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小公女セーラの“空想”について、40年越しに思う

子どもの頃、日曜日の夜7時30分から『小公女セーラ』というアニメを放送していたことがあって、毎週テレビの前に鎮座して見ていた。

鉱山王の娘で「ダイヤモンドプリンセス」と呼ばれていたセーラだったが、ロンドンの女子寄宿学校に入学後、父親が亡くなり身寄りを失うと、使用人としてこき使われ、暗く寒い屋根裏部屋で暮らすことになるという物語。

時代は1880年代。
つまり放映していた時期からちょうど100年くらい前の物語だったみたい。

主題歌、今でも歌える(笑)

わたしのむねの かたすみにさいてる
ちいさなはなに なまえはないけど
かなしいときは あかいはなびらいちまい
めがしらに あてるの
するとなみだが きえてゆく

オープニングテーマ『花のささやき』

ミンチン先生やいじわるな同級生からセーラが理不尽に虐げられるシーンは、あまりにも非情で見るに堪えないものがあった。

そんな時セーラは、空想をして自分を保っていた。
「私は王女」と口にし、豪華絢爛なお城で大好きな人たちとパーティーを楽しむ情景などを空想した。
何を食べたか、自分がどんなドレスを着ていたか、誰とどんな会話を楽しんだかまで、具体的に空想するセーラ。

でもそれも、突然やってくるミンチン砲(ミンチン先生の嫌がらせ)にかき消されて現実に引き戻されたりする。

私はセーラの空想の意味が分からなかった記憶がある。
そんな、過去の栄光にすがるような現実逃避をしても、現実が変わるわけでもないのに、虚しさが増すだけなのでは?と。
子ども向けのアニメでこんな「トランスのすすめ」みたいなことしてもいいの?くらいに思っていた10歳のダリコ、おそろしや。

しかしそこはやはり10歳の解釈だった。

今なら分かる、セーラの空想の意味。

セーラは現実逃避をしていたのではない。
おそらく空想によって自分の尊厳を守っていた。
「王女としての自分」を具体的に想像することで、「私は王女だからどんな状況でも気高さを忘れない」という精神の支えを確かめていたのだと思う。

そしてこのセーラのセルフイメージは、「品位を保つ」「誰にでも優しく接する」「どんな時でも希望を持つ」という、セーラの現実の行動につながっている。
現実逃避とは正反対の、現実を生きる力を空想から得ていたんだと気付いた50歳のダリコだ。

主題歌がすべてを物語っている。

わたしだって なこうとおもったら
こえをあげて いつでもなけるけど
むねのおくに このはなあるかぎり
つよくいきて みようとおもう

オープニングテーマ『花のささやき』

これって心理学的にも深い物語だったんじゃないかな。

セーラは最後まで気高さを忘れなかった。
そして最後は亡くなった父親の親友(←大金持ち)がセーラを見つけ出して引き取り、セーラは王女に返り咲いた。

セーラに限らず、人は誰しも健全な内的世界を持っている。
内なる自己、内なる風景、内なる対話。
私がこういうことをうーむと考えているのも内的世界の営みだ。
前回の記事で想像力についてあれこれ思いを馳せていたら、セーラのことを思い出したのだ(笑)

50歳を迎えて、内的世界に変化を感じている今日この頃。
今まではどちらかというとセーラと同じで、セルフイメージの構築やそれを守るための場所だったように思う。

最近は、とにかく「整える場所」
責任・役割・感情・思考…
いつの間にかごちゃごちゃいろいろ背負ってしまったものを、一旦下ろして整理して、セルフケアをする場所になっている。
今の私にとっては、何者でもなくていい自分に戻る世界。

わかる人、いるかな…


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