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満開の桜を、花咲かじいさんの夢

三月の旋律、光がやわらぎ、空気に水の匂いが混じりはじめるころ、わたしたちは桜のつぼみを見上げる。
まだ咲いてもいないのに、胸がほどける。日本人にとって「咲く」という出来事は、自然現象であると同時に、心の季節でもある。

そんな時期に思い出すのが『花咲かじいさん』である。

 日本昔話より「はなさかじいさん」
 文 武鹿悦子 絵 松永禎郎
株式会社フレーベル館

灰をまけば枯れ木に花が咲く。
荒唐無稽な物語に見えて、その実、語っているのは魔法ではない。よい翁は、犬を慈しみ、理不尽に遭っても怨まず、ただ目の前の命と誠実に向き合う。その積み重ねが、やがて花となって現れる。

彼は「咲かせよう」と力まない。
ただ、咲くのである。

この姿は、日本文学の深いところに流れる美意識と響き合う。

『徒然草』で、吉田兼好は…
「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」

満開の花ばかりがよいのではない。曇りのない月だけが美しいのでもない。散り際の花、雲間の月、完成に至らぬ姿にこそ心は動く、と。
そこには、絶頂よりも余韻を愛する感性がある。

また『方丈記』で、鴨長明は…
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」

流れ続ける川も、同じ水ではない。都も、人の栄華も、やがて移ろう。長明はその無常を見つめ、小さな庵に身を置き、四季のかすかな気配を友とする。大きな成功よりも、移ろいを受け入れる静かな暮らしを選ぶのである。

花咲かじいさん翁もまた、永遠の繁栄を望んでいるわけではない。一瞬でも枯れ木に花が戻れば、それでよい。そのはかなさを受け入れているからこそ、花は軽やかに咲く。

はなさかじじい (童謡)レコード版
Youtube登録:日本大衆文化倉庫

一方、隣の翁はどうか。
彼は結果を再現しようとする。同じ灰をまけば、同じ花が咲くと考える。だが彼の灰から立ちのぼるのは、花ではなく煙である。そこにあるのは、他者へのまなざしではなく、むき出しの欲である。

日本文化において、もっとも好ましくないのは、欲そのものよりも、その露骨さである。急ぎすぎる成功、誇示、分を越えたふるまい。調和を乱すふる舞いは、物語のなかで軽やかに退けられる。

桜は競わない。
いっせいに咲き、いっせいに散る。

満開はやがて過ぎると知っているからこそ、わたしたちは見上げるのである。

『徒然草』も『方丈記』も、『花咲かじいさん』も、声高に道徳を説かない。ただ、満ちきらぬもの、移ろうもの、戻らぬ時間をそっと差し出す。そして問いかける。

その灰は、祈りか。
それとも欲か。

桜はもうすぐ咲く。
そして散る。

散ると知りながら咲く花を、美しいと感じる心。その心こそが、この国の物語がそっと守り続けてきた、美意識なのである。

                 □

「花咲かじいさん」のようになりたい、という人がいる。
無我の精神をもち、見返りを求めず、なにかできることをやろうとする姿勢は、物語の花咲かじいさんのようである。kyotoKは心の底から願うこと、それは無我の境地で「花咲かじいさん」をする人がいっぱい日本にいてほしいということ。日本人でなくてもいい。なにも求めず、花を咲かせることに夢を求める人。そんな人がいっぱいいたら、困っている人や、悩みの多い人に少しは幸せを感じていただけないだろうか…。

隣りの翁に似た人に出会うことが多かった。総じて嫌なタイプだった。最後まで本当のことを言わなかった。やめておけばよかったという思いに悩まされた。ただ、悲しい現実は、日本、いえ世界中にもっとも多いのがこのタイプではないだろうか。また、もっとも成功している人も、やはり隣りの翁タイプではないだろうか。そう思うと未来に夢がなくなるけれど、せめて「花咲かじいさん」が増えていくことを願いたいと思う、今日この頃である。

花咲かじいさんが枯れ木に花を咲かせた夜
大好きなあの川沿いへ、夜桜見物にでかけた


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