『ウリッコ』を読んで、自分がなぜ売らなかったのかを考えている
『ウリッコ』(原作:殺野高菜・作画:大森かなた, 講談社, 2025~)、コミックDAYSで3話まで無料(2025/11/18まで)。10話+おまけまでチケット無料(11/28まで)。11/12に単行本1巻が出たばかりらしい。
※以下の記事内リンクはいずれも無料試し読み版。
マンガ家を目指すには、キズミが持っていなさすぎる
歌舞伎町のカレー食べ放題マンガ喫茶を住まいに、1回15000円の「ぴ活」(売春)で生計を立てて生きていたキズミ。売春仲間から「マンガ家の年収は3000万」という話を聞き、2000人とやって3000万を稼ぐんじゃなくて、マンガ家になろうと思いつく。デビューしたら見晴らしのいい丘の上に持ち家を構えて保護犬を飼うんだなどと語り始め、「オマエどこ見てしゃべってんの?」と突っ込まれたりする。
自分はマンガ家マンガが大好きなので、面白くて一気に読んだ。特に、
「私でもイケんじゃね?」と授業中の落書きが得意だったレベルで描き始めるも、ペン入れや乾かないホワイトなど次々と難所にぶつかった挙げ句、別人が描いたような絵に仕上がってブチ切れる。
今まではなんの関心もなかった世の中の人々がなにを面白いと感じているのか、マンガを面白くするために調べ始める。
自分にはストーリーの引き出しがまったくないことを気にも留めず、ウリ相手から教えてもらった話を次々に吸収してネタにしようとする。
なんてあたりは、従来のマンガ家マンガにはあまりなかった描写な気がする。『まんが道』(藤子不二雄(A), 少年画報社, 1977)でも『バクマン。』(大場つぐみ/小畑健, 集英社, 2008)でも、主人公は絵を描くのが好きで得意なことは前提条件だった。キズミはそれまでマンガを読んだことすらなかったのだ。
売春だけで満足するには、キズミがナチュラルに賢い
マンガ家マンガとして異色なのはもう1点。『ウリッコ』が「売れっ子」マンガ家になるというダジャレだけで完結するのかどうか。それとも創作と売春との間で更になにかが語られるのか。
『明日、私は誰かのカノジョ』(をのひなお, 小学館, 2019)・『みいちゃんと山田さん』(亜月ねね, 講談社, 2024~)など、体を売る側の視点から描かれたマンガは近年ホットな題材だ。売春はよくないことだと、主人公や周囲の人々がうっすら感じながらも、そこから抜け出せずにいる状況や構造が描かれる。一方、『ウリッコ』のキズミは、そうした罪悪感の枠組みの外にいるように見える。
まず、マンガ喫茶を拠点にして売春に励むというのが賢い。無料カレーと付属の風呂で、実態ホームレスでもまあまあ快適に暮らすことができる。ホテトルや自宅へのデリヘルなどと違って1対1の密室での行為ではないから、暴力を伴うプレイの強要や殺されてしまうリスクが段違いに低くなる。利用に身分証を求められる店もあることから、ウリ相手の身元がたどれる場合もある。
立ちんぼではなくて比較的安全なマンガ喫茶を選択し、1人いくらだから今月はあと何人と、計算しながらキズミは売春を行っている。一方的に搾取される側ではなくて、限られた選択肢の中からとはいえ自分の意志での選択だ。そしてそこに罪悪感は一切ない。「楽だから」そうしていると。売春仲間のホスト狂いを「周りが最悪だからってこっちまで馬鹿にならないといけないことないよね」と突き放す。
マンガを描く面白さにのめり込んでいきながらも、キズミが売春で生計を立てている状況は、10話の時点ではまだ変わっていない。今後の展開でどうなるかはわからないが、マンガ家という今となっては立派な職業と、売春という犯罪とをどう折り合いをつけていくのか。このあたりが単なる面白いマンガ家マンガとは一線を画するポイントになりそうだ。
そもそも体を売ってなにが悪いのか
倫理的に問題のある発想かもしれないが、そもそも売春のなにが悪いのか。法に触れるからという以外で、道を踏み外した少女たちにどのような理屈が通じるのだろう。望まない妊娠によって自分の体を傷つけてしまう。なるほど。すると、子どもが欲しくて経済的にも余裕があって育てるつもりの人であれば売春は許されるのか。子宮摘出して妊娠の可能性がない人であれば売春できてイイネ!となるのか。
性感染症のリスクという問題もあるが、キズミに最初その知識はなかったものの、医療機関を受診して適切な治療を受けている。治療中のキズミが売春を控えていたことなどからも、作者は敢えてこの穴をふさいでいるように思われる。
自分がキズミぐらいの年齢の頃は「ぴ活」はなくて、「愛人バンク」「援助交際」だった。特定の人と愛人契約を結ぶ愛人バンクは当時の自分よりもっと大人の女性向けで、女子高生が売春をする援助交際はまだ田舎まで浸透していなかった。流行りではなかったのだ。当時あったと考えられる未成年者の売春は、たとえば家族ぐるみだったり、反社会組織によるものだったり、表面化することが憚られるようなものだったと想像する。
その後、実際に風俗店で働く女性と知り合う機会もあったが、そのときに感じたのは「自分にはできないことをできてすごい!」という畏敬の念だった。これが「自分には食べられないウンコを食べられてすごい!」と何が違うのか、うまく説明できない。
仕事で他人の排泄物を処理することはある。その身体的な負荷と、売春の心理的な負荷・社会的なタブーの間に、自分はなぜ境界線を引き、「自分にはできない」という感情を抱くのか。他人のウンコの世話をできる自分がなにを言っているのか。
それでもキズミの売春を今もすごいと思っているかと言うと違う。キズミ世代に響かないことは百も承知なのだが、年をとった今の自分からすると、あまりにも「もったいない」。15000円では全然足りない、お金では贖えないものを売ってしまっている。こんないかにも年寄りが言いそうな常識的なことしか言えない自分が情けない。
キズミにはお金がないのだ。体を売るのをやめて、刺身の上にタンポポをのせる工場で何時間も働いたらもったいなくないのか。時給は低く、拘束時間が長く、疲労度もはるかに高い。売春では自尊心が失われるなどと言うが、長時間の単純肉体労働だって同じようにやられる。数十分間、目をつぶっていれば終わる売春のほうがよっぽどいいのではないか。
キズミはマンガを描き始めた。今まで言葉を交わすことはなかったマンガ喫茶の店員や編集者に出会った。この先、マンガ家として成功し、売春をする必要はなくなる展開になるかもしれない。そのとき、マンガに出会わなかった売春仲間たちはただ置き去りにされてしまうのだろうか。『ウリッコ』の今後の展開にハードルを上げまくっている。
