誰も見ていないところで、会社を支えていた人
会社には、
目立つ仕事と、
ほとんど目立たない仕事がある。
営業は売上で名前が出る。
製造は生産量で評価される。
管理職は会議に出る。
でも、
毎朝、誰よりも早く会社に来て、
誰もいない廊下を掃除している人がいた。
清掃をしてくれていた、
一人のおばさんだった。
正直に言うと、
私は長い間、
その人のことをよく知らなかった。
名前も、
ちゃんと覚えたのはかなり後だったと思う。
朝すれ違えば、
「おはようございます」
と挨拶する。
それだけだった。
いつも同じ時間にいた
朝、少し早く出社すると、
必ずその人がいた。
玄関。
廊下。
階段。
食堂。
トイレ。
黙々と掃除していた。
社員が出社し始める頃には、
床はきれいになっていた。
ゴミ箱も空になっていた。
誰かが汚した場所も、
いつの間にか元に戻っていた。
だから、
私たちはそれを当たり前だと思っていた。
きれいであることを、
当たり前だと思っていた。
「今日は早いですね」
ある朝、
私がいつもより早く会社に行った。
まだ人もほとんどいなかった。
その人が廊下を掃除していた。
私を見ると、
「今日は早いですね」
と笑った。
私は、
「そちらこそ、毎日早いですね」
と返した。
すると、
「みなさんが来る前に終わらせたいですから」
と言った。
それだけだった。
でも、
なぜかその言葉が少し残った。
汚れているところだけを掃除していたわけではなかった
ある日、
現場を歩いていると、
作業者の一人が、
「清掃のおばさん、よく見てますよ」
と言った。
何のことか分からず、
「どういう意味?」
と聞いた。
すると、
「床が濡れてるとすぐ拭いてくれるし、通路に物が出てると教えてくれます」
と言う。
さらに、
「前に油が少し漏れてたときも、最初に気づいたの、あの人ですよ」
私は少し驚いた。
ただ掃除をしているだけだと思っていた。
でも実際には、
毎日同じ場所を見ているからこそ、
小さな変化に気づいていた。
「昨日と違う」が分かる人
ある朝、
その人が私のところへ来た。
「ちょっといいですか」
少し心配そうな顔をしていた。
「工場の奥の方なんですけど、いつもと違う臭いがする気がして」
私は現場の担当者と一緒に確認した。
すると、
設備からわずかに油が漏れていた。
大きなトラブルになる前に、
対応することができた。
私はその人に、
「よく気づきましたね」
と言った。
すると、
「毎日通ってるから、何となく分かるんです」
と笑った。
そのとき、
私は少し考え方が変わった。
この人は、
会社を掃除しているだけではない。
会社を毎日見ている人なんだ
と思った。
名前を呼ばれない仕事
それでも、
その人の名前が会議で出ることはなかった。
改善提案の表彰にも出ない。
売上にも、
生産量にも、
利益にも、
直接数字は出てこない。
会社がきれいでも、
誰も褒めない。
でも、
ゴミが残っていればすぐ気づかれる。
トイレが汚れていれば、
誰かが文句を言う。
清掃という仕事は、
できていて当たり前。
できていなければ目立つ。
そんな仕事なのだと思う。
ある日、姿が見えなかった
ある朝、
いつもの場所に、
その人がいなかった。
珍しいな、
と思った。
次の日も、
いなかった。
聞くと、
体調を崩して休んでいるとのことだった。
その数日間で、
私は不思議なことに気づいた。
廊下の隅の小さなゴミ。
玄関の汚れ。
ゴミ箱。
洗面台。
いつもは気にも留めなかったところが、
少しずつ目につく。
そこで初めて、
毎日誰かがやってくれていたこと
に気づいた。
いなくなって、
初めて分かった。
戻ってきた朝
しばらくして、
その人が戻ってきた。
私は廊下で見かけて、
思わず声をかけた。
「大丈夫ですか?」
すると、
「もう大丈夫です。ご迷惑かけました」
と頭を下げた。
私は、
「迷惑なんて。むしろ、いないと大変でしたよ」
と言った。
すると、
少し驚いた顔をした。
そして、
照れたように笑った。
「そんなこと言ってもらったの初めてです」
その一言が、
胸に残った。
