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子どもは、大人が「何を守る人なのか」を見ている 〜バリー・リンドン〜

子どもは、大人が口で教えることより、その人が「何を守ろうとしているか」を見ているのではないか。

「そんな言い方しないの」

「人の気持ちを考えなさい」

「ずるいことはしない」

子どもと暮らしたり、教室で過ごしたりしていると、こういう言葉を使う。

言った瞬間は、たぶん本気だ。

人を傷つけないでほしい。
正直であってほしい。
困っている人には優しくしてほしい。

けれど、ときどき妙な瞬間がある。

子どもに「怒鳴らない」と言いながら、こちらが怒鳴っている。

「失敗しても大丈夫」と言いながら、テストの点を見た途端に顔が曇る。

「人と比べなくていい」と言いながら、兄弟や友達の名前を出してしまう。

そして子どもは、そういう矛盾を、思っている以上によく見ている。

こちらが話した「正しいこと」よりも、

何に怒ったのか。
何を恥ずかしがったのか。
誰の前で態度が変わったのか。
何だけは絶対に譲ろうとしなかったのか。

そちらのほうを、静かに覚えているのかもしれない。

スタンリー・キューブリックの『バリー・リンドン』を観ていて、何度もそんなことを考えた。



主人公レドモンド・バリーは、何も持たない青年として物語を始める。

恋をして、決闘をして、故郷を離れ、兵士になり、脱走し、賭博の世界に入り、やがて裕福なレディー・リンドンと結婚する。

彼は少しずつ階段を上っていく。

金を手に入れる。
大きな屋敷に住む。
貴族たちの間に入り込む。

それでも、足りない。

欲しいのは「爵位」だった。

ただ豊かであるだけでは足りない。

自分がここにいてよい人間だと、社会そのものから認められるような名前が欲しい。

『バリー・リンドン』は、そんな一人の男の上昇と転落を、驚くほど美しい画面の中に置いていく。

蝋燭の光。
絵画のような庭園。
完璧に整えられた衣装。

画面だけを見れば、そこには秩序がある。

ところが、その整った景色の内側では、人間たちはずっと不安定だ。

愛されたい。
認められたい。
馬鹿にされたくない。
負けたくない。

バリーもまた、その不安から自由ではない。

そして彼のそばには、その姿を見ている子どもがいる。

レディー・リンドンの息子、ブリンドン卿だ。



ブリンドンにとって、バリーは「立派な大人」には見えなかっただろう。

母の夫として家に入り込み、財産を使い、女遊びをし、自分には強い態度を取る。

そしてバリーには、レディー・リンドンとの間に生まれた実の息子ブライアンがいる。

バリーはブライアンをかわいがる。

その愛情自体を責めることはできない。

むしろ映画の中で、ブライアンに向けられるバリーの愛情は、彼の中に残っていた柔らかな部分のようにも見える。

けれど、ブリンドンの位置から同じ家族を眺めたら、景色はまったく違うのではないか。

自分には厳しい男が、別の子どもには笑いかける。

自分の母親は、その男に傷つけられているように見える。

それでも家の秩序は、その男を中心に回っている。

大人たちは礼儀正しく振る舞い、美しい服を着て、音楽を聴き、格式を守る。

なのに、その家の中で起きていることと、外に見せている姿は、どうも一致しない。

子どもは、こういうとき何を見るのだろう。

大人の説明だろうか。

それとも、大人が実際に選び続けているものだろうか。



心理学には「観察学習」という考え方がある。

アルバート・バンデューラの研究で広く知られるようになった考え方で、人は自分が直接経験したことだけでなく、他者の行動や、その行動の結果を観察することによっても学ぶ。

子どもにとって親や教師など身近な大人は、当然、その「モデル」の一つになりうる。

大人が言った内容だけではない。

大人がどう振る舞うのかも、子どもの学習環境の一部になる。

これは、「親の悪いところは全部子どもにうつる」という話ではない。

そんな単純なものではない。

子どもには気質もあれば、友人関係もある。
学校もあり、文化もあり、自分自身の判断もある。

ただ、大人の姿を見て学ぶという経路が存在することは、心理学ではかなり長く研究されてきた。

そしてもう一つ、「感情の社会化」という研究領域がある。

子どもは感情の扱い方についても、周囲の大人との関係から多くを経験する。

怒ったとき、大人はどうするのか。
悲しんでいる人にどう接するのか。
誰かの恐怖を笑うのか。
失敗した人を責めるのか。
自分の感情をどう表すのか。

研究では、親が子どもの感情にどう反応するかだけでなく、大人自身が感情をどう表現するか、感情についてどう話すかといったことも、子どもの情緒的・社会的発達との関連が検討されている。

