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一ヶ月。⑥

主治医の口から告げられた言葉は、信じられないほど静かで、そして淡々としていた。

一一余命、あと一週間程度。

一昨日の夜の激しい急変。ICUの冷たい天井。そして、昨日蓮に気持ちを伝えたときの、あのみぞおちの奥が温かくなるような喜び。

そのすべてを、一瞬で真っ白に塗りつぶしてしまうような残酷な宣告。

「.....一週間、ですか」

僕の声は驚くほど冷静で、まるで他人事のように病室に響いた。医師が去り、静まり返った部屋の中で、僕はゆっくりと自分の手を見つめる。

昨日、蓮の温もりを感じた掌。昨日、蓮に「好きだ」と伝えて、包み込んでもらったばかりの、この手。

(.....なんで、今なんだよ.....っ)

込み上げてくるのは、自分に対する怒りと、どうしようもない悔しさだった。

やっと、自分の本当の気持ちに素直になれたのに。蓮も同じ気持ちでいてくれて、これから二人で、新しい毎日を重ねていけるって思っていたのに。

「.....う、あ.....つ」

声にならない悲鳴が喉を突き上げ、僕は枕に顔をうずめて必死に涙を堪えた。一週間。たったの、七日間。

今日、蓮が来たら、僕はどんな顔をすればいいんだろう。昨日あんなに幸せそうに笑ってみせたのに、「あと一週間なんだ」なんて、どうやって言えばいい?

棚の上に飾られた、紫のアネモネが視界に入る。

『君を信じて待つ』

君は待っていてくれたのに。僕は、もう君の待つ未来へ、一緒に行ってあげられないかもしれない。

胸を締め付ける強い痛みに耐えながら、僕はただ、開くはずのない病室のドアを、涙で滲む視界で見つめ続けていた。

「...透?入るよ?」

「.....っ!」

ドアの向こうから聞こえてきた聞き慣れた声に、僕は慌てて手で涙を拭い、無理やり顔を上げた。

「.....うん、どうぞ......っ」

精一杯いつも通りに返事をしたつもりだったけれど、ひどく掠れて震えた声は、隠しきれなかった動揺をそのまま映し出していた。

ガチャリ、とドアが開き、いつもの優しい笑顔を浮かべた運が病室に入ってくる。その手には、昨日までの花束とはまた違う、温かな気配が宿っているように見えた。

昨日、お互いの気持ちを確かめ合って、これからやっと新しい時間を始められると思っていた。

それなのに一ーたった今、僕に突きつけられた残酷な現実。

(どうしよう.......この笑顔に、なんて言えばいいの.....)

あふれ出そうになる涙を必死に飲み込みながら、僕は震える唇を無理に引き結び、ドアのほうへと視線を向けた。

「..泣いてた?...なんか、あった?」

「.....え?」

君のその言葉に、僕はハッと息を呑んだ。慌てて袖で目をこすったけれど、潤んだ瞳や赤くなった鼻の頭までは隠しきれなかったらしい。

「ううん、何でも......何でもないよ。ただ、ちょっと.....目がかすんだだけ」

必死に取り繕おうとした声は、自分で聴いても分かるほど情けなく震えていた。ごまかそうと笑ってみせたつもりだったけれど、その表情がどれほど引きつっていたかなんて、君にはすぐに分かってしまうだろう。

ベッドのそばまで歩いてきた君が、心配そうに眉をひそめて僕の顔を覗き込む。その温かい瞳を見た瞬間、さっき主治医から告げられた残酷な数字が、頭の中で再びグワッと渦を巻いた。

(一週間....。僕に残された時間は、あと七日しかない.....)

この優しい笑顔も、大きな手も、名前を呼んでくれる声も、あと少しで永遠になくなってしまう。
そう思っただけで、せっかく止めたはずの涙が、また視界を白く滲ませていく。

隠し通せないと悟った僕は、小さく震えながら、ぐっと唇を噛みしめた。君に心配をかけたくない。泣き顔なんて見せたくない。だけど、この胸にあふれる恐怖と絶望を、一人で抱えきれそうになかった。

「.....蓮......」

掠れた声で名前を呼ぶのが精一杯だった。僕は震える手を伸ばし、縋るように、君の服の裾をそっと掴んだ。

「.....どうしたの...って、顔、真っ青だよ。何かあったの?主治医の先生、何か言っていった......?」

僕が掴んだ服の裾を、君はそっと包み込むように自分の大きな手で覆った。その温もりが、冷え切った僕の身体にはあまりにも優しすぎて、かえって涙腺の堰を切らせてしまう。

ダメだ。言いたくない。「あと一週間しかない」なんて言ったら、君がどんな顔をするか、想像するだけで怖かった。昨日やっと結ばれたばかりなのに、神様はなんて残酷なんだろう。

