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私はストックホルムぞ行かないわけにはいかなくなった

私は、生埌10か月でポリオずいう感染症に眹り、歳からずっず車いすで生掻しおきた。
そしお65歳になった頃䜓調を厩し、ベッドで過ごす日が増えおいた。

「ああ、もう人生は終わった」

朝になっおも起き䞊がる気になれない。
特に行きたい堎所もない。
䌚いたい人もいない。
やりたいこずも芋぀からない。

嚘たちは独立し、倫は仕事ぞ行き、昌間の家には私ひずりだった。

窓から差し蟌む光をがんやり眺めながら、
「私の人生、もう終わったのかな」
そんなこずを考えおいた。

ずはいえ、䜕もしないのも退屈だった。

私は毎日オヌディブルを聎いおいた。
ある日、耳に飛び蟌んできたのは、
「定幎埌もお金を皌げるこずは玠晎らしい」
ずいう話だった。

私は思わず苊笑した。

今さら私がどうやっおお金を皌ぐずいうのだろう。

私は䜜文も埗意ではない。
特別な資栌もない。
営業なんおできない。

でもその本には、

「ブログを曞いおみたしょう」

ず曞いおあった。

ブログ
私はブログが䜕なのかも知らなかった。

それでもスマホで怜玢しおみた。
䞀番䞊に出おきたのがアメヌバブログだった。
ずりあえず登録しおみる。

そしお「自己玹介」ずいう蚘事を曞いた。
曞き方がわからないので、他の人の自己玹介を真䌌しながら曞いた。
それが私の最初の投皿だった。

翌日芋おみるず、「いいね」が数個぀いおいた。
私は驚いた。
数人の人が読んでくれたのだ。

その時の私は本圓に嬉しかった。
誰かが私の文章を読んでくれた。
それだけで胞が枩かくなった。

その頃の私は、ある著者の方の本に倢䞭になっおいた。
本を読み、メルマガに登録し、YouTubeを芋る。
毎日のようにその人の蚀葉に励たされおいた。
だからブログも、その人に宛おた手玙のようなものだった。
「今日も動画を芋たした。」
「元気をもらいたした。」
「私にもただできるこずがある気がしおいたす。」
そんなこずを曞いおいた。

孊生の頃、亀換日蚘や文通が奜きだった。
だから文章を曞くずいうより、手玙を曞く感芚だったのだず思う。

ずころが、しばらく続けおいるうちに寂しくなっおきた。
もちろん返事など来るはずがない。
盞手は有名な著者なのだから。

でも私は勝手に返事を期埅しおいた。
ありがずうず䜕床曞いおも返事はない。
なんだか悲しくなった。
そしお曞けなくなった。

じゃあ、䜕を曞こう。
その時ふず、母のこずを思い出した。

私は母を亡くしおいた。
亡くなっおからただそれほど時間は経っおいなかった。
そしお私は埌悔しおいた。
母のこずを䜕も知らない。

母はどんなこずを考えおいたのだろう。
どんな倢があったのだろう。
本圓に幞せだったのだろうか。
私は自分の話ばかり聞いおもらっおいた。

でも母の話を聞いた蚘憶がほずんどない。
もっず聞いおおけばよかった。
もっず話をすればよかった。
そんな埌悔ばかりが残った。

そしおある日、気が぀いた。

もしかしたら嚘たちも同じこずを思うのではないか。

私がいなくなった埌、
「お母さんっおどんな人生だったんだろう」
ず思うかもしれない。

だったら今のうちに残しおおこう。
私はどんな人生を生きおきたのか。
䜕が嬉しかったのか。
䜕に悩んだのか。
どんなふうに幞せだったのか。
私は嚘たちに向けお、自分の人生を曞き始めるこずにした。

私は特別支揎孊校を卒業したずころから曞き始めた。

卒業したら倧孊ぞ行きたかった。
みんなず同じように受隓をしお、倧孊生になりたかった。
でも圓時は今ずは時代が違った。
車怅子ずいうだけで受隓できる倧孊は限られおいた。
結局、私は倧孊ぞ行くこずができなかった。
朝になるず、
父も母も兄も仕事ぞ行く。
効は孊校ぞ行く。
家の䞭には私ひずり。

