日本近代史:軍部の台頭 「満蒙権益」の拡大と「満州事変」
今回の記事では、「満州事変」について少し紹介してみたいと思います。
満州と満蒙
満州は、中国東北部にある遼寧省、吉林省、黒竜江省の東北3省を指す旧称のことです。遼寧省は、日本が満州国を建国してからは奉天省と呼ばれるようになります。

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満蒙は、満州と蒙古族の居住地である蒙古をあわせた地域のことを言います。満州事変は日本の軍部が「満蒙権益」に固執した結果生じた事件でした。
なぜ戦前の日本は「満蒙権益」に固執したのでしょうか。そこには小村寿太郎が生み出したとされる「満蒙」概念があったからのようです。
小村寿太郎の「満蒙」概念
小村寿太郎は、日露戦争の講和条約であるポーツマス条約を結んだ日本の外務大臣です。ポーツマス条約によって、日本はロシアから長春・旅順間の東清鉄道南満州支線とその関連する利権(炭鉱利権、河川の利権など)を獲得しました。これをきっかけとして、日本はこれまでの「島嶼国家」から「大陸国家」への道に進んでいくようです。
これを機に、小村の満洲観も変化していった。日露戦勝によりロシアから南満洲の権益を引き継いだことによって、それまでの「島嶼国家」から脱して「大陸国家」への道を歩むことを、小村は画策するようになる。
中国進出に遅れをとった米国は、南満州鉄道を日本と共同経営しようと考えました。そして、1905年、桂太郎首相とアメリカの実業家のハリマンとの間でハリマン協定が結ばれます。
桂太郎とハリマンが覚書を結ぶのですが、これに小村寿太郎は猛反発し、協定を破棄させます。小村がいかに「満蒙権益」に固執し始めたのかがわかりますね。
そう考えた小村は、桂と元老を説得して、一〇月二三日に破棄させたのである。仮契約とはいえ、政府内で一度は決定されたハリマンとの覚書を一方的に破棄させるほどに、小村の満洲経営観は先鋭化しつつあった。
「満蒙の危機」「満蒙は日本の生命線」
一方、日本の満蒙権益の拡大に対して、中国国内では国土回復運動が起こります。これを脅威に感じた日本の右翼や軍部は、幣原の平和外交を非難するために「満蒙の危機」というスローガンを掲げ始めました。
関東軍参謀の石原莞爾は『満蒙問題私見』において、日本が満州を占領したのち、満州で獲得した資源によって日米戦争(世界最終戦争)を遂行することを主張していました。松岡洋右の「満蒙は日本の生命線である」という言葉も有名ですね。

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満州事変に至るまでの近代日本史を時系列でまとめました。
1931年6月27日 中村大尉事件
陸軍参謀の中村震太郎大尉が間島地方(北朝鮮、ロシアと接する地域)を密偵旅行している際に、中国軍によって殺害されました。満州事件の一因になりました。
1931年7月2日 万宝山事件
日本が権益を拡大していた満洲には、日本統治下の朝鮮半島から多くの朝鮮人の農民が移住していました。彼らの多くは水田稲作に従事し、満洲の未開地を切り拓いていました。中国の長春近くの万宝山で朝鮮人の農民と中国人が水利権と耕作権をめぐって衝突しました。
1931年9月18日 柳条湖事件(満州事変)
1931年9月18日の夜、関東軍は満州全土の占領を計画した上で、柳条湖の南満州鉄道を爆破しました。九一八事変とも呼ばれます。関東軍高級参謀の板垣征四郎、関東軍主任参謀の石原莞爾の謀略で自分達の線路を爆破しました。関東軍は、張学良軍による破壊工作である、として直ちに軍事行動を起こしました。
東京の対応はどうだったのでしょうか。
時の内閣総理大臣は若槻禮次郎、外相は幣原喜重郎でした。若槻や幣原は米国との関係悪化を恐れて、不拡大方針を掲げ、軍部・関東軍を牽制しようとしました。しかしながら、関東軍の暴走は抑えられませんでした。
1932年1月7日 スティムソン=ドクトリンの発表
満州事変の時の米国の国務長官であったスティムソンは満州国に対して不承認を表明しました。スティムソン=ドクトリンと呼ばれます。
1932年1月28日 第一次上海事変
満州事変に対して、中国国内から反発の声があがりました。特に上海では、激しい抗日ボイコット運動が起き、日中間の緊張が最高潮に達していました。そんな中、関東軍の自作自演で日本人僧侶を暗殺します。これを機に、現地の第十九路軍と日本軍が激突しました。この折、鉄条網に突撃して爆死した肉弾三勇士がのちに日本軍に美化されるようになりました。
1932年3月1日 満州国建国
満州国の初代国務総理は鄭孝胥(ていこうしょ)、標語は「五族共和」と「王道楽土」でした。五族共和とは、日、朝、漢、蒙、満の5民族でユートピアの国を作ろうというスローガンです。王道楽土は、東洋による徳で満州国を統治しよう、というスローガンです。
最後に
このように、戦前の日本は満蒙権益に取り憑かれていました。この後、ご承知の通りでしょうが、「大東亜共栄圏」を掲げて、あろうことか日米戦争への道を突き進み、日本は破滅していくのです。
戦前の日本は国際情勢の認識ができておらず、他国からの客観的な視座を欠いていたのかもしれません。戦争と外交は表裏一体のものである、とか、外交の失敗の先に戦争がある、という言葉を耳にすることがあります。歴史の教訓を何度も何度も噛み締めなければなりません。
参考文献
『外務官僚たちの大東亜共栄圏』熊本 史雄 新潮選書
『山川 日本史用語集』
『詳説 日本史図録』
