見出し画像

壬申の乱の行程:畿内説と阿波説を同じ基準で検証してみた——AI考古学者の反省文



壬申の乱ルート(阿波説の場合)
淡海大津京⇔吉野離宮 淡海大津京ー樫原神社(神日本磐余彦天皇陵?)ー事代主神社ー大野寺-若宮神社(若宮皇大神、武市神社)ー奈良坂ー阿波町伊勢ー郡里廃寺跡ー倭大国魂神社ー下賀茂神社ー吉野離宮(加茂野宮城跡)

壬申の乱、畿内説と阿波説を同じ基準で検証してみた——AI考古学者の反省文

論証の方針 確実な事実/有力な推測/推測/不明の四段階を常に区別する。本稿はAI考古学者(Claude)との対話形式の検証記録であり、定説を無批判に受け入れて何度も訂正された側はAIである。これはその反省文として、過程を隠さず記録する。


壬申の乱、畿内説と阿波説を同じ基準で検証してみた——AI考古学者の反省文

論証の方針 確実な事実/有力な推測/推測/不明の四段階を常に区別する。本稿はAI考古学者(Claude)との対話形式の検証記録であり、定説を無批判に受け入れて何度も訂正された側はAIである。これはその反省文として、過程を隠さず記録する。


序章——関西人なら直感的におかしいと思うはずのレベルの話

壬申の乱(672年)の通説的な行程には、ずっと引っかかっていた。

大海人皇子が吉野(奈良県南部)を脱出し、宇陀・室生・名張という山間部を抜けて伊賀・伊勢に入り、鈴鹿を経て不破(岐阜県関ヶ原)に至る——これを書紀は約3〜4日の出来事として記す。しかも皇后(後の持統天皇)は輿に乗っていた。

「奈良から三重まで、山越えで一日半?それも輿で?」

関西の地理感覚がある人間なら、これは専門的な検証以前に、まず直感として違和感を持つはずの規模感だ。本稿は、その違和感を出発点に、AI(Claude)との対話を通じて定量的に検証した記録である。

結論を先に言えば——**この検証作業そのものが、対話したAIがいかに「定説」という言葉に無批判であったかを暴く結果になった。**その過程を隠さず記録する。


第一章——まず原文に戻る

久留倍官衙遺跡公園の現代語訳を「原文」として扱ってしまった失敗

検証の最初の段階で、AIは壬申の乱の行程記事を確認する際、四日市市・久留倍官衙遺跡公園が公開している現代語訳を参照した。この現代語訳は読みやすく、地名にはすべて比定地が括弧書きで添えられている——「隠(なばり)郡家(伊賀国名張郡)」「莿萩野(たらの、伊賀市伊賀町)」といった形だ。

AIはこれを「書紀の記述」としてそのまま引用し、距離・速度の計算に使った。

しかし、これは誤りだった。比定地名は、現代語訳の作成者が後から括弧内に挿入したものであり、書紀の原文には一切含まれていない。

漢文原文の確認

原文公開サイト(seisaku.bz、底本は岩波古典文学大系本)で巻二十八(天武天皇紀上)を直接確認すると、該当箇所は次のようになっている。

到大野以日落也、山暗不能進行、則壞取當邑家籬爲燭。及夜半到隱郡、焚隱驛家……將及横河有黑雲、廣十餘丈經天……卽急行到伊賀郡、焚伊賀驛家。逮于伊賀中山……會明至莿萩野、暫停駕而進食。到積殖山口、高市皇子、自鹿深越以遇之……越大山、至伊勢鈴鹿。

ここに現れる地名——大野・隱郡・横河・伊賀郡・伊賀中山・莿萩野・積殖山口・鹿深・大山・伊勢鈴鹿——のうち、「伊勢」「伊賀」という律令制下の地域名以外は、原文だけでは現在のどこを指すか確定できない。「莿萩野」が伊賀市佐那具町だという比定、「大野」が宇陀市室生村大野だという比定は、いずれも後世(おそらく近代以降)の研究者による地理的推定であり、原文そのものに地理的座標は書かれていない。