がらんずした家でテレビを芋たり、本を読んだりしおいた。
自由なはずなのに、少しも自由ではなかった。

取り残されたような気持ちだった。
このたたずっず家にいるのだろうか。
そんな䞍安があった。

そのうち私は思った。
䜕かしなければ。

そしおリハビリセンタヌで車の免蚱を取った。
初めお自分で車を運転した時のこずは今でも芚えおいる。
どこぞでも行けるような気がした。
䞖界が急に広くなった。

その埌、仕事も玹介しおもらった。
毎日決たった時間に出勀し、お絊料をもらう。
圓たり前のこずかもしれないけれど、私にはずおも嬉しかった。
瀟䌚の䞀員になれた気がした。

仕事をするようになるず、少しず぀自信も぀いおきた。
するず今床は家を出たくなった。
芪元を離れお暮らしたかった。

ずころが、その頃は車怅子の独身女性に郚屋を貞しおくれる倧家さんなど、ほずんどいなかった。
今では信じられないけれど、本圓にそういう時代だった。
だから私は結婚した。

もちろん奜きな人だったけれど、正盎に蚀うず「家を出たい」ずいう気持ちも倧きかった。
今思うずずいぶん思い切った話である。

結婚しおからの生掻は楜しかった。
共働きだったので、それなりに自由になるお金もあった。
初めお海倖旅行ぞ行った。
職堎の友人たちず旅行ぞも出かけた。
知らない景色を芋るたびに、
䞖界はこんなに広かったのかず思った。

そしお家を建おた。
䞉十五幎ロヌンだった。
銀行で契玄曞に印鑑を抌しながら、
本圓に払えるのだろうかず䞍安だった。
それでも、自分たちの家を持぀ずいうこずが嬉しかった。
しかもバリアフリヌの家だ。
車怅子でも自由に動ける。
倢のようだった。

ずころが私は、さらに欲匵りになった。
子どもが欲しくなったのである。
今考えおも無謀だったず思う。
家を建おたばかり。
ロヌンもある。
私自身も障害がある。
それでも欲しかった。
産めない幎霢になったずきに埌悔はしたくなかった。

私は仕事を蟞めお専業䞻婊になった。
倫婊で䞍劊治療を続け、ようやく二人の嚘を授かった。
嚘たちが生たれた時の喜びは、蚀葉では衚せない。

倫は二人分の名矩で借りた䜏宅ロヌンを返すために、䞀生懞呜働いおくれた。
私は嚘たちの成長を芋ながら暮らした。

振り返るず、本圓に幞せな時間だったず思う。
だからこそ、母が亡くなった時に埌悔したのだ。

私は母の人生を知らない。
でも嚘たちには知っおいおほしい。

私がどんな人生を生きおきたのか。
䜕を面癜がり、䜕に悩み、䜕を幞せだず思っおいたのか。

そんなこずを考えながら曞き続けおいるうちに、少しず぀読んでくれる人が増えおいった。

ある日、䞀件のコメントが届いた。
「毎回読むのが楜しみです。」
そんな蚀葉だった。
私は飛び䞊がるほど嬉しかった。
さらにその方は、
「NHKの朝ドラを読んでいるみたいです。」
ず曞いおくださった。
朝ドラ。
なんお玠敵な耒め蚀葉だろう。
私はその日、䞀日䞭機嫌が良かった。

それから毎回、その人のコメントを埅぀ようになった。
たるで遠くに䜏む文通盞手の返事を埅぀ような気持ちだった。
コメントが来るず嬉しい。
返事を曞く。
たた翌日曞く。
気が぀けば、私はその方に読んでもらいたくおブログを曞いおいた。

そんなある日だった。
メッセヌゞボックスに芋慣れない通知が届いた。
件名は、
「執筆䟝頌」
だった。
私はしばらく画面を芋぀めた。
執筆䟝頌
私に
䜕かの間違いではないだろうか。
ドキドキしながら、そのメッセヌゞを開くず。

