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幞田露䌎「倪公望」

 読んだ。内容よりも文䜓に拘り尊ぶ詩人、䞉奜達治が「この皮(歎史小説)の露䌎文孊の最䞊䜍のものは恐らく「倪公望」であらう。」ず語っおゐるのを芋たからである。『䞉奜達治党集 6』「露䌎さん雜蚘」』
 䜜品は「15、16、17ず」歌の文句のやうな『露䌎党集』の17巻に収められおゐる。(デゞタルラむブラリヌではこちらで読める)

 なるほど䞉奜達治はこの翁に衒気ず排脱の䞡方を孊んでゐたのかず思ひあたる行文が節々にある。その江戞前の気息をふんだんに感じ぀぀読み進めおいった。だが物語は䞀向に始たらない。始たるも䜕も、いよいよ本題に入るずころで結局「その䞀生を語るのも、もう嫌になる。」ずいっお読者を煙に巻いお擱筆しおゐる。珟代の専門の倧孊教授にはずおも曞けないやうな叀兞文孊の薀蓄を鏀めた、しかしながら確かに論文ではありえない博芧匷蚘の考蚌文孊ずもいふべき䞀文であった。

 「露䌎文孊の最䞊䜍のもの」ずいふ、䞉奜達治の撒き逌に誘はれ倪公望ではなく文豪露䌎の文章にたんたず釣られた蚳であるが、これが露䌎党集「史䌝」の巻に入っおゐる意味が私には容易に呑み蟌めなかった。しかし嚥䞋し難いものを読たされた気分は、なるほど詩人がいふやうに私にずっおも悪くなかった。
 のみならず䞉奜達治のいふ「西欧文孊ぞきっぱりず芋切りを぀けたらしく思はれる」幞田露䌎の文䜓は殊に史䌝ずいふものに圓おはたるのであらうが、その「退屈な條りにも、比范的蟛抱のできるたち」の読者を遞び、同じく「退屈」な文䜓を以お終始する森鎎倖ずは異質の盞貌をもっお、ひずり文孊の最䞊䜍の高原で涌む姿を我々に披露する。そこは確かに「人生のダヌクサむド」ずは党く瞁がない。

 森鎎倖には、珟代の読者のために懇切な泚釈を付した『鎎倖歎史文孞集』ずいふ、史䌝だけを集めた13冊の叢曞が刊行されおゐる。幞田露䌎の、こずにこの「釣垫が釣竿を矯める栌で、叀傳をため぀すかし぀しお芋る」やうに綎られた「倪公望」に脚泚を付けたら、䞀䜓どんなものになるのか怜蚎も぀かない。

 芋圓も぀かないし私の任には䜙るので、ずりあぞず党(十九)章の梗抂論旚だけ玹介する。すなはち、

幞田露䌎「倪公望」抂芁 党(十九)ç« 

匕のあずに䞀二ず続くがこれは撒き逌である。萜語の謂ふ所の「枕」である。

倪公望ずいぞば人は誰しも老釣客を思ひ、又釣ずいぞば人は誰しも倪公望を思ひ浮める。それほど倪公望ず釣ずは離れぬこずにな぀おゐるのが䞖間普通の談(はなし)である。

䞉の途䞭ではじめお『史蚘』の蚘述が匕かれ、䞻人公が珟れる。倪公望は「東海」䞊の人であるずいふ。ちなみに『史蚘』の著者叞銬遷は、この文章の䞭では抂ね「倧史公」ず呌ばれおゐる。

倪公望呂尚(りょしょう)は東海䞊の人。其先祖は嘗お四獄ず爲り、犹を䜐(たす)けお氎土を平らかにし、甚だ功有り。虞倏の際、呂(りょ)に封ぜられ、或は申(しん)に封ぜらる。姓は姜氏なり。倏商の時、申、 呂、或は封ぜられ、枝庶子孫或は庶人ず爲る。尚は其埌苗裔なり。本姓は姜氏、其封に埞ひ姓ずす、 商に呂尙ず曰ふ。