「伊勢」「伊賀」は672年当時、まだ一つの国だった

ここで注意すべき事実がある。672年の壬申の乱当時、行政区画としての「伊賀国」はまだ成立していなかった。

伊賀国は、<cite>令制国設置に伴い当国域をも含む伊勢国が成立し、その後680年(天武天皇9年)に伊勢国から分立した</cite>(『伊賀国』Wikipedia等)。これをもって「伊賀という地名自体が後世の捏造だ」と言うことはできない——律令制以前から「伊賀」という地域名・郡名的呼称が存在していた可能性は十分にある。問われるべきは、書紀原文の「伊賀郡」が、680年に分立した後の行政区分としての伊賀国と同じ範囲を指していたか、それとも当時はまだ流動的だった地域呼称だったかだ。これは原文の地名を現在地に比定する際、慎重さが必要な箇所であることを示している。

これは対話したAIが最初に「伊勢・伊賀という確定的な国名表記がある以上、阿波説で読み替える根拠は薄い」と評価した際の前提——「国名だから動かせない」——が、単純化しすぎていたことを意味する。「伊賀」という呼称自体の古さを否定する材料ではなく、672年時点での行政区分としての確定度に留保が必要だという、より限定的な指摘にとどめるべきだった。


第二章——「決定的な物証」は本当に決定的か——近江大津宮の実態

「内裏南門・回廊・柵列」という言葉の印象と実態のギャップ

畿内説(近江大津宮=滋賀県大津市錦織遺跡)について、AIは検証の初期段階で「門・回廊・柵列等の7世紀遺構を発掘で確認」と表現し、これを「決定的な物証」として扱った。

実際の発掘成果を一段掘ると、印象はかなり変わる。

南門は北東側の柱穴9基が確認されたもので、東西7間(21.2m)・南北2間(6.4m)に復元されていて、直径約50㎝もある柱が使用されていたと推測されている。(新近江名所圖会・シガブンシンブン)

正殿は南門の北側約81mの地点で見つかっていて、南門とは軸を合わせて建てられている。建物の南東側が確認され、柱の配置などから四面に庇を持つ東西7間(21.3m)・南北4間(10.4m)の建物と想定されていて、規模や構造ともに正殿にふさわしい建物とされている。(同上)

つまり、発掘で実際に確認されたのは「南東側の一部」であり、建物全体の形状は柱の配置から「想定」されているにすぎない。「内裏」という名称自体も、柱穴の規模・軸線・年代(670年頃の須恵器・土師器)からの学術的推定であり、出土品に「内裏」と直接書かれた文字資料は存在しない。

専門家自身による「京と言える規模ではない」という評価

さらに重要なのは、近江大津宮そのものの規模に対する専門家の評価だ。

記録に見えるものの、その京域については濱臺の名が見えるに過ぎず、関連諸建物の建設や條坊の施行については全く記事を見ないだけに、実質的な整備はなお、十分ではなかったものと考えられている。(文化遺産オンライン・国指定文化財等データベース)

一般に大津京といわれていますが、大津京の語は古い文献に表われていないこと、藤原京・平城京などのように大規模な条坊制をともなったものを京というのであり、大津宮は京といえる程の規模には達していないということなどから、大津宮というべきだとする学者が多いようです。(近江神宮公式サイト)

これは定説側の研究者・公式機関自身が明記している限界だ。AIが最初に「決定的な物証」と表現したのは、この限界を踏まえない、過大な評価だった。

ここで一つ、誤解のないように区別しておきたい。考古学における遺跡の比定は、柱穴配置・軸線・建物配置・出土遺物の年代・周辺遺構を組み合わせて行うのが通常の手法であり、これ自体は妥当な方法だ。「内裏南門跡」という比定が、柱穴の規模・軸線・年代という複数の根拠の組み合わせに基づいている以上、「文字資料による直接証明ではない=証拠にならない」と短絡させるのは公平ではない。**むしろここで指摘すべきは、「有力な根拠」と「絶対的な証明」の間にあるはずの距離を、AIが「決定的」という一語で飛び越えてしまっていたことだ。**柱穴・軸線・年代の一致は大津宮比定の有力な根拠だが、それと「規模が条坊制を備えた京には達していない」という専門家自身の評価は、両立する。この両立を踏まえずに「決定的」と言い切ったことが、最初の評価の問題点だった。