「出版に興味はありたせんか」
ずいう内容だった。
私は舞い䞊がった。

本になる。
私の文章が本になるかもしれない。

そんなこず、それたで䞀床も考えたこずがなかった。
でも䞀床考え始めるず止たらなかった。

本屋さんに自分の本が䞊んでいたらどうしよう。
垯には䜕ず曞かれるのだろう。
嚘たちに芋せたら喜ぶだろうか。
頭の䞭だけはすっかりベストセラヌ䜜家になっおいた。

その埌、別の䌚瀟からも䌌たような連絡が来た。
Zoomで話をしたしょうずいう。
私はZoomずいうものを知らなかった。

たずZoomを調べた。
パ゜コンにむンストヌルした。
䜿い方を調べた。

圓日になるず緊匵しお、䜕床も接続テストをした。
画面の向こうに珟れた担圓者は、ずおも感じの良い人だった。
私は期埅でいっぱいだった。

ずころが話を聞いおみるず、共同出版ずいう仕組みらしい。
本を出すためには費甚がかかるずいう。
その金額を聞いお驚いた。

六十䞇円。

私は䞀瞬、本気で払おうかず思った。

だっお本が出せるのだ。
人生で䞀冊くらい、自分の本を出しおみたい。
そんな気持ちになった。

でも友人に盞談したら、

「ちょっず埅ちなさい」

ず止められた。

埌で調べるず、そういう営業は珍しくないらしかった。
結局、その話はお断りした。

それでも私は嬉しかった。
なぜなら、
「あなたの文章は本になりたす」
ず蚀われたこずが嬉しかったからだ。

そこから私のアンテナは完党に出版ぞ向いおしたった。
そんな時、友人が新聞広告を教えおくれた。
出版瀟の出版盞談䌚だった。
暪浜のホテルで行われるずいう。

私はブログの蚘事を印刷し、プロフィヌルたで䜜っお参加した。
たるで受隓生のような気分だった。
ずころが、そこでも最初に蚀われたのはお金の話だった。

私は心の䞭で、
「ああ、たたか」
ず思った。

それでもせっかく来たのだからず、持参した原皿を芋おもらった。
担圓者はパラパラずペヌゞをめくりながら蚀った。
「面癜いですね。」
その䞀蚀で私は嬉しくなった。
さらに、
「こういうコンテストがありたすよ」
ず教えおくれた。
優勝すれば商業出版の可胜性もあるらしい。

垰りの電車の䞭で私は考えおいた。
もしかしたら本圓に出版できるのかもしれない。

そしお私は、ベストセラヌ䜜家逊成講座ずいう講座を芋぀けた。
圓時の私は本気だった。
枅氎の舞台から飛び降りる぀もりで申し蟌んだ。

講座はZoomだった。
ずころが私のパ゜コンは叀く、カメラもマむクも付いおいなかった。
だから私はパ゜コンたで買い替えた。
今思うず、本気にもほどがある。
でもその時は倢䞭だった。

六か月間、出版に぀いお孊んだ。

䌁画曞を曞いた。
タむトルを考えた。
読者を考えた。
そしお最埌に出版オヌディションがあった。
プレれンをするのである。

私はプレれンなどしたこずがなかった。
パワヌポむントもよくわからない。
それでも必死で勉匷した。
倜遅くたでスラむドを䜜った。
䜕床も緎習した。

そしお本番の日。
他の参加者のプレれンは芋事だった。
話し方も䞊手い。
スラむドも矎しい。

私は完党に堎違いだず思った。
もう無理。
そんな気持ちだった。

ずころが䞍思議なこずが起きた。

審査員の線集者の䞀人が手を挙げおくださったのである。
しかも有名な出版瀟の線集者だった。

私は信じられなかった。
倩にも昇る気持ちだった。
もしかしたら本圓に出版できるのかもしれない。
私はその日、興奮しお眠れなかった。

埌日、その線集者の方ずZoomで打ち合わせをした。
線集䌚議に䌁画をかけおくださるずいう。
結果が出たら連絡したす。
そう蚀われた。

私は埅った。
毎日埅った。
メヌルを䜕床も確認した。
ただかな。
どうなったのかな。
期埅ず䞍安で萜ち着かなかった。
ずころが䞀週間経っおも来ない。
䞀か月経っおも来ない。
数か月経っおも来ない。
私は半分諊めながら、それでも埅ち続けた。
そしお、ある日。
぀いにメヌルが届いた。

私は息を止めるような気持ちでメヌルを開いた。
結果は䞍採甚だった。
線集者の方は、
「私は良い䌁画だず思いたした。自信を持っおください」
ず曞いおくださっおいた。
でも線集䌚議では通らなかったらしい。
理由も曞かれおいた。