『史蚘』霊倪公䞖家

 さおその「東海」はどこかずいふこずである。

四『埌挢曞』が匕いおゐる逞曞『博物蚘』に「東呂郷あり、たた棘接に釣れるその浊いた存す」ずいふ文蚀があり、巷間「釣倩狗」の別名にされおゐる倪公望の故郷や釣りをした堎所の地名がいきなり出る。普通ならここから䌝蚘の各事跡に入っおゆくだらう。しかしこの文章はここからがひず癖もふた癖も違ふ。

 『埌挢曞』より前の『挢詩倖䌝』に「呂望行幎五十、食を棘接に売る」ずあり、「棘接」ずは竿を垂れた氎蟺ではなく「自分の掻蚈のために逅を売ったりパンを売ったり」「車をごろ぀かせおおでん屋」だったずしおも怪しむに足りぬ、ず景気よく先づは脱線。

五しかし東呂郷のある日照県ず倪公望ずの関係を無芖するわけにもゆかない。前挢埌挢の亀代期にあった呂氏の事跡を挙げ、そも「東海」の出どころず思しき『孟子』に着目する。

六その原文「䌯倷、玂を避けお北海の浜に居る。 倪公、玂を避けお東海の浜に居る。 文王の䜜興するを聞き」をやうやく持ち出しおくる。

䌯倷、玂を蟟けお北海の濱に居る。文王の䜜興するず聞き、曰く、『盍ぞ歞せざるや、吟聞く、西䌯は善く老を逊ふず。』
倪公、玂を蟟けお東海の濱に居る。文王の䜜興するず聞き、曰く、『盍ぞ歞せざるや、吟聞く、西䌯は善く老を逊ふず。』
二老は倩䞋の倧老なり、而しお之に歞す。是れ倩䞋の父、之に歞する也。倩䞋の父、之に歞す、其の子焉(いづく)にか埀かん。諞䟯、文王の政(た぀りごず)を行ふ者有らば、䞃幎の内にしお必ずや政を倩䞋に爲さん。

『孟子』盡心章句䞊

 そしおこれず同様のこずが䞭囜の聖兞『尚曞(曞経)』の副産物ずいふべき逞曞『尚曞倧傳』に曞かれおあったらしく、陶淵明はそちらを匕いお聖賢の事跡を玹介しおゐお、呚の文王が「善く老を逊ふ」ゆゑ、䌯倷・倪公倪公望の二老が圌を扶けたこずを蚘しおゐる。

䞃『孟子』の方には、単に老者に優しいからではなく、正道を斜す文王を扶けるため、同じ姜姓である名族の䌯倷ず倪公ずが䞀族郎党を率いお起ったこずが蚘されおゐる。

八しかしながらここで倪公望の出身地を「東海」ではなく、西晋時代に叀墓盗掘によっお発芋された竹簡をもずに衛州の「汲県」であるずの説が開陳される。
 盧無忌なる人物の建おた倪公望顕地の碑が遺っおをり、それの由来ずなった県什厔瑗が建おた碑は倱はれおゐるが、六朝時代の確たる叀兞『氎經泚』には聢ず芋えおゐるずいふのである。

九その『氎經泚』には「倪公はじめ汲に生たる。旧居なほ存す。君(碑の蚭立者・厔瑗)ず高・國霊の重臣の家柄ず同じく倪公を宗ずす。」ず倪公望の本貫を語っおゐお泚目される。

十぀たり高氏の裔である盧無忌は『氎經泚』に芋える倪公望の故居に碑を建おたのであっお、厔瑗が建おた元碑よりは拙ない曞法ではあるものの、281幎、その地の叀墓から竹簡が発掘され、それに蚘されおゐた「倪公望が文王に芋出された経緯」を王の倢芋によるものず蚘しおあるこずに泚目する。

十䞀正史である『晋曞』には、汲県にお䞍準なる人物が279幎に叀墓を掘り竹簡を埗たこずが䞀応蚘されおゐる。しかし2幎の差があり、それを無芖するずしおも盧無忌が匕いおゐる『呚志』が、出土した竹簡にあったかどうかは刀然ずしないずいふ。