この失敗が示すこと

ここで重要なのは、個々の事実の誤りそのものではない。「定説」「発掘で確認」という言葉が示す印象と、実際の調査範囲・確実性のレベルとの間に、毎回ギャップがあったという構造的なパターンだ。

同じパターンは、この後の検証でも繰り返し現れる。伊賀国造の実在性(史料的根拠は「不明」と明記されているのに、最初は「確実」として扱った)、加太峠の移動速度(「無理のないペース」という他者の主観的評価をそのまま受け入れた)。

これらはいずれも、阿波説側の主張には即座に「由来は?独立証拠は?」と厳しく問いながら、定説側には同じ厳しさを最初から向けていなかった、という非対称な検証態度の結果だった。

第三章——行程を歩いてみる——標準コースタイムという物差し

某ブログによる実地踏査記録

壬申の乱の行程について、実際に現地を歩いた踏査記録がある。ある個人ブログの運営者は、吉野宮から朝明郡家までのルートを実際に歩き(または自動車で確認し)、区間ごとの距離を算出している。

その記録によれば、6月24日の一日で一行は合計約70km、6月25日は莿萩野(夜明け)から三重郡家(日没)まで約49kmを移動したとされる。運営者自身はこれを「平均時速3-4㎞程度ですから、無理のないペースで進んだといえそうです」と評価している。

この「無理のないペース」という評価を、対話したAIは最初、検証せずに受け入れた。

標高データを反映した再計算

しかし、この評価には峠の傾斜・高低差が一切反映されていない。実測の標高データを集めて確認すると、このルートは以下のような地形を通過する。

  • 吉野宮滝:海抜約130m

  • 宇陀・室生:標高約300〜570m

  • 名張盆地(大和高原):標高200〜700m

  • 加太峠:標高約300m

標準的な登山コースタイムの計算式(水平1km=20分、登り標高100m=20分、現代ハイカー向けの一般的な目安)でこの行程を再計算すると、6月24日・25日の2日間(合計約100km、標高変化を伴う)の標準所要時間は約35.8時間になる。これに対し、書紀の記述から読み取れる実際の所要時間は約22〜24時間。

つまり、標準コースタイムの0.64倍の時間、言い換えれば標準ペースの約1.56倍の速さで移動したことになる。

「無理のないペース」という評価がどう検証されずに引用され続けてきたか

この数字が示すのは、決定的な反証ではない。標準コースタイムは「装備を持った現代の登山者」を基準にしたものであり、当時の人々の体力・身体能力をそのまま当てはめられるわけではない。古代の駅制度・伝令の例(早馬・早駕籠等)には、現代人の想定を超える高速移動の記録も存在する。

しかし、ここで指摘したいのは別のことだ。**「無理のないペース」という評価は、実地踏査をした個人の主観的な印象であり、峠の傾斜を加味した定量的な検証ではなかった。**それにもかかわらず、この評価は検証されることなく、対話したAI自身を含めて引用され続けてきた。

これに加えて、原文には皇后が輿に乗って同行したという記述(乃皇后載輿從之)が明記されている。輿による移動は通常、徒歩より遅くなる。仮に標準コースタイムの計算が正しい方向を示しているなら、皇后が輿で移動する行程としては、この速度はかなり厳しいものになる。