「私なんて、掃除してるだけですから」
少し話をするようになってから、
その人が何気なく言ったことがある。
「私なんて、掃除してるだけですから」
私は、
すぐに否定できなかった。
たぶん、
本人も本当にそう思っていたのだと思う。
でも、
私は言った。
「掃除してるだけじゃないですよ」
「毎日みんなが普通に働けるようにしてくれてるじゃないですか」
その人は、
少し黙った。
そして、
「そう言ってもらえると、うれしいですね」
と小さく笑った。
退職すると聞いた
それからしばらくして、
その人が辞めるという話を聞いた。
年齢的なこともあり、
家の事情もあったらしい。
私は、
「そうなんですか」
としか言えなかった。
でも、
なぜか寂しかった。
毎朝いるのが当たり前だった人。
会社の景色の一部になっていた人。
その人がいなくなる。
少し不思議な感覚だった。
最後の日
最終出勤の日。
いつもと同じように、
朝早くから掃除をしていた。
最後の日くらい、
少しゆっくりすればいいのに、
と思った。
でも、
いつも通りだった。
廊下を掃いて、
玄関を拭いて、
ゴミを集めていた。
その姿が、
かえって胸にきた。
昼前、
何人かの社員で声をかけた。
花束も用意した。
すると、
本人が驚いていた。
「私にですか?」
と言った。
誰かが、
「長い間ありがとうございました」
と伝えた。
すると、
その人は、
少し目を赤くしながら、
「私は何もしてないですよ」
と言った。
私は、
「いや、毎日ずっと会社を支えてくれてましたよ」
と伝えた。
その瞬間、
涙をこらえきれなくなったようだった。
若い社員が言った言葉
その場にいた若い社員が、
こんなことを言った。
「毎朝、おはようって言ってくれるの、結構うれしかったです」
別の社員も、
「自分が落ち込んでるとき、何も聞かずに声かけてくれましたよね」
と言った。
私は知らなかった。
清掃だけではなかった。
社員の顔も、
毎日見ていた。
元気がない人。
疲れている人。
いつもより早く来た人。
遅くまで残っている人。
その人は、
会社の誰よりも、
社員を見ていたのかもしれない。
「きれいにしておけば、気持ちいいでしょ」
最後に私は聞いた。
「長い間、どうしてそこまで丁寧にやってくれたんですか?」
すると、
その人は少し笑って言った。
「だって、みんな毎日ここで働くんでしょ」
そして、
「きれいにしておけば、気持ちいいでしょ」
それだけだった。
私は、
何も言えなかった。
特別な使命感を語るわけでもない。
誇らしげにするわけでもない。
ただ、
毎日来る人が、
少しでも気持ちよく働けるように。
それだけだった。
いなくなってから分かったこと
その人が辞めたあと、
別の清掃担当の方が来てくれた。
会社は変わらず動いた。
当然だ。
一人が辞めても、
会社は動く。
でも、
朝、
いつも声をかけてくれていた場所を通ると、
少しだけ寂しかった。
そして私は、
今でも思う。
会社を支えているのは、
売上を作る人だけではない。
設備を動かす人だけでもない。
会議で発言する人だけでもない。
誰にも見られないところで、
毎日同じことを、
きちんと続けている人がいる。
その人たちのおかげで、
私たちは当たり前のように仕事ができている。
最後に
清掃員のおばさんは、
「私は何もしていない」
と言った。
でも、
本当は違った。
毎朝、
会社をきれいにしていた。
小さな異変に気づいていた。
社員に挨拶していた。
疲れた顔をしている人を見ていた。
誰にも褒められなくても、
同じ仕事を続けていた。
派手な成果はない。
数字にも残らない。
でも、
確かに会社を支えていた。
私はあの人を見て、
仕事というものを少し考えるようになった。
誰かに評価されるから価値があるのではない。
誰かが気持ちよく働けるように、
誰にも見えないところで続けている仕事にも、
大きな価値がある。
あの人が毎朝きれいにしてくれた廊下を歩くたび、
今でも時々思い出す。
「きれいにしておけば、気持ちいいでしょ」
たったそれだけの言葉だった。
でも、
私はその言葉を、
たぶんずっと忘れないと思う。