「......ううん、違うの......つ」

首を横に振るけれど、ポロポロとこぼれ落ちる涙はもう止められなかった。声を押し殺そうとしても、喉の奥から鳴咽が漏れてしまう。

僕はもう、君の手をほどくことすらできなくて、ただぐっと目を閉じて、震える声を絞り出した。

「.....先生から、お話があって.....」

そこで言葉が詰まる。言えば、この幸せな時間が終わってしまう気がした。この温もりを、自分で壊してしまう気がした。

だけど、君に嘘をつくことなんてできなかった。隠し通せる自信も、もうなかった。

「....余命、だって....。あと、一週間しか.....ないって.....っ」

最後の言葉は、消え入りそうな掠れた声だった。それを聞いた君がどんな表情をするのか、怖くて見られない。僕はただ、君の服の裾を強く握りしめたまま、ぐしゃぐしゃになった顔を覆って泣くことしかできなかった。

「.....そっ、か.......」

君のその掠れた声が、静かな病室にぽつりと落ちた。予想していたような叫び声や、否定の言葉は聞こえない。あまりにも静かすぎて、かえって胸が締め付けられた。

おそるおそる顔を上げると、目の前にいる君の顔は、驚きと絶望で真っ白に染まっていた。開いた口がわずかに震え、大きく見開かれた瞳からは、僕の手をすり抜けるように、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちていく。

いつも僕を支えてくれる君が、あんなふうに子供のように震えている姿を見るのは初めてだった。

「...........っ」

名前を呼ぼうとしたけれど、喉がつかえて声にならない。君は震える両手で顔を覆い、必死に声を押し殺そうとしながら、その場に崩れ落ちるように膝をついた。

「ごめん......ごめんね、蓮.....っ」

僕が、こんな身体じゃなければ。あと一週間なんて残酷な宣告を、君に背負わせてしまわなければ。あふれる申し訳なさと恐怖で、僕は自分の体を抱きしめ、ただ泣くことしかできなかった。

どれくらいそうしていただろう。突然、冷え切った僕の体を、強い力が包み込んだ。

「.....謝らないで、透.....」

震える声でそう呟きながら、君は僕を病室のベッドごと、壊れてしまいそうなくらい強く、しっかりと抱きしめてくれた。君の肩から伝わってくる熱と、抑えきれない嗚咽が、僕の胸を激しく打つ。

「一週間でも.....明日でも、同じだよ。僕は、透が好きだもん.......」

その言葉は、どんな魔法よりも力強く、僕の凍えた心を温めた。泣き濡れた顔のまま、僕は震える腕を精一杯伸ばし、君の背中にそっと手を回す。

もう、残された時間がどれだけ短くてもいい。この瞬間、僕たちが互いを求め合い、確かに心を通わせているという事実だけで、生きてきた意味があったと思えた。

窓の外では、残酷なほどに美しい青空が、僕たちの未来を急かすように広がっていた。

「..透、今日は、ね、約束、したいことがあって。」

君の震える手が、僕の肩をそっと優しく包み込んだ。涙に濡れたその瞳は悲しみに満ちていながらも、どこかまっすぐで、強い光を宿していた。

「約束.....?」

掠れた声で問い返しながら、僕は胸の奥が締め付けられるような切なさと、君が何を言おうとしているのかという期待に息を呑んだ。

残りわずかな時間の中で、君が僕と交わしたい「約束」とはーー。

僕は君のまっすぐな瞳を見つめ返し、震える指先でそっと君の袖を握りしめながら、続きの言葉を待った。

「...透は、来世って、じる?」

思いがけないその問いに、僕はわずかに息を呑んだ。

「来世......」

残された時間が一週間と告げられたばかりのこの場所で、「来世」という言葉を口にする君の真意を測りかねて、僕はかすかに瞳を揺らした。

それでも、まっすぐに僕を見つめる君の真剣なまなざしに導かれるように、僕はゆっくりと言葉を探す。

「.....ううん、今までそんなこと、考えたこともなかったよ。でも.....」

ベッドのシーツを握りしめていた指に、少しだけ力を込める。

「蓮がそうやって訊いてくれるなら.....信じたいって、思う。来世があるなら、今度こそ、こんな病院のベッドの上じゃなくて.....もっとちゃんと、健康な体で、君の隣にいたいって、そう思うよ」

