正しさ、と、わたし。

正しいことを言うとき、喉の奥が少し固くなる。
気づいたのは、わりと最近のことだ。言葉を選んで、整えて、角を丸めて、それからようやく口を開く。その一連の動作が、あまりにも自然になりすぎていて、長いあいだ、それが「考えてから話す」ということだと思っていた。
でも、違った。
あれは、縫っていたのだ。自分で、自分の口を。
外側からの正しさは、たいてい顔を持っていない。
特定の誰かが、わたしを縫ったわけじゃない。あの先生が、あの上司が、あの親が、という話じゃない。もっと、空気みたいなものだった。教室の中に満ちていた、あの圧力。職場の会議室に漂っていた、あの沈黙。家族の食卓に張りついていた、あの「普通」という基準。
名前のないものほど、逃げにくい。
誰かを責めることができないから。どこにも怒りをぶつけられないから。気づいたら内側に向かっていた。外側が正しさを求めているなら、自分が正しくなればいい。そのほうが、ずっと楽だったから。
子どものころの話をひとつ。
親戚が集まって、みんなで食事に行ったことがある。にぎやかなテーブルで、何が食べたい、と聞かれた。わたしは迷わず答えた。あれが食べたい、と。家でお母さんと一緒に食べて、おいしかったから。それだけの理由だった。
店を出たあと、母親がわたしの耳元でささやいた。
恥ずかしいことを言うんじゃない、と。
意味がわからなかった。おいしいと思ったものを、食べたいと言っただけだった。でも母親の声は低くて、冷たくて、わたしが何かとても悪いことをしたのだと教えていた。
その日から、何が食べたいか聞かれると、少し考えるようになった。
正しい答えを、探すようになった。自分が食べたいものではなく、ここで言っていいものを。誰かが食べたいと言ったものに、わたしも、と言うようになった。そのほうが、安全だったから。
思えば、最初の一針は、あのときだったかもしれない。
学校というのは、正しさの練習場だったと思う。
正しい答えを出すことだけじゃなく、正しくふるまうことを、毎日練習させられた。目立ちすぎない、外れすぎない、波風を立てない。そういう正しさを、誰も言葉にしなかったけれど、みんなどこかで知っていた。知っていて、従っていた。わたしも含めて。
会社に入っても、同じだった。
むしろ、洗練されていた。正しさに、もっともらしい理由がついていた。空気を読むことが、コミュニケーション能力と呼ばれた。本音を飲み込むことが、大人の対応と呼ばれた。針と糸に、ちゃんと名前がついていた。だから余計に、疑いにくかった。
たとえば、こういうことだ。
職場で、上司が言った。全員に等しく、優しい言葉をかけろと。
研修中に居眠りをする新人にも。週に一度は必ず休む部下にも。ミスをそっと指摘しただけで、傷ついたと騒ぐ人にも。
等しく、優しく。それが正しいのだと。
わたしは、そうですね、と言った。喉の奥が、少し固くなるのを感じながら。言いたいことはあった。それは優しさじゃなくて、摩耗の均等な分配じゃないですか、と。でも言葉は整えられて、角を丸められて、飲み込まれた。いつものように。
正しさは、こういう顔をしている。
声が大きくて、きれいな言葉を使っていて、反論しにくい。優しくあれ、という言葉に、誰が表立って逆らえるだろう。逆らった瞬間に、優しくない人間になるから。その構造ごと、正しさと呼ばれている。
針を刺す手が、また動いた。
おかしい、と思う感覚ごと、縫い込んでいった。
いつからだろう、と考える。
たぶん、かなり幼いころから。
場の空気を読みなさい、と言われた。相手の気持ちを考えなさい、と言われた。言わなくていいことは言わなくていい、と言われた。それは優しさの話として教わったけれど、今思えば、正しくあることの練習だった。正しい言葉を選ぶ練習。正しいタイミングで口を開く練習。そして、正しくない言葉を、飲み込む練習。