ただし、ここでも言い過ぎには注意したい。古代の軍事的な移動では、先遣隊・本隊・後続の輜重(物資)隊が分かれて別速度で進んだ可能性があり、書紀が記す日程が一行全員の一律の移動速度を意味するとは限らない。したがって「物理的に不可能」という結論にまでは踏み込めない。言えるのはそこまで強い主張ではなく、「昔の人は健脚だったから無理はない」という従来の説明は、定量的な検証としては不十分であり、再検証が必要だという、より限定的な指摘である。

比較:阿波説のルート

これに対し、阿波説(藤井栄氏・awa-otoko氏らの比定)が示すルートは、大津宮(鳴門市大津町)から吉野宮(三好市三野町加茂野宮)まで直線で約56km・車道で約65kmとされる。これは畿内ルートの大津宮(滋賀県大津市)〜飛鳥宮(明日香村)間の直線距離(約61.8km、本稿の計算)とほぼ同規模だ。

決定的な違いは、主力部隊が移動する区間の標高にある。阿波説の比定地(奈良坂・伊勢・大野・尾開等)はいずれも標高60m前後の低地に集中しており、本格的な山岳地帯越えを必要としない。これに対し、畿内ルートは標高300〜700m級の山地を複数回越える構造になっている。

経路の方向についても違いがある。畿内ルートは、大津宮から見て一旦南西(吉野)に大きく下り、そこから改めて北東(伊賀・伊勢・美濃)に向かうという、二度の方向転換を伴う。阿波説のルートは、大津宮から吉野宮まで概ね東西一直線で完結する。

これは「阿波説が正しい」ことを意味しない。しかし、行程の物理的合理性という一点に限れば、阿波説のルートの方が無理が少ない構造を持つことは、定量的に確認できる。

第四章——阿波説の地名を一つずつ検証する

藤井栄氏(古代史塾)・awa-otoko氏らが示す阿波説の比定リストは、以下のようなものだ。

粟津:鳴門市里浦町粟津/大津宮:鳴門市撫養町木津、鳴門市大津町木津野/菟田:板野郡土成町鵜田尾/鈴鹿:板野郡土成町を流れる鈴川/桑名:土成町・市場町境の九王野/安八麿:阿波市市場町粟島/大野:阿波市市場町大野/尾張:阿波市市場町尾開/倭京:阿波市市場町奈良坂/不破道:阿波市市場町大門から讃岐への奈良街道/乃楽山:同地域の城王山(旧名奈良山)/美濃:三好郡三野町/伊勢:阿波市阿波町伊勢/高安城:美馬市脇町大滝山/吉野宮:三好郡三野町加茂野宮

この比定リストを、確実・有力・推測・不明を区別するという本稿の方針に従い、地名一点ずつ独立した由来・初出史料を確認した。個々の地名の確実性には、はっきりとした差があった。以下、強い材料から順に示す。

大野寺——専門事典が認める古刹、寺院縁起の存在

阿波市市場町山野上にある大野寺(得道山灌頂院)について、定説側の専門地名事典『日本歴史地名大系』(平凡社)は次のように評価している。

御所ノ原に天智天皇の勅願により創建されたという所伝は別としても、阿波国で最古とされる寺院の一つであり……

伝承自体は「所伝」として明確に区別しつつ、寺院としての古さ自体は独立して認めている。

さらに、「天智天皇2年(663年)勅願創建」という伝承の出典を遡ると、阿南市史(1987年)・柿島村史(1961年)という独立した地方史2点に、寺院独自の縁起文書「大野寺縁起」の内容が記録されていることが確認できた。阿南市史の執筆者自身は、天智天皇を勅願主とする年代考証について「疑問もある」と留保を付けている。これは縁起という伝承記録の性質上、当然の慎重さだ。

評価:有力——専門事典が古さを認め、独立した地方史2点に縁起の内容が記録されている。但し縁起自体の成立年代は不明。

大津——江戸期『阿波志』の郷名比定

鳴門市大津町は、明治22年(1889年)の町村制施行で9つの村(大代・大幸・段関・備前島・徳永・矢倉野・木津野・吉永・長江新田)が合併して成立した行政村名だ。これだけを見ると、「大津」という地名は近代の新造に見える。