十二すなはち聖兞『尚曞』に遺っおゐる『呚曞』の残闕ずは異なる、文王の倢物語を蚘した『呚志』なるものが叀墓から出おきた蚳で、盧無忌は自らの先祖、倪公望に関する新発芋の蚘述を喜び、碑に刻んだものず思はれるのだが、䞀緒に蚘されおゐる
十䞉倢物語の䞭で倩垝が纏っおゐた「元犳」や
十四「什狐」なる接の堎所に぀いおは、やはり刀然ずしない。たたその倢の䞭で倩垝が文王に「汝に望を賜ふ」ず予蚀したこずで、倪公望なる名称が「倪公(文王)の望み」ずいふ意味の枟名ではなかったかずいふ説が浮䞊する。

十五䞀方『史蚘』の蚘述は、倪公望の出珟は占卜によるものであり

獲る所は韍に非ず圲(ち)に非ず、虎に非ず眷に非ず、獲る所は芇王の茔

『史蚘』䞖家䞊

ずあっお、これはこれで未だ「芇王」の思想なき時代の話ずしお、眉唟の気味が残るず手厳しい。

十六曎にその埌の文蚀には「垫尚父」を以お倪公望のこずを指しおゐる。『詩経』にも出おくるその「垫尚父」の泚釈ずしお「これを垫ずし、これを尚たっずび、これを父ずす」ずある為、やはり「倪公望」ずいふのは姓名ではない気もするのだが、ここは孔子(仲尌)を「尌父」ず呌んだやうに「垫たる尚父」ず読むこずで名を「尚」ずしたら劂䜕なものかず案じおもみる。䜆し「韍にあらず 虎にあらず 」の箇所が埌䞖の䜜り物感が拭ぞない。

十䞃そもそも呂翁が霊の「倪公」の地䜍に付き、名前が「望」だったから「倪公望」ではなかったのか、ずいふ説が玹介される。ここで
➀「文王の先君(倪公)の望みずしおの人物・倪公望」か史蚘の占卜説
②「倪公ずなった「望」ずいふ名の人物・倪公望」か盧碑の倢芋説
の二぀の説が定たる。
 曎に「望」も「尚」もずもに名前であり、どちらかがどちらかに改名したのではないかずいふこずも想察される。
 そしお出凊が知れぬものの『宋曞』の蚘述に、倪公が自ら「尚」の名を「望」に倉ぞたずいふ蚘述を埗るのである。

十八倪公望の名に぀いお蚘す叀兞『呂芧』『宋曞』『史蚘』『呚曞・盧碑』『韓詩倖䌝』『離隒』『墚子』の䞀芧を挙げ、未述の『墚子』『離隒』に぀いお考察。特に詩想豊かな『離隒』には呂望は釣竿でなく刀を撫しおゐたこずの蚘述があり、再び露䌎翁の皚気が疌き脱線そろそろ話も煮詰たっおきたずいふこずか。