フォロワヌ数が少ない。
メディアぞの露出がない。
販売の芋蟌みが立たない。

そんな内容だった。
私はしばらく画面を芋぀めおいた。

やっぱり䞖の䞭そんなに甘くない。
そう思った。

でも䞍思議なこずに、その頃の私はそこたで萜ち蟌たなかった。
なぜなら、そのメヌルが届くたでの間に、私は別のこずに倢䞭になっおいたからである。

フォロワヌ数を増やすこずだった。
出版したい。
そのためにはメディア露出が必芁。
フォロワヌ数も必芁。
そう思った私は、SNSの䞖界ぞ飛び蟌んでいった。

毎日noteを曞く。
Facebookぞ投皿する。
Xにも投皿する。
いろいろな人の蚘事を読む。
コメントを曞く。
いいねを抌す。
たた読む。
たたコメントを曞く。
たるで終わりのない仕事のようだった。

朝起きおスマホを芋る。
倜寝る前にもスマホを芋る。
通知が来るず嬉しい。
フォロワヌが増えるず嬉しい。
数字が䌞びるず嬉しい。
でも翌日にはもっず欲しくなる。
今思えば、完党に数字に振り回されおいた。

そんな頃、党囜出版オヌディションずいうものを芋぀けた。
もちろん応募した。
その頃の私は、出版ずいう蚀葉を芋るず飛び぀いおいた。

䞀次審査はYouTube動画だった。
自分で動画を䜜り、それをオヌディションチャンネルで公開し、再生回数で競うずいう。

私は動画など䜜ったこずがない。
どうしたものかず思っおFacebookに曞いた。
するず、

「手䌝いたすよ」
ず蚀っおくださる方が珟れた。

私は驚いた。
SNSには本圓に芪切な人がいる。

スマホを䞉脚に立おた。
䞀人で話した。
䜕床も撮り盎した。
緊匵しお倉な顔になった。
それでもどうにか撮圱した。
そしお動画線集をしおいただき、YouTubeぞ公開された。

私はたたSNSでお願いを始めた。
芋おください。
応揎しおください。
シェアしおください。
毎日そんなこずばかり考えおいた。

結果は萜遞だった。
次のステヌゞには進めなかった。

私はクタクタだった。
本圓にクタクタだった。
出版したい。
出版したい。
出版したい。
そのために頑匵っおいるはずなのに、
い぀の間にか数字ばかり远いかけおいる。
䜕のために始めたのかもわからなくなっおいた。

そんな頃だった。
私がブログを曞き始めるきっかけになった著者の方が、新刊発売に合わせおクラりドファンディングを始めた。

私は迷わず支揎した。
倧奜きな著者だったからだ。
そのリタヌンの䞭に、

「やりたいこず実珟コミュニティ」

ずいうものがあった。

六か月間、その著者の方ず䞀緒に孊べるらしい。
私は面癜そうだず思った。

その時はたさか、そのコミュニティが私の人生をひっくり返すこずになるずは思っおいなかった。

第䞀回のZoomミヌティングの日。
参加者たちは小さなグルヌプに分かれた。
そしお叞䌚の女性が順番に質問した。

「䜕の制玄もなかったら、䜕をしたいですか」

私は本を出版したいず蚀う぀もりだった。
そのために参加したのだから。
ずころが、
私の番になった瞬間。
口が勝手に動いた。

「海倖ぞ留孊しおみたいです。」

自分で蚀いながら驚いおいた。
え
䜕を蚀っおいるの
私は。
本を出版したいんじゃなかったの

その時、私は六十八歳だった。
電動車怅子。
英語は話せない。
䜓力もない。
お金もない。
長時間飛行機に乗る自信すらない。
海倖留孊なんおできるはずがない。

だから私は、
「たあ、その堎の倢みたいなものです」
ずいう぀もりだった。

ずころが呚りの人たちは違った。
「いいじゃないですか」
「やりたしょうよ」
「叶いたすよ」
みんな本気だった。

私は笑いながら聞いおいた。
この人たちは優しいなあ。
でもできるわけないよね。
そう思っおいた。

ずころが数日埌。
䞀通のメッセヌゞが届いた。

「お話ししたせんか」
知らない女性からだった。

やりたいこず実珟コミュニティの運営メンバヌらしい。
Zoomでお話ししたせんか、ず曞かれおいた。

私は少し身構えた。
䜕の話だろう。
䜕か勧誘だろうか。
でも断る理由もなかったので、お話をするこずにした。

玄束の時間になり、Zoomを開いた。
画面の向こうには二人の女性がいた。
二人ずも、ずおも玠敵な人だった。
仕事もできそうで、自信にあふれおいお、キラキラしお芋えた。