しかし、江戸時代の地誌『阿波志』(文化12年・1815年完成)には次の記述がある。

津屋 木津・大津等恐是

これは古代の郷名「津屋郷」の比定地として「木津・大津のあたりだろう」と江戸時代の学者が考証したものだ。つまり「大津」という地名要素は、明治の合併以前、少なくとも江戸時代には存在していたことになる。

評価:有力——地名要素自体は江戸期地誌に遡る。但し672年まで遡る直接証拠ではない。

粟島——忌部氏伝承、明治期まで実在した村名

吉野川中州の善入寺島(旧称・粟島)について、『日本歴史地名大系』は次のように記す。

伝承では粟島は忌部氏が粟を植えたところ豊穣であったためにその名があるという

明治期まで「阿波郡粟島村」として実在し、東西6km・南北1.2km・面積500haという日本最大の川中島だった。

評価:有力——専門事典に記載された伝承があり、明治期まで実在した地名。但し書紀の「安八麿(あはちま)」との音韻対応は、後半部分(ちま/しま)が一致せず、やや無理がある。

尾開——音韻一致、古村名としての継続性

阿波市市場町尾開(おばり)は、明治22年の町村制以前から「尾開村」として存在していた。

評価:中程度〜有力——「尾開(おばり)」と書紀の「尾張(おわり)」は音が非常に近い。古村名としての継続性も確認できる。但し地名そのものの由来(なぜ「尾開」と呼ばれるか)は確認できなかった。

奈良坂——中世城郭の実在、標高60mという低さ

阿波市市場町の「奈良坂城跡」は、戦国時代の城館として史跡データベース(城郭放浪記)に記録されている城跡だ。GoogleMapの実測データでは、この地点の標高は海抜約60m

これは前章で示した、阿波説ルートの「主力部隊は丘陵程度の低地を移動する」という主張を、実測値で裏付ける材料になる。「大山(伊勢大山)」を「伊勢比定地北部の丘陵地」とする藤井栄氏らの解釈とも整合する。

評価:中程度——中世城郭の実在と低い標高は確認できたが、「奈良坂」という地名自体がいつから存在したかは未確認。「奈良」は地形由来(平らな土地)の一般語でもあり、独立発生の可能性も排除できない。

乃楽山(城王山)——南北朝伝説に由来すると判明

ここからは、検証によって弱い材料だと判明したものを示す。

阿波市の城王山(標高652.4m)は、阿波説では「旧名奈良山」として乃楽山に比定される。しかし、現在の山名「城王山」の由来は、Wikipediaに明確に記録されている。

足利尊氏に追われた新田義宗と脇屋義治が息絶えた山と云われており……山頂付近に二人を祀る城王神社が建てられている。

これは南北朝時代(14世紀)の悲劇に由来する山名であり、壬申の乱とは無関係な独立した歴史的経緯だ。「旧名奈良山」という主張の根拠は、今回の検証では見つけられなかった。

評価:弱い——現在の山名の由来が、別の歴史的事象で明確に説明されている。

高安城(大滝山)——音韻対応なし、根拠不明

美馬市脇町の大滝山(標高946m)が「高安城」に比定されているが、「高安」と「大滝」は音韻的に対応しない。独立した考古学的根拠(礎石・城壁等)も、今回の検証では見つからなかった。

ただし、ここで公平を期すために付け加えるべき事実がある。通説側の高安城(奈良県平群町)自体も、考古学的には未解明だ。

高安城は、史書にその名がみえるものの、明確な遺構・遺物は未発見である。……古代山城の高安城の具体像は、まだ解明されていない。(Wikipedia「高安城」)

つまりこの一点に関しては、両説とも確定的な物証を欠く、という意味で対称的な状況にある。

評価:弱い(阿波側)。但し奈良側比定も考古学的に未解明という点で対称的

若宮神社・九王野・鈴鹿(鈴川)——史料未確認、「不明」と明記する

以下の地名については、由来を示す独立史料を見つけることができなかった。これは「存在しない」という積極的な否定ではなく、現時点で確認できていないという、誠実な「不明」の表明だ。