もちろん、この研究領域には相関研究も多い。

だから、「こういう親なら、こういう子になる」と一直線に結ぶことはできない。

それでも一つだけ、妙に心に残る。

子どもにとって大人とは、何かを「教えてくる人」である前に、

感情をどう扱って生きるのかを、目の前でやっている人でもある。

ということだ。



『バリー・リンドン』には、それを象徴するような場面がある。

音楽が演奏されている、人々の集まった場で、ブリンドンはバリーへの敵意を隠さなくなる。

そしてバリーは、ついに彼に襲いかかる。

それまで積み上げてきた格式も、礼儀も、社会的な体面も吹き飛ぶ。

バリーは暴力を振るう。

この瞬間は、彼の社会的転落を決定づける場面でもある。

彼は貴族社会に入り込むために、長い時間をかけて身なりを整え、人脈を作り、財産を使ってきた。

ところが最後には、自分の怒りを制御できない姿を、まさにその社会の人々の前にさらしてしまう。

奇妙なのは、バリーが長いあいだ守ろうとしてきたのが「家族」なのか「自分の体面」なのか、だんだん分からなくなることだ。

ブリンドンに腹を立てるのも、家族を乱されたからなのかもしれない。

自分を侮辱されたからなのかもしれない。

愛するブライアンを守りたい気持ちも、本物だっただろう。

爵位への執着も、本物だった。

たぶん人間は、そんなふうに複数のものを同時に守ろうとする。

問題は、その優先順位が、言葉より行動に出てしまうことだ。



これは、子どもと関わる日常でも同じなのかもしれない。

私たちは子どもに、

「あなたが一番大切」

と言うことができる。

でも夕方、忙しいときに話しかけられ、

「ちょっと今無理」

とスマートフォンを見続けることもある。

教師なら、

「間違えてもいい教室にしよう」

と言った十分後、

「そこ昨日もやったよね」

と、思わず苛立ちをにじませることもある。

「友達に優しく」と言いながら、職員室で誰かの失敗を笑うことだってあるかもしれない。

どれも、人間なら起きる。

だからこれは、「大人は常に模範的に振る舞うべきだ」という話ではない。

そんな生活は息苦しい。

むしろ子どもが見ているからこそ、大人も失敗していいのだと思う。

怒りすぎたあと、

「あれは言いすぎた」

と言える。

約束を守れなかったとき、

「ごめん」

と言える。

自分の都合を優先してしまったと気づいたら、

「さっきは自分のことでいっぱいだった」

と話せる。

それもまた、子どもの前で大人が見せる一つの生き方になる。

観察されているのは「完璧さ」だけではない。

間違ったあとに何をするのかも、たぶん見られている。



映画の終盤、バリーとブリンドンは決闘をする。

ここでバリーは、不思議な選択をする。

ブリンドンが一度撃つことに失敗したあと、バリーは自分の弾を地面に撃つ。

もう終わりにしよう、とでもいうように。

それまで散々間違ってきた男が、最後になって一度だけ、相手を殺さないという選択をする。

しかし、それで過去が消えるわけではない。

ブリンドンは決闘を終わらせない。

そしてバリーは撃たれる。

この場面が苦しいのは、善い行動を一度すれば、すべてが帳消しになるわけではないからだ。

人間関係には履歴がある。

積み重なった時間がある。

「本当は愛していた」

「本当は家族を守りたかった」

という気持ちだけでは届かない場所がある。

子どもとの関係も、たぶんそうなのだろう。

私たちが何を思っているかと、

子どもが何を受け取っているかは、

同じとは限らない。



『バリー・リンドン』の最後には、あまりにも有名な言葉が置かれる。

彼らはもう皆、死んでいる。
善人も悪人も、美しい者も醜い者も、裕福な者も貧しい者も、今では皆平等だ、と。

三時間以上かけて描かれた欲望も、爵位も、財産も、決闘も、最後にはすべて消えてしまう。

それでも私は、映画を観終わったあと、ブリンドンが子どもの頃に見ていた光景のことを考えてしまう。

バリーは彼に、何を教えたかったのだろう。

それは分からない。

でもブリンドンは、バリーが何を守ろうとしていたのかを、長い時間をかけて見ていた。

私たちもまた、子どもたちに毎日何かを教えている。

授業で。
食卓で。
送り迎えの車の中で。
誰かと電話している横顔で。
失敗したときの顔で。

教えようとしていない時間にも。

では、もし子どもが、

私たちの「言ったこと」ではなく、

私たちが毎日の小さな選択の中で守っていたものだけを見ていたとしたら。

そこには、どんな大人が映っているだろう。

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