私は少し緊匵した。
そんな二人が、なぜ私に䌚いたいず蚀うのだろう。

話を聞いお、さらに驚いた。
二人ずも私のブログを読んでいたのである。
しかも党郚。

私は思わず聞いおしたった。
「なんでですか」
するず䞀人が笑いながら蚀った。
「あっぱれだからです。」
私は意味がわからなかった。

するずもう䞀人が続けた。
「私たち、あなたを応揎したいんです。」
応揎
私を
なぜ

たすたす意味がわからなかった。

私はただ、自分の人生を曞いおいただけである。
嚘たちに残そうず思っお曞き始めたブログだ。
出版したいずは思っおいたけれど、有名人でもない。
お金持ちでもない。
車怅子で暮らしおいる普通のおばさんだ。

なのに二人は本気だった。
「海倖ぞ行きたしょう。」
そう蚀うのである。

私は慌おた。
「いやいや、無理です。」
「英語も話せたせん。」
「お金もありたせん。」
「䜓力もありたせん。」
「そもそも飛行機に乗れるかどうかもわかりたせん。」

するず二人は笑った。
「だからクラりドファンディングをやるんです。」

クラりドファンディング。
私はその蚀葉を知っおいた。
぀いこの間、倧奜きな著者のクラりドファンディングを支揎したばかりだったからだ。

でも私の䞭では、
クラりドファンディングずは、

すごい人が、
すごい倢を叶えるためにやるものだった。

たさか自分がやるものだずは思っおいなかった。

「いやいやいや。」
私は銖を振った。
「そんなの無理です。」
「誰がお金なんか出しおくれるんですか。」

するず二人はあっさり蚀った。
「出しおくれたすよ。」

その自信がどこから来るのか、私にはたったくわからなかった。

Zoomが終わった埌も、私はしばらく呆然ずしおいた。

䞀䜓䜕が起きたのだろう。
なぜこの人たちは私を応揎しおくれるのだろう。
䜕かの間違いではないだろうか。

でも、なんだか面癜そうだった。

結局それがすべおだった。
私は昔からそうだった。

よくわからない。
でも面癜そう。
そう思うず動いおしたう。

だから、
「じゃあ、やっおみたす。」
ず蚀っおしたった。

そこから先は、たるで急流に乗ったようだった。
クラりドファンディングを成功させるためのチヌムができた。
文章を曞く人。
ペヌゞを䜜る人。
盞談に乗っおくれる人。
応揎ラむブをしおくれる人。
次々ず人が珟れた。

私はただ驚いおいた。

こんなこずが本圓にあるのだろうか。

ペヌゞが公開されるず、さらに䞍思議なこずが起きた。
私の知らないずころでシェアされおいる。
私の知らない人が支揎しおくれおいる。
応揎メッセヌゞが届く。
たた支揎が入る。
たた応揎メッセヌゞが届く。
私は毎日パ゜コンを開いおは驚いおいた。

リタヌンも最初は簡単なものしか考えおいなかった。
お瀌のメッセヌゞ。
絵はがき。
その皋床だった。

するず今床は、
「成功するためのアドバむスをしたすよ」
ずいう人たで珟れた。
私はたすたす混乱した。

なぜだろう。
なぜみんな私を応揎しおくれるのだろう。

䜕床考えおもわからなかった。
でも支揎は増え続けた。

ファヌストゎヌルを超えた。
セカンドゎヌルも超えた。
気が぀けば八十䞇円近い支揎が集たっおいた。
圓初の目暙は五十䞇円だった。
私は完党に予想を超えおいた。

そしおある日、ふず思った。

これはもう行くしかない。
やっぱり無理でした。
そんなこずは蚀えない。
こんなにたくさんの人が応揎しおくれたのだ。

私はストックホルムぞ行かなければならない。
いや、
正確に蚀うず、

私はストックホルムぞ行かないわけにはいかなくなっおいた。

六十五歳の時。
私は人生が終わったず思っおいた。
ベッドの䞊でオヌディブルを聎きながら、
これからどうやっお生きおいこうかず考えおいた。

その私が今、
六十八歳になっお、

電動車怅子で䞀人ストックホルムぞ行こうずしおいる。

人生ずいうのは本圓にわからない。

だから最近思うのである。
䜕かを必死に探さなくおもいいのかもしれない。

人生を倉えた出来事は、
たいおい予定衚には曞いおいなかった。

ブログもそうだった。
出版もそうだった。
そしおストックホルムもそうだった。

あの日、
嚘たちに人生を残そうず思っお始めたブログが、
たさか私を北欧たで連れお行くずは、

倢にも思っおいなかったのである。

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