それがどんなに切ない願いだとしても、君が切り出したその話題に、僕は自分の偽りのない本音をそっと差し出した。

「....ねえ、来世でどうしたいの?」

震える声を落ち着かせながら、僕は少しだけ笑みを浮かべ、君の次の言葉を待ち焦がれた。

「..来世でも、また会おう。」

「っ.....!」

その言葉を聞いた瞬間、止まっていたはずの涙が、再びあふれて視界を完全に奪っていった。

「また......」

震える声でその単語を繰り返すのがやっとだった。医療機器の電子音と、窓の外を通り過ぎる風の音だけが響く静かな病室で、その一言があまりにも大きくて、温かくて、そして切なくて、胸の奥が激しく掻きむしられる。

死の恐怖に法え、あと一週間という絶望の淵に突き落とされていたはずの僕の胸に、その言葉は一輪の花が咲くように、眩い光をもたらした。

「......ずるいよ、そんなの.....」

泣き笑いのような、ぐしゃぐしゃの顔で、僕は精一杯の力を振り絞って君の首に腕を回した。もう病気の苦しさも、残された時間の短さも、この瞬間だけは関係なかった。

「来世なんて......ずるい約束、するんだもん......」

それでも、拒む理由なんてどこにもなかった。むしろ、それこそが今の僕にとって、何よりも欲しかった未来だったから。

「うん......約束する。来世では、絶対、病気なんかに負けないから。健康になって、元気に生きて.....また、会おう.....つ」

かすれて途切れ途切れになりながらも、僕ははっきりと、その誓いを口にした。

君の大きな胸に顔をうずめ、その温もりを全身で感じながら、僕はこれからの七日間を、そしてまだ見ぬ来世の約束を、すべて抱きしめるように強く、強く、しがみついた。

壊れ物を扱うように、けれど決して離さないという強い意志を込めて、君は僕の体をさらに強く、深く抱きしめてくれた。

背中に回された君の腕から、体温が、鼓動が、そして溢れんばかりの愛おしさが、ダイレクトに僕の心へと流れ込んでくる。君の胸元に顔をうずめたまま、僕はもう隠すこともせず、ただ子供のように声を上げて泣いた。

悲しみからの涙じゃない。絶望に沈んでいた僕の手を、君が未来へと繋ぎ止めてくれた歓びの涙だった。

「.....蓮.....すき、だよ.....大好き.....っ」

うまく回らない舌で、何度も、何度もその言葉を紡ぐ。酸素カニューラが少しずれても、そんなことはどうでもよかった。今、この腕の中にいる温もりこそが、僕の全てだったから。

どれくらいそうしていただろう。激しく揺れていた呼吸が、君の大きな背中を撫でる手の動きに合わせるように、少しずつ穏やかになっていく。

やがて、僕はゆっくりと顔を上げ、涙に濡れて赤くなった水色の瞳で君を見つめた。不安も恐怖も消えてはいないけれど、その奥には、あの紫のアネモネのように揺るぎない光が灯っていた。

「ねえ、蓮....」

掠れた、けれどどこかすっきりと澄んだ声で、僕は微笑んでみせる。

「残された一週間、ずっと....僕のそばにいてくれる?」

それはもう、疑問形なんかじゃない。今日から始まる奇跡のような時間を、一瞬たりとも無駄にしないための、僕たち二人の新しい「今」の始まりの言葉だった。

「.....うん」

そのたった一言が、どんな誓いの言葉よりも強く、僕の胸の奥深くまで響いた。

君が頷きながら見せてくれた涙混じりの笑顔は、これから始まる僕たちの残された時間を、何よりも温かく、輝かしいものに変えてくれる。不安が全く消えたわけじゃない。あと一週間という終わりが、すぐ目の前に迫っている恐怖だって消えるわけじゃない。

それでも一ーもう、怖くなかった。

僕はゆっくりと腕を伸ばし、君の頬にそっと手のひらを添えた。ひんやりとしていた僕の手のひらを、君が自分の温かい手で包み込むように上から重ねてくれる。

「ありがとう、蓮......。残りの一週間も、その先もずっと.....僕の隣にいてくれて、本当にありがとう」

かすれた、でも晴れやかな声でそう告げると、僕は愛おしさを噛み締めるように、君の額にそっと自分の額を寄せた。

窓の外では、今日も変わらず青空が広がっている。その空の下で、僕たちは今、世界で一番強い絆で結ばれていた。

たとえ終わりが来ようとも、この胸に刻まれた温もりと愛しい記憶は、きっと来世の僕たちへと続いていく。そう信じながら、僕は君の温もりを感じつつ、穏やかに目を閉じた。

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