をめくっていた。

窓の外では、
真夏の日差しが
市役所前の
アスファルトを白く照らしている。

エアコンの低い音と、
紙をめくる乾いた音。

その日も、
いつも通りの会議になるはずだった。


「次、予防接種の周知についてです」

課長が資料を一枚めくったとき、
若い職員が顔を上げた。

少し迷うように指先でペンを転がしてから、
右手を挙げる。

「これ、対象者への案内方法、
少し見直した方がよくないですか?」

悪い質問ではなかった。

むしろ、
普段なら誰かが顔を上げ、

「それ、どういう意味?」

と続いていく類いのものだった。

だが、その日は議題が多かった。

課長は壁の時計へ一度目をやり、
手元の資料へ視線を戻した。

「うん。それはまた後で整理しようか」

そう言って、
次のページをめくった。

誰も続かなかった。

数秒だけ、
会議室に妙な隙間ができた。

若い職員は、
ゆっくり手を下ろした。

「……わかりました」

視線を落とし、
資料の端を親指で二度なぞった。

それだけだった。

向かい側に座っていたマシロさんは、
その仕草を見ていた。

椅子に浅く腰掛け、
ボールペンを指先で回しながら、
いつものように
口元には微笑みを浮かべている。

何も言わなかった。

翌週。

同じ会議室。
同じ長机。
同じ蛍光灯。

けれど、
一つだけ違うものがあった。

「何か意見ある人?」

課長が周囲を見回した。

例の職員は、
いつもなら真っ先に顔を上げる。

細かいところによく気がつき、
少し面倒なくらい、
何でも疑問にする男だった。

だがその日は、
資料から目を離さないまま言った。

「特にありません」

その次の会議も、

「ありません」

さらに次も、

「大丈夫です」

本当に大丈夫な人は、
三回連続で「大丈夫」とは言わない。

マシロさんはそう思った。

しかし、
もちろん口には出さない。

ただ、
そのたびに一瞬だけ、
ぴくっと眉を上げた。

人間というものは面白い。

口を閉じると、
今度は身体がしゃべり始める。

昼休み。

休憩室には、
電子レンジの終了音と、
給湯器から湯の落ちる音が静かに響いていた。

例の職員は窓際の席で、
コンビニのおにぎりを食べている。

スマートフォンを見ているようで、
画面はほとんど動いていない。

そこへ、
普段よく議論を交わしていた
年上の職員が入ってきた。

扉が開く。

若い職員の目だけが、
一瞬そちらへ動いた。

年上の職員も、
ほんの少し足を止めた。

目が合う。

「……」

「……」

次の瞬間、
若い職員は急に椅子を引いた。

「コーヒー買ってきます」

手元には、
まだ半分以上残ったコーヒーがあった。

年上の職員は、
その紙コップをちらりと見た。

それから、
立ち去る彼の背中へ目を向ける。

何も言わず、
小さく「ふう」と息を吐いた。

五分後。

廊下の自動販売機の前で、
若い職員はまだ立っていた。

ブラックか。
微糖か。
カフェラテか。

ボタンの前を、
人差し指が行ったり来たりしている。

どう考えても、
五分悩む問題ではない。

そこへ、
ネクタイを少し緩めた
マシロさんが歩いてきた。

若い職員の横で足を止める。

「長いね」

「何がですか?」

「コーヒー選び」

「別に迷ってないです」

「そっか」

マシロさんは、
少し微笑んで
そのまま歩いていった。

若い職員は、
その背中を睨んだ。

そして結局、
いつもと同じブラックを買った。

翌週の会議。

窓の外では、
積乱雲が
市役所の向こうに大きく膨らんでいた。

感染症対策について、
新しい運用案が議題に上がった。

課長が説明を終えると、
会議室の空気が止まった。

保健師との役割分担。
市民への周知。
現場の人員配置。

どこから触っても、
別の問題が出てくる。
何人かが資料を見ながら眉を寄せた。

マシロさんは椅子の背にもたれ、
しばらく黙っていた。

それから資料を一枚持ち上げる。

「これさ」
若い職員を見る。
「前にきみが言ってた話と近くないか?」

若い職員の目が、
初めて資料から離れた。

一拍置いて、

「……まあ、近いですかね」

その瞬間だった。
年上の職員が、
腕を組んだまま口を開いた。

「でも、あの案だと現場が回らないよ」

若い職員の眉が、
ぴくりと動いた。
顔ごとそちらを向く。

「いや、回らないんじゃなくて、
回し方の問題ですよ」

「いやいや、それ前も言ったけどさ」

「だから、その前から違うって言ってるんです」

二人の身体が、
少しずつ机の中央へ寄っていった。

「だったら、この場合どうするの?」

「こうです」

若い職員が、
資料にペンを走らせる。

「それじゃ保健師側が困るだろ」
年上の職員も身を乗り出す。

「だから、ここを分けるんですって」

「それだと二度手間になるじゃん」

「なりませんって」

「なるよ」

「なりません」

気づけば、
二人だけで話していた。

課長は一度口を開きかけ、
やめた。
周囲の職員たちも、
互いに目を合わせながら黙っている。

五分。
十分。

二人は資料に線を引き、
互いの案を否定し、
書き直し、
また否定した。

そしていつの間にか、
どちらも少し笑っていた。

会議が終わった。

椅子が引かれ、
職員たちが資料を抱えて部屋を出ていく。

それでも、
二人だけは席を立たなかった。

「だから、そこ違いますって」

「お前も頑固だなあ」

「そっちでしょう」

「いや、お前だよ」

また始まった。

さっきまで、
何週間もまともに話していなかった
二人とは思えない。

資料を指さし、
相手の言葉にかぶせるように反論し、
そのたびに少しずつ声が大きくなる。

マシロさんは、
扉へ向かいながら二人の横を通った。

一度だけ足を止める。

「仲いいね」

二人が同時に顔を上げた。

「よくないです」
「よくないですよ」

声まできれいに重なった。

マシロさんは吹き出した。

「はいはい」

そう言って、
そのまま会議室を出ていった。

廊下に出ると、
扉の向こうから
また二人の声が聞こえてきた。

「だから違うって」

「いや、そこはお前が――」

マシロさんは、
ネクタイを少し直しながら歩いた。

人は、
本当にどうでもいい相手には、
こんなに腹を立てない。


言いたいことがある。
聞いてほしいことがある。
返してほしい言葉がある。

それがうまく届かないと、
人はときどき、
黙るという方法で相手に話しかける。

けれど、
きっかけがひとつあれば、
また始まる。

議論も。
軽口も。
くだらない言い合いも。

結局この二人は、
仲直りがしたかったわけではない。

ただ、
また普通に話したかっただけなのだ。

会議室の中から、
また笑い声が聞こえた。

マシロさんは振り返らず、
小さく笑った。

健康支援課は、
今日もだいたい平和だった。



🌙観測note

この作品に登場したもの
ブラックコーヒー


▶︎彼が5分悩んだ末に選んだブラックコーヒー
人間関係には迷っても、
結局コーヒーはいつものやつに戻ります。

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