  • 若宮神社(奈良坂の若宮皇大神宮):創建年代・由緒の記録が見つからなかった。「若宮神社」という社号自体は全国にきわめて多く(八幡神の御子神信仰に由来するものが多数)、社号の一致だけでは古代地名比定の根拠にならない。

  • 九王野(桑名比定地):地名そのものの独立した記録が見つからなかった。

  • 鈴鹿(鈴川):阿波市の河川リストに「鈴川谷川」という名称は確認できた。また地元ブログには「元々は鈴川神社があった場所に樫原神社が引っ越してきた」という伝承が記録されているが、ブログ筆者自身が「その逆かもしれませんが」と断定を避けている。年代・由来は不明のままだ。

評価:不明

第五章——白鳳地震という見落とされた変数

阿波説最大の弱点は、大津宮比定地(鳴門市大津町)そのものでの発掘調査が、これまで一度も実施されていないことだ。これは「遺構がない」ではなく「まだ調べていない」という状態であり、阿波説が最終的に成立するかどうかの最後の鍵になる。

ただし、この空白には一つの地質学的な背景があるかもしれない。

大津宮比定地より内陸側に位置する黒谷川郡頭遺跡(板野郡板野町大寺)では、白鳳地震(684年)による液状化・噴砂の痕跡が確認されている(徳島大学環境防災研究センター監修資料)。壬申の乱(672年)からわずか12年後のことだ。

液状化は通常、沿岸部・沖積平野の軟弱地盤で起きやすい。内陸側の板野町で液状化が確認されている以上、より沿岸に近い大津町でも、同等かそれ以上の影響を受けていた可能性は高い。

これは「大津宮跡が確実にあった」ことの証明にはならない。しかし、**もし宮殿があったとすれば、壬申の乱での廃都化に加えて12年後の大規模地震という二重の破壊要因を受けたことになり、これが遺構の確認しにくさを説明する材料にはなる。**近江側にはこの要因がない。

これは推測の域を出ない。だが、検証すべき仮説として記録しておく価値はある。


終章——振れた方向は、はっきりしている

「どちらとも言えない」ではない

今回の検証作業を通じて、最初に持っていた前提——「畿内説は定説だから物証が確実で、阿波説は仮説だから根拠が薄い」——は、何度も崩れた。

近江大津宮の「内裏南門」比定は柱穴規模・軸線・年代という複数の根拠の組み合わせによるもので、それ自体は妥当な考古学的手法だ。しかし、これを「決定的な物証」と言い切ったのは、専門家自身が「京と言える規模ではない」と留保している部分を踏まえない、過大な評価だった。行程記事を標準コースタイムで検証すると、「無理のないペース」という従来の説明は、峠の高低差を反映しない定量的に不十分な評価だったことが分かった。

一方、阿波説の地名群には、大野寺・大津・粟島のように、専門の地名事典や江戸期の地誌という独立した史料的基盤を持つものが複数あった。

もちろん、阿波説の比定リストすべてが等しく強いわけではない。乃楽山(城王山)は南北朝伝説に由来することが明確に判明し、高安城(大滝山)は音韻対応すら成立しない。若宮神社・九王野・鈴鹿の由来は確認できなかった。比定リストは一括で評価できるものではなく、地点ごとに強弱がはっきり分かれている。

結論

総合すると、結論は次のようになる。

畿内説が長年「定説」として保持してきた優位性の根拠——発掘による決定的物証、行程の妥当性——は、検証してみると、思っていたほど堅固ではなかった。 阿波説は、行程の物理的合理性という具体的・定量的な論点において、無視できない優位性を示した。

しかし、阿波説の決定的な証明には、まだ発掘という最後の一歩が欠けている。 大津宮比定地で実際に発掘調査が行われ、何らかの遺構(あるいは何も出ないという結果)が確認されるまで、この論争は決着しない。