誰かに無理やり縫われたわけじゃない。
気づいたら、自分で針を持っていた。
そのことが、少し怖い。誰かのせいにできたら、どんなに楽だったか。でも針は、ずっと自分の手の中にあった。丁寧に、几帳面に、ほつれないように。自分で自分を、縫い続けてきた。
正しくあることは、いつの間にか、息をするのと同じくらい自然になっていた。
正しい言葉を重ねるほど、不思議なことが起きる。
ほんとのことが、どこにあるのかわからなくなってくるのだ。
怒っているのか、悲しいのか、それとも単純に疲れているだけなのか。感情に手を伸ばすたびに、指先が縫い目に触れる。ここは開けてはいけない、ここは正しくない、そういう判断が、感情より先に来る。
いつからか、自分の内側が、よくわからなくなっていた。
正しくあり続けることは、消耗する。でもその消耗にすら、気づきにくい。縫い目がきつくなるほど、痛みも感じにくくなるから。麻痺、と呼んでいいのかもしれない。正しさによる、静かな麻痺。
職場で、ある言葉を飲み込んだとき。
家族の前で、本音とは別の顔をしたとき。
大切な人に、大切なことを言えなかったとき。
そのたびに針を刺して、また縫う。上手になっていく。悲しいくらい、上手になっていく。
それでも、裂けるときがある。
計算を超えて、縫い目が耐えられなくなる瞬間。言葉が、整える間もなく出てくる瞬間。そういうとき、わたしはいつも少し、狼狽える。正しくなかった、と思う。余計なことを言った、と思う。
でも。
裂けた口から出てきたものが、いちばん本物だったりする。
不格好で、角があって、相手を傷つけるかもしれなくて、それでも、ああこれがわたしだ、と思う瞬間がある。縫い続けてきた場所から出てきた言葉だから、かえって、鮮やかだったりする。
正しさで縫われた口は、ほんとのことを言うたびに裂ける。
それは壊れることじゃないと、最近思うようになった。
裂けることは、たぶん、生きていることだ。完璧に縫い上げられた口は、もう何も言わなくていい口だ。裂けるということは、まだそこに、言いたいことがあるということだから。
上手に縫えなくてよかった、と思う。
不器用なままで、よかったと思う。
この口が、好きになれない日は、まだある。
正しくないことを言ってしまった夜、布団の中で反芻する。あの言い方じゃなかった、もっとうまくできた、と。針を持ち直して、また縫おうとする。その癖は、そう簡単にはなくならない。
でも以前と、少しだけ違うことがある。
裂けた場所を、すぐに縫い塞ごうとしなくなった。しばらく、そのままにしておくようになった。風が通る。痛い。でも、そこから自分の声が、ちゃんと聞こえる。
正しさは、悪いものじゃない。たぶん。
誰かを傷つけないために、場を壊さないために、正しくあろうとすることは、優しさと地続きだったりもする。でも、正しさだけで縫い上げた口は、いつか自分の声を忘れる。
忘れたくない、と思う。
でも同時に、こうも思う。
縫い続けてきた自分を、責める気にはなれない、
と。あれは臆病だったかもしれない。でも、それだけじゃなかった。誰かを傷つけたくなかった。場を壊したくなかった。大切なものを、守りたかった。針を持っていたのは、怖かったからだけじゃない。
不格好なりに、愛していたのだと思う。この場所を。この人たちを。
だから縫った。
正しさで縫われた口は、ほんとのことを言うたびに裂ける。それでいい、と今は思う。裂けながら、また縫いながら、それでもここにいる。
それが、わたしの生き方なのかもしれない。
正しさで きつく縫われた この口は
— mikiの小部屋 (@mikinokobeya) April 2, 2026
ほんとのことを 言うたび裂ける#短歌 https://t.co/oMLIbauaIp pic.twitter.com/iw2yXm6nTd
