石だけが全部知っている
人はなぜ城に惹かれるのだろう。
歴史好きにも様々なタイプがいる。合戦や武将に興味を持つ人もいれば、建築や縄張りに魅力を感じる人もいる。
しかし、僕が城に惹かれる理由は少し違う気がする。いや、城巡りをするほどではないのだが、城を見ればテンションが上がるし、その土地土地を巡れば観光名所として名が上がる名城にはやはり足を向けている。
城そのものではなく、その場所に積み重なった時間に惹かれているのだ。
先日、現存天守は全国にわずか12城しかないと知った。日本には数え切れないほどの城が存在したにもかかわらず、多くは明治の廃城令や戦災、火災などによって失われてしまった。
それでも人は城を訪れる。
なぜだろう。
天守が残っているからではない。
むしろ、何も残っていない城跡にこそ、人は心を動かされることがある。
石垣だけ。
堀だけ。
草に埋もれた曲輪だけ。
そこに立つと、自然と考えてしまう。
この石を運んだ人は誰だったのだろう。ここで笑った人、泣いた人もいたのだろうか。そして、どんな思いでこの場所を去ったのだろうか。
人は死ぬ。
記録は失われる。
伝承も形を変える。
しかし石だけは残る。
だから歴史ある場所を訪れるたび、僕は同じことを感じる。それは城に限らずだ。
古代遺跡もそうだし、失われた都や、全国に点在する神社仏閣もそう。歴史の舞台となった場所や、そこに残る建物。
僕は真実を知りたいわけではないのかもしれない。
むしろ、
「ここで何があったのだろう」
という想像の余白に魅力を感じている。
だから日本人の城への思いは、西洋のそれとは少し違うようにも思う。
ヨーロッパの城は、王侯貴族や国家の象徴として存在しているものが多い。そこには壮麗な建築への感動や権威への憧れがある。ノイシュバンスタイン城なんて、やっぱり行ってみたい。
しかし日本の城は違うのだ。
人々が見ているのは天守ではなく、その向こうに消えた時間だ。
桜が散るから美しいように。
平家が滅んだから語り継がれるように。
城もまた、失われたからこそ人の心を打つ。
高齢者福祉の仕事をしていると、懐メロを聴く機会も、なんなら歌えるようにもなる。
三橋美智也の「古城」という歌がある。
儚くて、うら寂しい情景と物語が浮かぶ。日本人なら琴線に触れる時代を超えた名曲だ。「古城」が今なお歌い継がれるのも、きっと同じ理由なのだろう。
あの歌は城を歌っているようでいて、実は過ぎ去った時代を歌っている。
ただ、不思議なのは、現存天守であろうが復興天守であろうが、城を見るとやはりテンションが上がることだ。
考えてみれば、城は人類最大級の「ロマン装置」なのかもしれない。
高い石垣や巨大な堀。空に向かってそびえる天守。それだけで日常から切り離された感覚になる。
さらに城は、その時代の政治や経済、軍事の中心地だった場所だ。現代の県庁や市役所、銀行や警察本部をひとまとめにしたような場所に、僕らは今立っている。
そう思うと胸が高鳴る。
そして城には必ず物語がある。
誰が築いたのか。
誰が守ったのか。
誰が攻めたのか。
誰が裏切ったのか。
城を見た瞬間、そんな物語の入口に立ったような気分になる。
だから現存か復興かは、本当はそれほど重要ではないのかもしれない。
僕たちは建物を見ているのではない。その場所に積み重なった時間を見ている。そこに残された沈黙に耳を澄ませているだけなのかもしれない。
石だけが全部知っている。
歴史は時間を越えて、今と地続きだ。歴史の呼吸を感じるために、人はまた、城を訪ねる。今も歴史は続いている。