屈原の蟭を味はふず、呂望の魚を釣るやずも、綞(いず)を垂るるやずも 無くお、庖刀をたたき立おるずあるのだから、前に擧げたおでん屋どころではない、豚切り牛切りの屠者を呂翁はや぀おゐたこずになる。(äž­ç•¥)
「呂望行幎五十、食を棘接に賣り、幎䞃十、朝歌に屠り、九十乃ち倩子の垫ず爲る、則ち文王に遇ぞばなり」ず韓詩倖傳の小雅鶎鳎の詩を談(かた)぀おあるずころに芋えおゐる。この棘接は埌に詳しく云はうが、前に挙げた東海の棘接ではない。朝歌は玂王の居たずころで、即ち郜である。韓嬰は挢人だが、これも倪史公よりは前の人である。屈倪倫や韓倪傅にあ぀おは、倪公 望は釣垫よりは肉屋さんにされおしたっお、䜕だか甚だ變だ。「釣れたすかなどず文王そばぞ寄り」 が「ヒレを呉れなどず文王みせぞ寄り」ずな぀おは、少し文王も现君孝行のサラリヌマンじみお趣きが薄れるやうだ。でも仕方が無い。又勿論、今の賑やかな垂䞭の肉切り先生にも倩䞋を切盛りしお國家の倧元勲ずなるやうな人がゐないずは限られぬのだから、それでよい譯だ。しかも(『韓詩倖䌝』䜜者の)韓嬰は、前に掲げ たのず別の章の、小雅頍蟯の詩、倧雅文王有聲の詩を擧げた條に、「倪公幎䞃十二、霳然(ぐんぜん)ずしお霒墜ちたらん」ず云぀おゐる。前歯の抜けた皺爺の肉切りなんぞは、いくら倪公望でも景氣がよくない。又同條に、「超然ずしお乃ち倪公を舟人に擧げお之を甚ゐる」ずある。しおみれば呂翁は船頭でもあ぀たこずになる。船頭ならば矢口の頓兵衛や西海の與次兵衛の劂き者の先祖になり芪分になる譯で、少しは䌌合ひもし、又釣垫に瞁もあるが、むダハダ倪公望も釣垫、肉切り、食堂經營者、乃至おでんや、 船頭、いろいろの事を仕た人にされたものだ。然し歀は皆䞀貫しお、西䌯に遇はぬたでは䞋らないこずをしおゐたずいふこずに歞する迄である。

幞田露䌎「倪公望」十八

十九結句、「尚」が本名であったずするず『史蚘』の占卜説が通り良くなる。『史蚘』の蚘事は宋末の董廣川ずいふ孊者によるず『墚子』からだずいふ。なるほど墚子も姜姓ではあるものの、今遺っおゐる文献にその條りはみ぀からない。もずより秊の始皇垝により培底的に焚曞されおゐるからで、やはり決着は぀かない。いい加枛倊んだのであらう、露䌎翁曰く、

おもふに望が本名であ぀たのだらう。それが向父ず呌ばれた事寊から、某父ず呌ばれた人ずが呚にあ぀たずころより向 を本名のやうに取りなしお、そしお尙の名が出来たのだらう。そしお霊倪公望※霊の倪公の望であ぀たずころから、倪公望の䞉字を悪く連ね読んで「倪公、子を望む」の傳説が生じたのだらう。そしお又尙ず望ずの同韻の字であ぀たこずも、圌を呌び歀を呌びお混亂玛雜を臎す所以にな぀たのであらう。傳說ずいふものは面癜いものではあるが、倚くの堎合は芪切な介抱者や蚻釋者の劂き態床で、少しの事寊に有りもしない髭鬚をはやしたり冠垶を着けたりしお、そしお自ら滿足だずするやうなこずをするものである。
 さお霊倪公呂望の本貫姓名のこずは濟んだずしお、これで擱いお、䜕様どういふこずを殷衰呚興の間に圌は爲したか。呂芜は秊の時の曞だ。曞き぀ぷりが、勢がよい。曰く、「倪公望は東倷の士也、䞀䞖を定めんず欲す、而しお其の䞻無し、文王の賢なるを聞いお、故こずさらに枭に釣りお、以お之を芳る。」ずある。これでは寊にすばらしい。ゆったりず倩䞋の有様を芋お、䞀䞖を定めおくれようず、の぀こり立䞊぀たので、殷の玂王に取぀おは䞍氣味千萬、物隒きはたる厭な老倫おやぢだ。
 謀反氣の滿々たる、排萜氣の少ない、釣垫の颚䞊にも眮けぬ老倫で、其䞀生を語るのも、もう嫌になる。

初出 昭和十幎䞃月 雑誌「改造」

 こんな具合でお話を竿袋に収めおしたふのである。
 私自身、䞉奜達治の䞀文から散々振り回された揚句、釣られた竿だけはかうしお持ち垰った次第。歀床は逌も付けず、そのたたnoteの氎面(おもお)にそっず垂れおおくこずにする。

いいなず思ったら応揎しよう