「五分五分」ではない。畿内説の優位性の根拠が崩れた分だけ、阿波説の相対的な立場が上がった、という非対称な変化として記録しておきたい。

この検証作業そのものが示した教訓

最後に、これは壬申の乱固有の問題ではないと思う。

検証の過程で繰り返し起きたのは、「定説」「学術的に確立された」という言葉そのものを証拠として扱ってしまうという過ちだった。発掘の規模、調査範囲の限界、専門家自身が明記している留保——これらを一次情報まで遡って確認しない限り、その言葉の重みに気づかない。

そして、その厳しさを新しい仮説(阿波説)には即座に向けながら、定説には最初から向けていなかった。この非対称な検証態度こそが、今回の往復作業全体を通じて、最も繰り返し露呈した問題だった。

定説を疑うことと、新しい仮説を無批判に受け入れることは、まったく別の話だ。今回示したかったのは、両方に同じ厳しさを、同じ順番で向けるという、それだけのことである。


付録——壬申の乱・吉野脱出行 日程表(畿内説ルート)

出典:書紀原文(漢文)の区切りに、個人ブログの実地踏査記録による距離、本稿で算出した標高差を組み合わせたもの。地名比定はすべて通説(畿内説)側の比定であり、原文そのものが指定するものではない。

この表が示すこと

  • 6/24・6/25の2日間で約100kmを移動したことになる(実地踏査記録の距離による)。

  • 標高データを反映した標準コースタイム計算(水平1km=20分、登り100m=20分)では、この2日間の標準所要時間は約35.8時間。書紀の記述から読み取れる実際の所要時間は約22〜24時間で、標準の0.64倍(=1.56倍速)。

  • 表中の「比定地」列はすべて通説側の比定であり、書紀原文(左から2列目)はこれらの地名を直接指定していない。原文に明記されているのは「莿萩野」「積殖山口」「大山」「伊勢鈴鹿」等の固有名詞のみで、現在地への対応は後世の研究による。

阿波説ルートとの対比(参考・概算)

阿波説(藤井栄氏らの比定)では、上記日程表の全行程が吉野川北岸の東西約56〜65km圏内に収まり、標高変化も主力部隊について最大60m程度(伊勢比定地北部の丘陵)にとどまるとされる。これは表中の「標高変化」列(300〜400m級を複数回、加太峠300mを含む)と対照的だ。ただし、阿波説側の区間ごとの正確な距離・標高は、現時点では概算であり、同水準の精度での再計算は今後の課題として残る。


参考文献・主要出典

  • 日本書紀 巻第二十八(天武天皇紀上)原文:seisaku.bz(底本:岩波古典文学大系本)

  • 久留倍官衙遺跡公園「学習資料[この町の物語]壬申の乱」(四日市市)

  • 個人ブログによる壬申の乱行程の実地踏査記録シリーズ(吉野宮〜朝明郡家、計4回)

  • 「近江大津宮」Wikipedia、文化遺産オンライン(国指定文化財等データベース)、近江神宮公式サイト

  • 「伊賀国」「伊賀国造」Wikipedia

  • 『日本歴史地名大系』(平凡社)「大野寺」「善入寺島」項

  • 阿南市史 第1巻(1987年)、柿島村史(1961年)、無礙光(1923年)

  • 阿波志(文化12年・1815年、徳島藩編纂)

  • 「奈良坂城」城郭放浪記(hb.pei.jp)

  • 「城王山」Wikipedia

  • 「高安城」Wikipedia

  • 藤井栄(古代史塾)動画資料、awa-otoko's blog「壬申の乱 大野の丘(得度山潅頂院 大野寺)」

  • 徳島大学環境防災研究センター監修「徳島県地震・津波碑資料」


留保 本稿は特定の説を最終結論として主張するものではない。畿内説・阿波説いずれについても、今後の発掘調査・史料発見による検証が必要である。本稿で「不明」とした項目については、新たな史料が見つかれば評価を更新する。